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> 論文・エッセイ

読者より:右翼に(進んで)併呑される人々 

大変遅くなりましたが、新年の御挨拶を申し上げます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

昨年は『論座』の休刊に加え、『ロスジェネ』、『思想地図』、『m9』(これは3号で年内休刊となりましたが)といった新興オピニオン誌の創刊が相次ぐなど、論壇にいくつかの動きが見られた年でありました。しかしながらそうした動きが日本の言論に新たな風を吹き込む要因になりえたかと言えば、答えは否でありましょう。彼ら自称新興勢力は、既に旧来の雑誌がそうであるように、「右でも左でもない」路線ないしは明確な排外・差別主義の新たな一変奏曲として加わったに過ぎず、その表面は変わっても病根は同じくしていると見るべきだと私は考えております。その証拠に、新年早々『週刊金曜日』はその編集委員に、自ら「保守リベラル」を名乗り「左右のバカの壁」なるものの打破を唱える中島岳志を迎えて、金さんがおっしゃるところの「護憲派のポピュリズム化」 (注1)をより一層推進しています。

近年ではこのような一見して従来の右派・左派双方から距離を取りつつ両者を乗り越えようとするような自己規定が大変に流行しているようです(最も明瞭な事例は「超左翼マガジン」と自称する『ロスジェネ』の存在です)。しかし、こうしたことを異口同音に唱える人びとが、本当に言論を新たなステップへと導くことが出来るのかは、非常に疑わしいところです。彼らの言論は相互に驚くほど似通っており、そこに革新的な思考の萌芽や自律性を見出すのは大変難しいからです。また、『金曜日』の編集委員であり、『ロスジェネ』の中心的論客であるところの雨宮処凛などに代表されるように、左派と右派の共闘可能性について熱心に繰り返し語る人もありますが、これも同じく怪しい。なぜならば彼(女)らが近年クローズアップされることの多い貧困の問題を、どこまで歴史的かつ世界的な視点から考えていこうとしているのか、そこがいつまでたっても見えてこないからです(注2) 。いや、むしろ赤木智弘(注3) などがそうであるように、そういった論理的な自己省察を、当事者感覚や現場のアクティヴィズムを偽装することによって、最初から回避(あるいは嘲笑さえ)してみせる態度の方が優勢なのではないでしょうか。本来、問題の理論的な把握は、社会的実践によって退けられるものではなく、むしろ相互に補い合い、さらに止揚が可能となるような関係にあるはずなのですが、現在の社会的な運動には、前者を後者によって切り捨てる傾向が見え隠れしているように思われます (注4)

素朴な生活の論理から運動や思想・言論を立ち上げるのは良いことですが、素朴さゆえの誤謬をも伴うそれを、いつまでも「生の声」として絶対化し、放置し、さらにそれを是正しようとするものに丸呑みさえさせようとするのは困ったものです。一度でも言論人として筆をとったからには、より適切な方向へと自分たちの運動を導いていく責務が生じるはずです。「多少の瑕疵があろうとも問題解決に向けて前進できるのだからよいではないか」という功利主義は、敵対勢力にその瑕疵を突かれたときに、狼狽し居直る見苦しさによって、いずれ必ず自分たちに手痛いしっぺ返しを食わせることでしょう。いずれにせよ、このような自省を欠いた言論が流通する中で『蟹工船』ブームなどと言われても、小林多喜二が単なる一過性の消費財として提供されているだけのように思えます。

ところで金さんは「<佐藤優現象>批判」において、「人民戦線」的な思考の罠についての御指摘をなさっておられましたね。日本のリベラルは、護憲・反ファシズムの旗を掲げつつ、実質的には国益主義的な方向への再編成と集団転向を行いつつある、と。

反ファシズムという一点に限って、左派が右派に対し体験的な共感を覚えるという現象が過去になかったわけではありません。例えば羽仁五郎は、リベラル保守の代表とも言える吉田茂に対して、第二次大戦末期、共に獄中にあったという意味での同朋意識を表明しています(『自伝的戦後史』などを参照)。しかし羽仁は別段、吉田の全ての施策と言動を肯定してはいません。というよりも、そうした個人的な共通体験による共感にもかかわらず、多くの事象においてその意見を異にし、むしろ批判的だったのではないでしょうか。

それでは現在、左右の共闘ないしは超克を唱える勢力はどうでしょう。金さんには改めて申し上げる必要もないほどに答えは明らかですね。佐藤優を重用するような思考の混乱した言論人に代表されるように、彼らは結局のところ国民主義の桎梏を抜け出ることが出来ず、否、抜け出ようとするそぶりすら見せず、むしろそこに居直りつつあります。彼らが試みているのは、左右の言論の止揚などではなく、むしろ右派に対する全面的な譲歩と後退であり、自らの非倫理性を「反ファシズム」という旗を掲げることによって、あたかも良心的であるかのように偽装しつつ、実質的には戦争と差別と全体主義に対してこの上なく寛容な態度を示して、自らの生き残りをはかることでしょう。このようなリベラルを、いったい誰が信頼するというのでしょうか。なんのことはない、リベラルは自己崩壊の道をひた走っているのです。

具体的な事例としては、金さんがあげていた東浩紀の言論がありますね。彼は、差別に対しても寛容な態度をとれる「拡張されたリベラル」こそが求められており、むしろ反差別の議論は、その「不寛容さ」ゆえに支持を失いつつあると言いたいようですが、私の認識は正反対のところにあります。

ここで思い返すべきは、あの忌まわしい『マンガ嫌韓流』における「反差別」のレトリックです。この本ではまず、日本人は差別の主体ではなく、むしろその被害者なのだ、という修辞によって日・朝/韓の立ち位置が反転させられます。そしてその上で、この「差別」を打破した「真の日韓友好」の必要性を日本人(著者)の方が言い出すという形でストーリーが結ばれておりました。

つまり、あくまでこの本の著者の主観的にではありますが、『嫌韓流』は「反差別」のレトリックを伴って描かれていると言えます。そして、このような「人権」概念の乱用こそが現代右翼の武器であることは、反中国ないしは反朝鮮の言論を見ても明白です(注5)

これに対して東のような「拡張されたリベラル」は、「差別主義者に対する寛容さ」を説きます。このとき、「差別の自由を許そう」と言うリベラルと、「差別を許すな!」と言う右翼と、いったいどちらの言論が倫理的に見えるでしょうか。私は後者だと思います。リベラルが支持を失ったのは、東の言う「リベラルがリベラルでない」などというような要因からではなく、むしろ東のような「拡張されたリベラル」が唱える言論の非倫理性が誰の目にも明白であることによるものでしょう。言わば自業自得です。

加えて言うならば、このような事態に直面しても、「差別する自由」を求める大衆が(困ったことではあるが)多々存在しているのだから、それは「寛容に」認めてやろうではないか、というような大衆蔑視の感覚が、その行間から透けて見えるというのもあるでしょう。このような議論を聞かされれば、自分は差別など肯定していないのだから、この論者は非倫理的な上に、自分たち読者を馬鹿にしている鼻持ちならない人間だと考え、反発を抱くのが、極めて自然であり、また理の通ったことであります(注6)

長々と書いてしまいましたが、私は何も、左派は右派の言論と存在を一切無視すべきだと言いたいのではありません。ただ、右派の言論に目を配るということと、それを容認し重用しさえするということとは、全くの別の問題だと言いたいのです。そして左派が右派の言論を有効に用いることができるとすれば、それはその肯定ないしは擦り寄りによってではなく、あくまでそこに現れる排外主義や国益主義などに対して否定の立場を堅持しながら、そうした言論がどのような基盤から出てくるのか、あるいは何故流通してしまうのか、という問題を踏まえて自らの視点を研磨していくという態度をとったときにのみ可能となるだろうと考えています。これこそ現代日本のリベラルに最も欠けた理論的自己省察の姿勢であり、このような状況が続く限り、論壇は淀んだ空気の中、リベラルがどこまでも自壊を示し、支持を失い続ける空間としてのみ機能することでありましょう。それに左翼が付き合う必要性は、もちろん本来全くないのですが。

新年早々、全く明るい展望の見えない話題で申し訳ありません。

それではまた。


(注1) ところでこれらの人々の着地点の一つとして近年、白洲次郎が見出されつつあるように思います。白洲に関する文献の相次ぐ刊行に続き、今年はNHKが特番のドラマを3回に分けて放送するようですが、これに先駆けて、日本国憲法の起源を日本人の憲法学者たちが起草した草案に見るという筋書きの映画『日本の青空』が2007年には公開されています。この映画は全国の「九条の会」などの「護憲派」が製作費への募金から宣伝・発券などに至るまで協力して成功したもので、医療行政と生存権の問題を扱う第二弾が今年から製作されるそうです。一作目の劇中では、敗戦後の憲法学者たちの議論に加え、GHQと丁々発止のやり取りを見せる白洲次郎の姿がクローズアップされます。実際、本作の脚本家は、護憲を訴える映画のシナリオを依頼された際、一度は白洲をメインに据えようかとも考えたようです。こうした筋書きを好んで受けいれる現在の「護憲派」は、おそらく日本国憲法が日本人によって起草され、他国からの圧力に対しても堂々と渡り合った上で制定されていなければ気が済まないのでしょう。どこまでいってもナルシスティックなその態度は、実はGHQによって押し付けられた憲法が日本の国体を破壊してしまったと嘆いてみせる、自己憐憫的な右翼の議論と表裏一体でしかないというのに。

(注2)雨宮自身の出自にもよるのでしょうが、靖国神社などに代表される歴史問題を驚くほど無頓着に切り捨てられる態度には、危惧を覚えざるをえません。たとえば、非正規労働者に対して投げつけられる自己責任論は、経済的変動によって流動化を余儀なくされた人間の選択を、自由意志に基づくものであるとして一顧だにしないという意味で、植民地時代の朝鮮半島からの労働力流入を「好きで日本へやってきたのだから補償の必要などないのに、今になって何を言うか」として、変動をもたらした政治権力の責任追及をあらかじめ回避する右翼の言論と、本来その思想の基盤を完全に同じくしているわけですから、こうした歴史問題を軽視することは出来ないはずなのですが。

(注3)彼は、貧困問題を左派批判の文脈で語ることに存在意義を見出されている論客であると私は捉えています。それは『論座』のみならず、『諸君!』および『m9』のような新旧右派メディアでも重用されていることから明白です。彼の議論はまず、貧困問題を左派が独占的に扱うイシューであるかのように位置づけた上で、それがなされていないことを批判しますが、ここに既に詐術があります。国民主義ないしは自民族中心主義的な福祉政策ならば、右翼政権であっても行ってきた歴史がいくらでもあるからです。だからそのような議論ならばいくらでも右翼は耳を傾けることでしょう。こうした欺瞞に基づく議論は、お決まりの「バカな左翼より話の分かる右翼」という既に古典的ですらある(つまり問題の解決に何の役にも立たなかったばかりか、悪化さえ招いた)レトリックを忠実になぞっていくことになります。論壇における赤木の存在は、それ自体が左派とイデオロギー対立の否定という意味を持っているのです。そして、「あるべき左派」を想定するのではなく、だらしのない現在のリベラル(「左翼」とは申しますまい。彼らはそもそも反差別主義の立場に立って平等性を希求することをしていないからです)のあり方を本質化して「左派批判」を繰り返す限り、そうなるのが必然です。

(注4)これは一つには、たとえば「派遣村」での野党や護憲勢力の活動を「無関係な問題への政治的動員を企んでいる」として攻撃するような右派の存在にもよるものでしょう。これ自体はお話にならない難癖に過ぎませんが(そもそも政党や運動団体は何らかの社会的集団や階層を代表・代弁することに存在意義があるわけですから、集票やオルグに回るのが当然で、そこで主導権を奪われるのが嫌ならば与党や右派も積極的に介入すればいいだけの話です。それをしないのは、貧困層に対する無関心ないしは敵対の表明と考えるべきですね)、しかしそれ以上に、日本の「市民運動」が内在してきた、ある種の反主知主義・経験至上主義によるところが大きいと私は思います。これはベ平連の小田実の受容に顕著です。彼自身は大変なインテリであるはずなのですが、そこは巧妙に見逃され、実践の現場で、しかも特定の政党によらずして(これも重要)活動をし続けたことのみが大きくクローズアップされるからです。

(注5) このような右派による「人権」攻勢に、あろうことか反戦・護憲を唱える市民勢力が、しばしば同調か、よくて沈黙程度の対応しか取れないことは大きな問題です。彼らの理論嫌いの姿勢は、「人権」概念を巡る政治的な闘争の上で自分たちが引き裂かれていることにすら気付けない現状を生み出していると言えるでしょう。

(注6)南京大虐殺についての見解も同様でしょう。右翼が「まぼろし」説を何度論破されても繰り返すのは、彼らが「虐殺などあっても無くてもどうでもいいではないか、それは個人の解釈次第なのだから」などという、いい加減な議論を、根本的に拒否していることを示しています。そしてその直感だけは正しいのです。
  • 2009.01.23 00:00 
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