> スポンサー広告

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  • --.--.-- --:-- 
  • Comment(-) |
  • Trackback(-) |
  • URL |

> 論文・エッセイ

姜徳相「日本の植民地支配の未清算と「在日」韓国・朝鮮人」 

(管理人注:以下は、「日韓の女性と歴史を考える会」の第1回総会(2008年4月6日)に行われた、姜徳相氏(在日韓人歴史資料館館長・元滋賀県立大学教授)の講演記録であり、「日韓の女性と歴史を考える会」会報第3号(2008年7月発行)に掲載されたものである(このブログでのアップにあたっては、必要最小限の若干の修正を行っている)。転載を許可された、姜氏、「日韓の女性と歴史を考える会」の方々に、御礼申し上げる。)



私には名前が四つある

 私は1932年生まれである。1934年に家族とともに日本へ渡ってきた。東京・渋谷で生活を始めることになるが、朝鮮人は、屑屋、うんこ屋(屎尿汲み取り業)、飴屋(朝鮮飴売り)をやっていた。貧しかったが、当時としては珍しく幼稚園に入園することができた。1938年に小学校に入学した。戦争中だったので、戦争ごっこではいつも「支那軍」になり、そのことが心の傷として残った。喧嘩があっても最後は「朝鮮人野郎」で終わった。同じ学年にいた、金玉子ちゃんはいつも名前のことでいじめられていた。しかし、その時は金玉子さんのことを助けてあげられなくて、私はそのことを今でも後悔している。

 私には、名前が四つある。日本に来て屑屋をしていた父は「中村」を名乗ることになったので、幼稚園の時には私の名字は「中村」であった。小学校に入ると本名の姜徳相となったが、読み方は「キョウ・トクソウ」であった。小学校3年生の時に、創氏改名で担任の先生から「神農」という名前をつけられ、大学4年まで「シンノウ」と呼ばれた。大学卒業後にやっと本名の姜徳相の「カン・ドクサン」を名乗り、現在にいたる。したがって四つの名前がある私は、今でもその時々によって「中村」「キョウ・トクソウ」「神農」「カン・ドクサン」と呼ばれている。

 母は協和会(朝鮮人同化政策のための組織)に参加することになったが、日本人が正座するのに驚いたそうだ。朝鮮では、正座をするのは罰せられる時だったからである。私も中学1年の時に協和会に参加し、白服を着て「禊ぎ」をやらされた。1943年になると、父は屑屋から運送屋になった。生活苦から、当時朝鮮人はマンホールを持ってきてしまうことがあった。どぶろく(韓国の濁り酒)を警官に振る舞い、仲良くなったという。またこの頃に、関東大震災の虐殺の話を聞いた。朝鮮人には明日がないので、酒と博打を繰り返し喧嘩の毎日だったようだ。代々木と原宿の間に「お召し列車」(天皇が特別に乗る列車をこう呼ぶ)の駅があったが、「お召し列車」が来るときは運送屋にいた朝鮮人は警察に一晩泊まらされた。予備検束というもので、朝鮮人は治安対象であったのである。私たちは朝鮮人差別に小さく縮こまっていた。その一方で、私は皇国少年になった。つまり天皇制に近づくことによって差別から逃れようとしていたのである。

 小学5年のときに祖父が死亡した。物心ついて初めて朝鮮半島に渡った。関釜連絡船で釜山に着くと、その当時の釜山の印象は、ハンセン病患者が多かったということであった。もうひとつは、釜山で日本へ連行される朝鮮人の一群を見たことが鮮烈な思い出となっている。朝鮮での米の供出が始まり、役人が米の供出探しを始めていた。日本に帰るときに私が鎮海(日本海軍の基地があったところ)の駅で待っていると憲兵隊に連行されてしまった。治安第一主義で、朝鮮人の子どもまで治安対象となっていた。小学校から軍の学校に合格するために、担任の先生は私の戸籍を朝鮮戸籍から日本戸籍に勝手に変えてしまったことがあった。

 1945年3月10日の東京大空襲の時、B29(米軍の爆撃機)が低空で現れた。4月23日の空襲では、青山で黒こげになった死体を見た。死者の油がシミとなって残り、人の影となっていた。8月15日は、疎開先の宮城県で開墾作業をしていた。同時に蛸壺掘りもやらされていた。正午に最敬礼のままでラジオ放送を聞く。「作業は中止。流言蜚語に惑わされるな」と教員の話があった。しかし朝鮮人の私は、日本人の慟哭の場に入っていけない傍観者であった。すきま風が自分の体のなかを通り抜けた。自分は日本人ではないと実感した。しばらくすると朝鮮人は飲めや歌えやの騒ぎとなった。しかし私は日章旗を太極旗に作り替える場にも入っていけなかった。

 1950年、早稲田大学に入学した。朝鮮戦争が勃発する。その頃山辺健太郎さん(著書に『日本統治下の朝鮮』岩波新書、等がある)と出会う。当時、私は東洋史学科で中国史を勉強していたが、卒業論文のテーマを決めるときに山辺さんに「君は朝鮮人なのになぜ中国史を勉強するのか」と問われた。そして「朝鮮史を研究することが日本と朝鮮の架け橋になる」と言われた。その後の朝鮮近現代史研究で、朝鮮史は日本の鏡であることがわかった。


日本の対韓ナショナリズム

 最近5、6年の日本の対韓(朝鮮)ナショナリズムの一大昂揚に言及したうえでその歴史的背景を検証することにしたい。

 2002年9月小泉首相の平壌訪問以後、日本の世論はいわゆる拉致問題を軸に、急速に右傾化した。自称評論家、芸能人らがコメンテーターとなって拉致を非難、朝鮮の「悪」をあぶりだす井戸端会議が連日テレビや新聞、雑誌にみられるようになった。カラスの鳴かない日はあっても「救う会」のメンバーの動静が伝えられない日はないほどであった。誰かが声高に何かいうとすぐ一緒になって相対的に多数となり、さらにみんなが集まっていつの間にか絶対多数になってしまうようだった。排外主義を煽動された民衆は砂嵐のように舞いあがった。こうした論調のいきすぎに対して、良心的な人は暴力の報復を受けるおそれもあって沈黙を強いられた。良識ある言論は封殺された。

 忘れてはならないことは国家の犯罪である拉致が在日同胞にはね返ったことである。民族団体の建物が放火されたり、民族服の学校、生徒が危害を加えられることが続出し、民族服で登校しない学校も出現した。些細な問題で在日企業や組織が「法令違反」とされ大規模な捜索、弾圧を受ける事件も頻発したがマスコミはほとんど批判しなかった。

 個人的体験をいえば自宅近くのコピー屋の駐輪の仕方を注意したところ「ダマレ、朝鮮ヤロー」と反撃された。50余年ぶりに聞く「懐かしい」罵声であったが、その「ヤロー」は今まで黙っていたが、今やもうこの「朝鮮人奴」といえるのだという日本人の屈折した心境をみることができた。ある拉致家族のひとりはそれをようやく日本は「過去の植民地支配の贖罪という呪縛から放たれ拉致問題解決に本気で臨むことができる」と書いた。この一文と先述のコピー屋の「朝鮮ヤロー」は重なった心情である。つまり戦後、日本人を苦しませた植民地支配の「負の歴史」はこれで相殺できるということである。並行して「拉致」は現在進行形の国家犯罪であるが、「従軍慰安婦」も「強制連行」、「強制労働」も別の歴史的要因、すなわち「帝国臣民の戦時動員」にすぎない。または「時効」だという者も出現した。「『韓国併合』を韓国人の要請によったもの」とする出版物も出現した。「朝鮮人民の奴隷状態に留意」といったカイロ宣言を否定しようというのである。それは、大日本帝国の生成、発展、滅亡、再興の過程での対韓侵略、植民地支配無謬論の公然復活を意味する。

 ドイツとポーランドは歴史的に日韓の関係とよく似ているが、かりにポーランドでドイツ人を拉致する事件があったとすればドイツでも被拉致者救出のデモが起こるのは民族感情として当然である。しかし一方ドイツではドイツ、ポーランドの過去を直視し、憎しみや報復がエスカレートしていく行為に反対する世論が必ずある筈だ。そこに日本とドイツの過去をみる視線の違いを発見する人も多い。1945年8月は日本がその過去を直視する一番良い機会であったが、折からのアジア冷戦構造の最前線に立ったことを奇貨とする天皇制国体維持派が近隣アジア諸民族との関係を負の歴史として切り捨て、アメリカはその「国体維持派」の庇護者として影響力を強め、その分だけ対米従属の強い国となった。それがいわゆる戦後の「にわか民主主義」である。のちに再論するが、在日韓国人はその時代のいわゆる民主主義の虚妄性を知り尽くしている。戦後民主主義を謳歌していた時代の体験談を例にあげよう。

 25、6年前、私はあるテレビで日本の文部省検定教科書の隣国関係史の問題点を指摘した。するとこのような手紙が届いた。

「あなたはなぜ今更そのような昔のことをほじくっているのか、貴方のいうことが事実としても朝鮮人はもっと悪いでないか、チョンコ―〔朝高〕、つっぱり、ろくなことしてないでないか、そんなにいやだったら、さっさと帰ってくれ」という内容であった。「日本から朝鮮人をなくす会」なる団体を名乗るS・H(九州)から送られた手紙である。この人の文字はまだ幼くて、おそらく高校生か、高校卒業後まもない若者と思われる。手紙はいろんな意味で胸に突きささるものがあった。一つは日本民衆がかかえている朝鮮無知の深刻さを問い詰められた時のいらだちを読みとったことである。若者は個人としてそのいらだちを手紙や電話に託したわけだが、これが集団になったとき車内や駅で“朝鮮人学生”はいないかとさがし廻り、「朝高狩り」を敢行する日本の若者のエネルギーと同根のいらだちと思われた。世間を騒がしたパチンコ疑惑を含めてである。

 むろんS・H君の行動が普遍性を持っているとは思われない。むしろ逆の事実が数限りなくあることを知っているが、いわゆる戦後民主主義教育のなかで育った世代に属していることに朝鮮否定観の根の深さに戸惑いを感じた。歴史は繰り返さない、過去が同じ姿でおとずれることは決してありえない。にもかかわらず、このようにしばしば過去の足音そのものを聞くのはやりきれない。作家の金石範氏は飲み屋で酔っぱらってきたとき若者と肩がふれあったことから若者にいきなり、「この朝鮮ヤロー気をつけろ」といわれた。金さんはその時なぜこの若者が金さんを朝鮮人だと知っているのかギクリと驚いた。しかし考えてみると若者が金さんを朝鮮人と知っているわけでなくて、「朝鮮人」がバカヤローと同じことばの悪口であることに気がついて愕然としたそうである。どうしてそうなのか、答えは簡単である。

 日本も、朝鮮も民族の立場で過去の植民地時代の決着をつけていないからである。あれから60年余になろうとしている。過去はその過去そのものが存在した40年よりはるかに長い時間の経過した今も依然として未決のまま再び鎌首をもたげ、ポピュリストたちは日本民衆の心の底に澱のように沈む対韓ナショナリズムを激発させている。この10年間朝鮮有事に備えてのさまざまな戦時法体制の整備、「ガイドライン法」、国旗・国歌法、盗聴法、国民保護法、子どもに「愛国心」を注入するための教科書改訂、靖国参拝等々、再び国のために殉ずる国民づくりは急ピッチである。バブル経済が弾け日本の内向的閉息のなかで戦争になると平等になるというつくられた戦争の美しい絵本を前提に、いくさを望む声があるのが現実である。

 これから述べようとすることはなぜこのような動きになったのか、それはすべて過去の無知に起因する。今の危険な方向の再検討のたたき台として日本と朝鮮が過去どんな歴史を持ったのかどんなふれあいをもっていたのか、事実を確認しておこうということである。

 その意図は拉致問題が日本のナショナリズムの求心力として利用され、急速に右傾化が進んだことを見据え、それには日本の民衆の韓国の歴史、日韓関係史への無知という“共犯”があるということに尽きる。本来、日本の研究者の発言が望ましいのかもしれないし、方法論など違いがあるが、論議の前提にある事実の重さ、からみの複雑さをあらゆる議論の前提として知っていただきたい。前提にある事実の重さを知ることからすべて始まると確信する。


身勝手な「征韓論」

 「明治」維新以来百年の歴史の話をする。全体をこまかく論ずるわけにはいかない。日本史のまがり角、結節点をとりだし朝鮮史からみてみる。

 大雑把にいって、江戸時代までの日本と朝鮮は東アジアの中国文化圏にあって、本来、双子のような民族発展をとげてきたと思われる。発展段階論からいえばそれほど発展度には段差はなかった。江戸時代の儒教文化からいえば、日本は東アジアの辺境であり朝鮮に対して「庶子」意識をもっていたとさえいえる。イギリスとフランス、フランスとイタリアのような関係に比することができる。江戸時代の双方の関係は基本的には互恵平等の友好関係であった。

 この友好関係が破れ、逆転するのは天皇制排外ナショナリズムが掌握した権力、明治政府が文明と武力をふりかざし朝鮮を下敷きにした侵略政策を展開してからである。日本の「明治」時代はそのまがり角に必ず朝鮮問題が介在していた。

 例をあげてみれば、「明治」初年の大事件は、いわゆる「征韓論」である。明治政府はその成立とともに、「征韓論」を吹聴している。明治の元老の一人、木戸孝允は慶応4年12月14日の日記に「明朝岩倉〔具視〕御出立に付、前途之事件御下間あり。依て数件を言上す、尤其大なる事件二あり。一は速に天下の方向を一定し、使節を朝鮮に遣し、彼の無礼を問ひ、彼、若不服のときは鳴罪攻撃、其土大に神州の威を伸張せんことを願う、然るときは天下の陋習忽ち一変して速かに海外へ目的を定め随て百芸器機等、真に実事に相進み各内部を窺ひ人の短を誹り人の非を責め、各自不顧不省之悪弊一洗に至るは必定国地大益不可言ものあらん」(原文、句読点なし。以下の引用文も、読みやすくするため、適宜句読点を付す)。これは有名な日記である。

 つまり何の非もない朝鮮にいいがかりをつけ対外緊張をおこし、明治国家の危機をのりきり、内部統一をする目的で朝鮮との戦争を提起している。「内乱の憂いを外に転ずる」といった人もいる。余計なことだが、日本史はこの身勝手な侵略論を「征韓論」といっている。「征韓論」はないだろう。辞書を引くとよくわかるが、行きて正すが「征」で是が非を討つという論理観がある。われわれからいわせるといまもってこの用語が生きていることに憤慨にたえない。括弧づきにさえしない。ともあれこの侵略論が1873年、西郷隆盛・板垣退助らの下野、すなわち明治政府で誰が指導権をにぎるかでの争いを生んだ「征韓論」となることはあきらかである。明治政府がまっ二つにわれたのである。  

 これは日本史のまがり角で朝鮮問題が出てきた最初の事件である。より重要なのは「征韓」を“する”“しない”で分裂したのではない。政権内の誰が指導権を掌握して、いつ「征韓」を実践するかの問題であった。従って権力から西郷、板垣などを追いだした2年後に木戸、大久保政権が敢行した「征韓論」実践、すなわち1875年の雲揚号による朝鮮江華島砲撃事件と続いた。その「問罪」の形で「砲艦外交」で強要したのが、両国の近代的な外交関係の出発点となった江華条約である。

 江華条約が生みだした江華体制とはなにか。それは20年前に日本が欧米に強要された安政の不平等条約すなわ領事裁判権、関税従価5%、紙幣交換による日本産金の大量流出といった、屈辱的体制をそのまま再現拡大して朝鮮に強要したものであることはあまりによく知られている事実である。

 日本の幕末から「明治」初年にかけては、不平等体制打破は「内なる痛み」という言葉で表現される、国民的課題であった。それは対欧米との不平等条約是正ということであった。

 鹿鳴館文化というのはその涙ぐましい形である。しかし日本はその内なる痛みを朝鮮に転嫁することで、自分の矛盾を解消したのである。日本の新聞は次のようにも書いている。「演舞スル役者ノ面ニコソ黄白ノ差アレ、艦船ト云ヒ軍装ト云ヒ兵器ト云ヒ皆ナアメリカ製ニ類似シテ、而シテ朝鮮ノ人民亦タ当時ノ日本人民ニ類似セサル非ズ。日本政府ハ既ニ相役ヲ朝鮮人民ニ托シ、江華湾裏ニ舞シ日本人民ノ得意ナル模倣ノ妙技ヲ世界ニ米人ニモ公示シ」と得意がっている。安政条約が拡大強要されたことは、この新聞記事で読み取れるだろう。いわば、江華体制は「明治」日本が具体的に脱亜入欧をし、アジアに対する圧迫国に転化したものであった。そして、朝鮮の近代は日本によって不平等条約を強制されたことで手かせ足かせをはめられ、条約締結後30年にして、植民地へ転落してしまったのである。

 江華体制は被圧迫国であった日本が圧迫国に転じて平衡感覚をとりもどす作用をもったといいたい。


民権運動にとっての朝鮮問題

 さて次に、江華体制に反撥する朝鮮の反日暴動、1882年の壬午軍人運動がおこる。これは朝鮮民衆が略奪貿易に反撥し、反封建反侵略すなわち、日本公使館の撤去要求にむかった事件である。事件は1882年7月31日に日本に伝わるが、すると日本国内は朝鮮に獲得した日本の国権が侵害されたとして、朝鮮討つべしの排外論が沸きに沸く。つまり、日の丸が焼かれた、国権を侮辱されたと言い募る。そこには江華体制下の朝鮮民衆の呻吟はまるでみえない。朝鮮膺懲論はきわめて激しいものである。一例をあげると、『東京日日新聞』は8月1日、10月中旬まで63もの排外論説、社説を書きまくる。毎日書きまくるのである。「東京日日」だけではない。当時の新聞の一般的傾向である。福沢の『時事新報』などは急先鋒である。

 そこで朝鮮を“鶏頭”とか、“アメヤのデク助”とか“頑虎”とか、軽蔑の口調で表現する。

 そして例えば「武内〔宿禰〕、加藤〔清正〕の両君、まあ聞き給え、昔、先生達が奮発でカブトではない笠を脱がしたので鹿の肉だの飴だのべっ甲だの種々の品を貢ぐことになってもう安心と思っていたところ近頃は」……など、神功皇后[神話上の人物]や加藤清正の侵略の歴史を持ちだして、朝鮮は昔、日本の属国であった。その属国になめられてたまるかという形で“征伐”を煽動したのである。そして朝鮮など考えたこともない民衆を煽動し、いわゆる大衆的排外ナショナリズムをつくっていくのである。朝鮮飴を「この飴は頑固糖を以て製せしものにて口当り悪く味なく、只、上あご下あごについてねばり、恥もさらしあめの類なり」などの口上はその典型である。その証拠に当時の小学生の次のような歌を紹介しておこう。戦争の危機に際し、「しきしまの日本心を世に示すときにあふこそいともうれしき」「えびすらにやまと刀のきれ味をいざ知らしめんときぞ来れり」といさみにいさむわけである。政府や新聞の排外煽動にのせられたる子どもである。明治政府が民衆を自分たちの政策にまきこむのに成功を収めた例だと思われる。

 もう一つ壬午軍人運動で日本史がわすれてならないことは、民権論との関係である。1882年というと民権論は大衆的闘争のさなかにあって、秩父、加波山、福島、名古屋と、いわゆる「激化事件」が起こり、民衆は血を流して闘っている。しかし、朝鮮での軍人運動がおきると、高揚した民権論がこの排外ナショナリズムにまきこまれ、国権論に収れんしていくのである。例えば『自由新聞』をみてみよう。8月1日、2日付の社説で「朝鮮の政変」をのせる。論旨は朝鮮政府が排外的立場の大院君一派の行動を自由にしたこと、日本公使館員の王宮入りを拒否したことなどをあげ、朝鮮政府の責任を追及する形である。ところがもう一つ8月2日、4日に論説がのる。これは社説よりラジカルな排外を主張して即時出兵論となる。「事件は国民を恥かしむる如き不詳の日であり、事件は朝鮮人が日本を軽視するからであり、日本はこれに武威を示せ」「日本人の愛国心の高揚」をこの機会にせよと説く。戦争による国権伸張、そして愛国心を高揚せよというのである。この執筆者はなんと奥宮健之である。彼は自由党左派のラジカルな行動派である。1884年の名古屋事件で無期刑となる。その後、1910年大逆事件で辛徳秋水とともに死刑(刑執行は1911年)となる。つまり自由党の左派をわたり歩いた人物である。

 この人たちがどうして政府のいう排外論に直線的にまきこまれていくのか、そこに民権論のもつ落とし穴があったと思う。つまり内に民権、外に国権ということである。秩父事件の井上伝蔵も排外思想の持主だったという。むろん民選議員設立建白書に署名した板垣退助、江藤新平は右手に民権、左手に朝鮮侵略をいう人で、論外である。20数年前、民権百年が日本の歴史学者たちの間で話題になった。研究者のなかには憲法第9条をもつ日本国憲法は占領軍の押しつけ憲法ではない、自由民権の内発的系統があるという人もいた。「民権」をつぶしたのは「朝鮮排外論」であった。このとき、なぜ「壬午百年」、「反日暴動百年」の視点で民権がみられなかったのか、残念だと思う。日本史が民権を失敗の歴史として教訓化するには朝鮮差別がつまづきの石であったことを知らねばならぬ。そして『自由新聞』は84年9月に社説「国権拡張論」を発表し「彼の紛々擾々として官民相あつれきする事は逆に容易ならざるの害を我国に及ぼす、彼の壮年有志の熱心をして内事より外事に向はしめ、政府は之を利用して大いに国権拡張の方法を計画するを得ば内に以て、社会の安寧を固うし外に以て国権を海外に博する」と主張して解党するのである。

 民権派とは別に「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」といった「明治」のオピニオンリーダー福沢諭吉の朝鮮観を寸描すると、彼は「朝鮮は小野蛮国」「支那朝鮮等は愚鈍にして」「力を込めてその進歩を脅迫するのも可」を持論とし、金玉均ら開化派を利用し、支配を強めようとしたが、開化派のクーデター、甲申政変が失敗に終わると、足場を失ったと錯覚。「隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず……西洋人が之に接するの風に従って処分」すべしの脱亜論を発表、次いで「朝鮮人民の為にその国の滅亡を賀す」と極言するまでに至る。

 脱亜論を引きだしたのは甲申政変である。ここにも日本史のまがり角に朝鮮問題があったことをもう一つ確認できる。「明治」初年の民権、国権、立憲などの日本の近代のいくつかの対応が、国権論に統一して侵略への精神的準備と武装を急ピッチに急いでいくのは、この頃である。例えば、1881年、日本最初の紙幣1円、5円、10円札が発行されるが、この肖像は神功皇后であった。絵を書いたのはイタリア人キヨソネである。

 神功皇后がお札になるのはいったい何を意味するかという問題がある。神功皇后は昔、朝鮮を征服したという日本の架空の「英雄」である。通常一国の紙幣の肖像は国家の顔であり、その国のイメージを担っている。従ってその人がお札になることに朝鮮侵略という日本の国家目的が凝固していると思わざるをえない。ついでにいえば神功の参謀として新羅「征伐」に偉功があったという武内宿彌は、韓国併合後の朝鮮銀行券のすべての肖像画となっている。なぜ日韓会談(予備会談は1951年に始まる)直前に伊藤博文の千円札が登場したのかが歴史的な視点で再検討してみる必要があるのではないか。脱亜論の福沢諭吉がお札になったのは「日韓同伴時代」といわれたときである。

 他意はないと思いたいが、歴史をかえりみると日本の対韓ナショナリズムの影がちらつくのもまた事実である。日本近代史学が、学問の分野で昔、朝鮮は日本の属国であったとして、古代の虚像を「実証」しだしたのもこの頃である。1883年の秋、高句麗の広開土王の碑文が日本にもちかえられ、日本古代史の一級史料として、作為的に解読され、「任那日本府」領有説の根拠になる。その成果をもとに、文部省が88年に東京帝国大学国史科に2年間の委託研究をすることになる。その成果が「任那日本府」を史実とする『国史眼』である(重野安繹、久米那武、星野恒)。これが文部省のお墨つきをもらって、国史教科書となって登場する。1887年教科書検定制度、89年大日本帝国憲法制定、90年教育勅語の発布という天皇制確定の筋みちと朝鮮蔑視排外思想を連動させると、まさにパラレルであることが明らかである。日清戦争はこの日本の侵略の精神的軍事的武装のうえにこそ理解できる。

 82年壬午、84年甲申と保守、開化両派の近代への胎動が失敗に終わった朝鮮では、直接民衆が、歴史に登場する、1894年の甲午農民戦争(日韓戦争)がおきる。この年は日清戦争がおこった年であり、この日清戦争と深く連動している。甲午農民戦争は農民が民族の内部矛盾を自らの力で解決しようとし、反侵略、反封建を明確にうちだし、反封建という意味で半ば勝利した戦争であった。しかし、朝鮮に近代国家が出現するのを恐れた日清両国が出兵介入したのである。外国の介入の危機に直面し、朝鮮農民は民族的英知をもって、ここに英知が輝いているが、農民軍と政府との間の妥協を協議する。身分制の撤廃、土地改革、対日強腰外交を中心とする、十二条の内政改革を具体化することを条件に、歴史はじまって以来政治に参加する。こうして内乱を収めた朝鮮政府は両国に撤兵を要求すると清国は撤兵に同調する。

 しかしあくまで干渉政策に固執し戦争を挑発し、朝鮮革命を挫折せしめたのは日本であった。というのは革命が進行して近代国家ができれば、その政府は必ず反日に向かうだろうし、また清国が介入して内乱を鎮圧しても、日本の国益を損なう。どっちにしてもこの際、干渉しておかねばならぬという判断があってからで、そこでいいだしたのが、朝鮮に内政改革の能力はない、日本が出兵して力を背景に朝鮮の内政改革を日本が実行するという、まことに途方もない要求であった。清国は、当然それは朝鮮の内政問題である、そんなことをするなと反対し、対立が激化する。そうすると日本軍は7月23日にまず、朝鮮王宮の包囲、朝鮮軍の武装解除、撤兵を要求する朝鮮政府の打倒を断行する。いわば朝鮮王朝打倒の日韓戦争である。日清戦争はこうしてはじまったことを知らなければならない。

 清国への宣戦布告は8月1日。一週間前に朝鮮との間に戦争がはじまっている。当時の日本人のなかにはこれを「日清韓戦争」と呼ぶ人もいた。戦線は清国軍を追って北に延びたが、再起した農民軍をねじふせようとして南にも拡大する。この戦争が第二次日韓戦争であることを知らねばならぬ。農民軍の戦死者3万とも5万ともいわれた大戦争である。日本軍につかまった、革命の指導者全琫準は“国を思う赤い心を誰が知ろう”と辞世を残して断頭台の露と消えた。朝鮮の農民は、失った革命を「鳥よ鳥よ青い鳥よ、緑豆の畑におりたつな、緑豆の花がホロホロ散れば、チョンボ売り婆さん泣いてゆく」と歌って逸した革命を悲しんだ。緑豆は全琫準のことである。

 日本ではどうであろうか。内村鑑三はこの闘いを正義の闘いといってはばからなかった。福沢諭吉は「日清戦争など官民一致の勝利愉快とも難有とも云いようがない。命あればこそこんなことを見聞するのだ。前に死んだ同志の朋友が不幸だ。あゝ見せてやりたいと毎度私は泣きました」と自伝に書いている。日清戦争は日本側に唯一反戦論のない闘いであった。福沢にも内村にも全琫準の「赤い思い」などまるでみえない、ここに脱亜論的日本と朝鮮の決定的な断絶がある。日本は勝利に酔い国威発揚、アジア最初の植民地国家になり天皇制の基礎はいっそう強くなった。朝鮮はこの失敗により一路植民地へ転落の道をまっしぐらであった。奴隷と貧困の近代となる。玄界灘断絶は深く険しくなるばかりである。

 そして他民族を圧迫したことが自分たちの歴史にどのようにはねかえるのか、咬竜雲を得たる日本にアジアが見えなくなる(中島利一郎『日本地名学辞典』参照。日本の渡来人名や地名が消える。たとえば朴が東郷になる〔のちの外相東郷茂徳のもともとの姓が朴であったように〕)。差別語、チャンコロ、豚尾、鮮人、ヨボ。ヨボとは朝鮮語のよびかけの言葉にひっかけ、老耄に、ヨボヨボにみえる、国の倒れそうな状態のきたない服装を蔑視した言葉である。“バカでもチョンでも”の“チョン”等々と思いを同じくする、相手が見えなくなった日本語である。その典型的な例として1896年10月8日には、日本公使の三浦梧楼(観樹)がこともあろうに駐在国の王妃閔妃(明成皇后)殺害をおこしているが、省略する。


興国日本の踏み台となって

 日露戦争(1904~5年)は朝鮮支配のための日露両国の戦争であった。しかしわれわれからみて日本がより悪質である。なぜかというと、両国の雲行きがあやしいとみて朝鮮は1月22日に永世中立を宣言するが、その朝鮮の中立を敵視した日本はまず2月8日ロシアの機先を制して、大軍を朝鮮に送り、仁川、ソウルを強制占領した。錦絵には1月にすでに朝鮮占領を描いた絵がある。これが戦争のはじまりであった。宣戦布告は2月10日である。戦争の目的は「韓国の存亡は実に帝国の安危の繋がる所なり。然るに満州に対して露国の領有に帰せんか韓国の保全は支持する由なく極東の平和素より望む可からず」とある、宣戦布告文の内容につきていると思われる。

 朝鮮強占後、日本政府は百万の大軍を派遣、占領の合法化のため朝鮮政府に、条約で占領の事後追認を求めた。これが2月23日の日韓議定書である。第一条は「大日本帝国ハ大韓帝国ノ独立及ビ領土保全ヲ確実ニ保証スルコト」と書いている。そのために朝鮮の領域内で軍事的目的ならどんなことでもできることになった。これは日本が「或ル程度ニ於テ保護権ヲ収ムルヲ得タ」ものであった。つまり軍事占領下におかれたことを意味する。日露戦争はそういう日本のつくった占領の既成事実に対しロシアが反対したものであり、その反対を日本が戦争でたたき引っこめたのが日露戦争である。そして事実、2月から8月までの間に日本が朝鮮に戦争遂行を理由に強要した各種条約協定をみれば植民地化の事実は一目瞭然である。

  一、電信電話郵便通信機関の日本への委譲
  一、京義線、京元線の敷設権の協定
  一、内海及び河川の日本船舶の自由航行権
  一、港湾の自由使用権
  一、日本人沿岸漁業権の拡張
  一、森林伐採権
  一、荒蕪地開懇権

等々。政治軍事のみならず通信、交通、産業、経済など条約によって国権を奪い、朝鮮を丸裸にし、植民地化するものである。8月21日には第一次日韓協定を結び、日本人顧問を政府に入れ、政治の実権まで掌握したことをみればその意図はより明確になる。

 貨幣整理を実施し、まきあげた財産を日露戦争に投入する、軍票は乱発され、軍用賦役を命令する、軍律にそむくものは処断する。朝鮮人の血と汗と財産をこの戦争に徴発したのである。百万近い日本人が朝鮮を体験する。日本人は朝鮮人と接すれば接するほど朝鮮の文化風俗を蔑視し、思いあがり・差別観を強める。「ヨボ、鮮人、賤人」と蔑称、現在の差別意識の原型が完成するのはこの頃である。

 ロシアが朝鮮における日本の優越権を認めた、ポーツマス条約は、こうした軍事占領下での植民地状態の既成事実を国際的に追認したにすぎない。ロシアは条約の第一条で日本の朝鮮での優越権を認め、次にイギリスは揚子江流域の権益を交換条件に、アメリカはフィリピンの独占権と交換に日本の朝鮮支配を支持した。この国際的な帝国主義の大合唱の日韓間の法的確認が1905年11月、伊藤博文の恫喝のもとになされた乙巳保護条約(第2次日韓協約)である。これで日本は世界五大強国の一つになるのである。その後、数万の犠牲者をだして血戦をいどんだ朝鮮人の抗日義兵戦争や啓蒙活動は省略するが、その弾圧後に韓国併合がある。伊藤博文が殺されるのは、この闘いの最中である。

 さて司馬(司馬遼太郎)史観など、「明治の栄光」「明治人の気骨」など、日本では輝かしい歴史のように見る人が多いが、それは朝鮮を欠落させた議論であることがわかる。「征韓論」にはじまり、脱亜論、自由党大阪事件、大東合邦論、日韓戦争、日露朝鮮植民地戦争、「おくれた国の文明・開化に関心をもつより進歩した民族の採用すべき最良の政策、“朝鮮併合”」と形は変わっても侵略方式は詐欺と暴力の一貫した一本線につながっているのが、明治時代である。そして、民権論しかり、福沢のブルジョア民主主義、内村鑑三のキリスト教主義、司馬の栄光史観等日本の内なる「進歩」の側面として、必ず朝鮮がみえないのである。これは法則といえるほどである。

 日本の明治時代は朝鮮との関連なしでは語れない。朝鮮からみた「明治」の45年は、その「栄光」に対極した「悲惨」であり、興国日本の踏み台となった「亡国朝鮮」であり、痛史の時代である。最近の日本で一番よく読まれている人気作家は先の司馬遼太郎であるが、その著作のひとつ『坂の上の雲』が描くのは日露戦争で勇名を馳せた秋山好古、眞之兄弟で、そういう人物を生みだした明治は栄光時代であった。だからその後、「君側の奸」となった軍閥、政治家が国を誤らせたという史観である。確かに日清、日露戦争に勝利した日本民衆の躍動する心を捉えた歴史物語であろう。しかし、その戦争で独立を失った朝鮮はどうなのか、『坂の上の雲』には秋山兄弟のみならず、義兵や啓蒙運動家を容赦なく弾圧するための憲兵警察制度を朝鮮に導入した朝鮮憲兵隊司令官明石元二郎が栄光の人として描かれている。この栄光史観を韓国人はどうみるのか、ギャップは大である。われわれから見れば、文明の基準を西欧に設定し、西欧化しない朝鮮を「野蛮」「頑迷」「固陋」と罵倒し、侵略を合理化し、文明を自認したのが「明治」の栄光である。西欧文化とりわけ軍事技術をいちはやくとり入れ「自己文化圏の自虐的な加害犯」にみえるのである。


韓国併合の意味

 さて次の段階に移ろう。韓国併合は、日本帝国主義の包括的形成を意味する。天皇制・大日本帝国は四つの島でなく大陸の一角を含む68万平方キロの面積と体制内に4千万の異民族をかかえこみ、一面で階級矛盾、一面で民族矛盾をもつ、複合民族国家に転身したこと、日本史の枠組みの拡大を意味する。

 朝鮮は国を失って内在的歴史営為を否定され、日本帝国主義の重要な構成員という仮面をもたされて生きる時代をむかえた。これは「明治期」とは決定的に違う点である。いわばコインの表裏のように歴史を差別的に共有する時代に入ったのである。仮に「大正期」としよう。この時代の特徴は、日本はまず第一に思想的には近似した文化をもち、歴史的影響力を受けた民族の独自性を近親憎悪に近い形で否定した、そこには西欧に対する、劣等感をうらがえした優越感がのぞいていた。「朝鮮の歴史は停滞している」「劣等民族」「事大主義」「平安時代」「他律性」「自立不能」「列強角逐史論」「日鮮同祖」「地勢論」「地理的宿命論」等々あらゆる否定論が妍を競った。それは「駄目な朝鮮」を指導する日本人には、その侵略性を消去する意味を持ったし、朝鮮人には自己が駄目だと思わせ、民族独立をあきらめさせたり、従順さを引き出し、民族の牙をぬいたりする作用をもった。今なお、日本人は朝鮮で良いことをしたと考える日本人が多いのはそのためである。

 第二は天皇に直属し軍事統帥権をもち、司法、立法、行政の三権をもつ総督が、差別と専横を柱にした植民地権力として登場したのである。憲兵支配にみられる極端な弾圧主義がはじまった。憲兵は武力を背景に官治主義、監督主義、干渉主義、暴圧主義を強要して朝鮮人の生活に介入した。例えば「憲兵ハ地方検事正ノ要求アルトキハ其ノ地方法院支所ノ検事ノ職ヲ取扱ヒ」「拘留叉ハ科料ノ罪、三ヶ月以下ノ懲役、百円以下ノ罰金ニ処シ」犯罪即決令によって判事でもあった。「其ノ職務ヲ執行シ得サルトキハ兵器ヲ用フル」ことも可能であった。いってみれば朝鮮の法と秩序が一憲兵の品格と同価の支配であった。これは封建時代の代官となんらかわらなかった。朝鮮総督寺内正毅は集会、結社言論の自由を奪ったのち、朝鮮人は「わが法規に服するか死か」、いずれかであるといった。こうして手も足も出ないようにしたところで、土地調査、森林調査の土地をとりあげ、会社令による企業抑圧、鉄道道路の建設等、日帝の物質的土台が築かれた。

 時あたかも「大正デモクラシー」の時代である。日本国内の世論はこの寺内の暴虐な軍政統治に無関心であった。3・1独立運動以後ごく一部の人がもっとよい待遇をといい、軍閥支配への批判はあったが、当初は皆無に近かった。

 併合まではあしきにつけ「朝鮮論議」は、さかんであったが、植民地直轄支配となった「奴隷の朝鮮」には無関心であった。たとえば全国一の部数を誇り、藩閥支配批判の強かった『大阪朝日新聞』の社説の例にとると朝鮮論は1913年(2回)、15年(1回)、16年(2回)、18年(1回)の計6回にすぎない。逆に中国問題は13年(41回)、14年(29回)、15年(63回)、17年(85回)、18年(31回)となっている。これは日本の中国侵略が朝鮮との重層的関係につながっていることを示す。

 しかし一方、この時代こそ朝鮮敵視論、否定論の極致であった。なぜなら対外問題でなく国内問題としての朝鮮の問題は、政策論としてではなく、治安問題としてのみ登場するからである。日本の朝鮮支配の優越性が架空のものであり、なんら内実に支えられたものでないことは支配者自身がよく知っていた。ハリネズミのように武装した総督府権力は2000万民衆の怨嗟の目に包囲された孤立した権力であることを十二分に承知していた。その弱さのゆえに武断軍政であった。その彼らは朝鮮人を劣等とはばからなかったが、どんな意味でも朝鮮人がそれを受容したことはなかった。


徹底した敵視迫害政策

 独立運動は光復会、国民会のように国内国外で武力闘争の形でつづけられていたし、これに対する敵視、迫害、圧殺が、日本の基本的対応であった。異民族を体制内に引きずりこんだおかげで、日本権力はつねに反抗におびえていた。「大正期」の日本語で最大の頻度でくりかえされた、朝鮮関係の用語は、支配の不安を反映した監視、敵視、圧殺の言葉であった。すなわち、暴戻・不穏・不逞の形容詞である。暴徒・忘恩の徒・背信者・陰謀集団・帝国の版図をうかがう「不逞鮮人」、という具合である。不穏文書・不穏印刷物・不穏思想・不穏言動・不穏唱歌・不穏事実・不穏書類・不穏言辞・不穏詩文・不穏請願文・不穏通告文・不穏演説・不穏企画・不穏教科書等、憲兵監視下の朝鮮人の生活は不穏にみちているものだった。単純な小作問題でも朝鮮人は「性貪欲にして常に小作人を苦しめ金銭問題に関し、絶えず訴訟或は紛争を惹起し為に官民一般の信用なき」人間となって描かれる。日本商人とのトラブルを排日思想とし、学校が下駄を廃止すれば排日学校となる。

 そしてその不穏、不逞の被害者は日本人であり日本国家である。朝鮮は陰険でけしからぬ敵国の地となる。子どもが泣くと朝鮮人がくるという母親が出てきた。民族対立のうむ慢性不安症におちたのである。この頃から増大する在日朝鮮人は治安の対象でしかなかった。

 朝鮮人が奴隷にあまんじていれば「劣等」といい、一面劇的な生きざまを歴史にぶつければ「忘恩の徒」であり、否定したものがみなおしを迫られたときには、うろたえと特別な狂気があらわれるのが、この特徴であった。3・1運動や間島事件、関東大震災の惹き起した民族対立と虐殺のパターンはまさにこうした否定と肯定の谷間におこった排外主義の「狂気」である。私はそれを「宣戦布告なき戦争」とネーミングしようと思っている。

 1919年3月1日ソウルおよび朝鮮北部の23の都市に集まった人々が独立宣言文を読み、熱烈な演説をし、独立の意志をあきらかにした。ある者は旧韓国旗をうちふり、ある者は韓国軍の制服でおどりだした。愛国歌が流れた。そしてまたたくまに全国津々浦々をまきこんでいった。一部の地域では、つみあげられた憎悪が石やこん棒で武装した暴動に突入していった。総督府は仰天し狼狽した。彼らの権力が他人の秩序を横領したよこしまな権力であるがため、また常に敵意ある多数者の中の少数者を代弁した植民地権力であるため、なおさらそうせざるをえなかったのであるが、彼らが頼るものは暴力以外になかった。自分たちの朝鮮での合法性の支えは暴力以外に見いだせなかった。

 総督府の反応はどうだろうか。これはおそろしい。「必ズ鎮圧ノ目的ヲ遂ケ得ル確固タル決心ノ下ニ兵器殊ニ小銃ヲ使用スルヲ最良トスル」という激しい敵意の対決であった。女子どもを含め身に寸鉄をおびない朝鮮民衆に対し、支配転覆の不安におののく「断固タル決心」の対応がどんな惨状になったかを示すために、3・1運動の一つの記録を示してみよう。


3・1運動の弾圧(植民地戦争)

 これは平安南道の孟山という所の例である。日本の憲兵隊が陸軍省に宛てた報告は次のとおりである。「平〔安〕南〔道〕孟山ニ再ビ天道教徒100、憲兵分遣所ニ突入暴民約50死傷ス」。非常に簡単な電報である。そして次に詳報がある。それによると、「暴徒ノ死傷ハ事務室ノ内之其ノ前ニ於テ銃弾ニ命中シ即死シタルモノ51名ニシテ負傷及逃走シ途中ニ於テ死亡セル者3名死者数54名、負傷者13名ニテ負傷者ハ受傷後逃走セリ」とある。朝鮮側の記録は「一気に60余人が射殺された、命ある者も銃剣でとどめを刺された」としている。わずか100名の示威行進、そのうち67名の死傷者を出した。即死が54名に及んだ、この弾圧は憲兵が射撃の名人ばかりだとしても異常に高い死傷率といわざるをえない。憲兵が戦場と同じ敵意をもたぬかぎり、ありえないことは明確である。

 この必殺の敵意とは、では何か。それはすでに述べたように自己の権力が転覆される恐怖である。これはなにも孟山だけの特例でなく朝鮮全土で頻発したのである。日本官憲自身も、のちに「軍隊ノ行為ハ遺憾ナガラ暴戻ニ渡リ且ツ放火ノ如キハ明ラカニ刑事上ノ犯罪ヲ構成ス」とのべている。暴力、殺人、放火は全土に広がった。この日本の対応が何を意味するかといえば、被支配者朝鮮人が従順で奴隷である限り、朝鮮支配は「平和」であるが、しかし、ひとたび自己主張した、独立を主張した、それに対応する論理は戦場の論理である。それしかない。ただちに抹殺の場となる。植民地体制というのは、いわば休止した戦争の側面をもつ。それが植民地支配の本質であるという姿が見えてくる。植民地というのはそういうものだということがよくみえてくる。

 3・1運動の過程でどれだけ多くの犠牲が出たのか二、三の数字をあげてみる。1919年3月1日から20年3月までの一年間、死者7646名、負傷者4万5552名、被逮捕者4万9811名、放火785棟に及んでいる。負傷者のなかに不幸にして目や四肢を失い不具者になった者も多い。また被検束者への苛酷な拷問も忘れてはならない。縛りあげ天上につるし、焼火箸のおしつけ、爪の下への釘さし、鼻からの水の注入、女性への性的拷問など人間を家畜視しない限り出来ない拷問であった。安城で負傷者の写真をみた。

 1918、19年には東アジア三国に、同じような国家権力に対する民衆の闘いがあった。一つは日本の米騒動、一つは中国の5・4運動である。ところが日本の米騒動は戒厳令も出ない。日本人は軍隊の馬にけとばされたことはあるが、死者はいない。5・4運動、これは半植民地中国だが、権力は学生を多数逮捕するが、人殺しはしていない。これを朝鮮人民の受けた犠牲と比べてほしいと思う。単純に犠牲が多いことを強調するつもりではないが、同じ時期、同じ権力に対決した闘争でも、本国民衆、半植民地民衆ともちがった膨大な犠牲者に植民地の特質があった。鋭い民族問題が露呈していると思われる。そしてそこから暴力以外に支配のすべてをもたない日本帝国主義権力の弱さがよくみえてくる。

 虐殺は続く。1920年、隣国中国の主権を犯して、旧満州に流出した朝鮮農民に対する大虐殺、いわゆる間島虐殺は3・1の「満州」版である。事件は日本史にはほとんど無視されている。この時、5000人近い農民が日本軍の軍事作戦によって殺されている。惨状の実態を一つだけ紹介しておこう。「十月二九日、日本軍数百名ハ、突如トシテ延吉県細鱗河方面ニ至リ、韓人家屋数百戸ヲ焼キ韓人ニテ銃殺セラレタル者夥シ。又翌三十日午前八時三十分延吉県街ヲ距ル約二里帽山東南青溝付近韓人部落七十余戸ハ日軍ノ為ニ一炬ニ付セラレ、併セテ五百余発ノ銃弾ヲ発射シ、同村ヲ包囲攻撃炬炬セリ。同村居住韓人三百余名ノ中、辛シテ遁レタルモノ僅カニ四、五名ノミ。其ノ他ノ老若男女ハ火ニ死セスハ銃ニ傷ツキ、鶏、犬タリトモ遺ル所ナク、屍体累々トシテ横リ、地ニ滿チ、血ハ流レテ川ト成シ、見ル者涙下ラザルハナシ」(『震壇』第2号)で、4000人の死者がでた。ちなみに1914年8月23日、日本の対独宣戦布告以降の植民地民衆の反乱を基本矛盾とした戦争を、朝鮮派遣軍は「大正三年及至九年戦役(西伯利出兵、第一、第二次朝鮮騒擾事件)間島事件」と把握している。一派遣軍とはいえ、このネーミングの内実は重く深い。

 さらに1923年7000名に近い朝鮮人の命を奪った、関東大震災の白色テロルはこうした民族対立の日本版である。3・1と間島の違いは日本民衆が直接虐殺に加担したことである。その理由を作家中西伊之助は次のように述べている。「試みに、朝鮮及日本に於いて発行せられている日刊新聞の朝鮮に関する記事をごらんなさい。そこにはどんなことが報道せられていますか。私は寡分にして未だ朝鮮国土の秀麗、芸術の善美、民情の優雅を紹介報道した記事を見た事は殆んどないといっていいのであります。そして爆弾、短銃、襲撃、殺傷――あらゆる戦慄すべき文字を羅列して所謂不逞鮮人――の不法行為を報道しています。それも新聞記者のあれこれの誇張的な筆法をもって……この日本の記事を読んだならば朝鮮とは山賊の住む国であって朝鮮人とは猛虎のたぐいの如く考えられる」(『婦人公論』1923年11・12月号)といった、日本社会の先入観があったため日本民衆の積極的な虐殺加担をうみだしたのである。官民一体の民族犯罪といえよう。この三つを連動して考えたとき、まさに植民地支配のコンクリートうちの時代とは、日本の中の民族対立、「15円50銭」の詩にみられるように朝鮮人が朝鮮人であるということだけで、生命が奪われる惨劇の時代であった。


内なる民主主義、外なる排外侵略主義

 さて、3・1運動、間島侵略、関東大震災といった一方的民族迫害が「大正期」の短い間に集中したのは、日本史にとって何を意味するのか。これこそ朝鮮領有後の日本が民族矛盾をかかえ、民族対立におびえている帝国主義国家であることを示している。時あたかも日本は「大正デモクラシー」を謳歌していたが、日本の知識人では民本主義者吉野作造や民芸家柳宗悦など、若干の人が民族迫害の野蛮な風潮に鋭い批判をなげかけ、反省と理解を訴えているが、大部分の人はこの大日本帝国の「異法地域朝鮮」で吹き荒れた暴虐な嵐に首をすくめ、目をつぶり、デモクラシ―のあだ花に陶酔したのである。「15円50銭」と言えといって殺した関東大震災でも、社会主義者の追悼はしたが、朝鮮人は除外した。内なる平等、民主主義、外なる差別、排外侵略主義の図式が問うものこそ日本近代史の特質である。「大正デモクラシー」を考えるなら、この問題をきちんととらえる必要がある。内村鑑三は何一つ発言していない。独立要求の正当性を言う人はただの一人もいない。 

 一方、3・1運動の体験から武力のみで民族運動を押さえ切れない教訓を引きだした日本は、その支配政策をいわゆる「文化政治」の意味する老獪な懐柔的な方向で調整してきた。言論、集会、結社の抑圧はみせかけ程度であるが、緩和してきた。朝鮮自治論、民族改良論、大日本帝国内での朝鮮人の地位向上、などが一視同仁という天皇の言葉と結びつき、幻想をばらまきはじめる。民族主義者の一部は当然この軌道修正の罠にかかり、民族主義に分裂をもちこむものがあらわれ日帝の防波堤となった。その意味である程度成功した。朝鮮の民族運動はこうした現実をふまえ、ブルジョア民主主義から次第に社会主義労農大衆のなかに移り、数次にわたる共産党事件や労働争議、小作争議、光州学生運動、元山ストなど大衆運動を昂揚させ、やがて旧満州での抗日パルチザンの形態に発展していく。

 大事なことは、植民地支配が朝鮮に朝鮮人が住めないという状況をつくりだし、多くの朝鮮人が日本や「満州」に流れていくことである。流移民という言葉がふさわしい。この頃から南部の農民が労働力として日本にいく。一方、「満州」国境に近い農民は田畑を求めて旧満州に流れ、その人口は200万を越え抗日パルチザンにも参加する。当然、「満州」の治安は乱れ、朝鮮の国境線を侵すようになる。こうした独立運動の昂揚は日本の朝鮮支配をあやうくしていく。こうした矛盾に悩まされる日帝はより安全な植民地支配をめざし、その緩衝地帯として「満州」の直接支配をねらい、15年戦争へのめりこんでいく。

 これを仮に昭和初期としておく。1931年の中国侵略戦争は、中国革命、日貨排斥など、中国の民族運動と日帝の野望という対抗関係だけでなく、もう一つ重要なことは、朝鮮支配の矛盾が旧満州に拡大した側面にある。200万の朝鮮人が「満州」に流れ出し、中国との間にさまざまな紛争をおこし、また朝鮮独立運動を刺戟したことが背景にある。

 「満州」侵略戦争の一つの契機は「万宝山事件」である。朝鮮農民の土地商租問題の処理がいかに重大であったかは当時の国際連盟のリットン報告書を一つ読めば一目瞭然である。リットン報告書の半分は「満州」での朝鮮人土地問題を扱っており、それが中国との紛争であると書いてある。またそうした観点に立たなければ、「満州」で朝鮮人の抗日パルチザンが、独立運動がなぜあのように執拗に闘われたかの意味もつかめない。朝鮮総督府の統計によると抗日パルチザンは1931年9月の15年戦争勃発以来、36年6月まで「対岸地方」つまり「満州」」の「匪賊」出没回数2万3926回、パルチザンの延人員136万9027人に達している。これはもう水準の高いゲリラ戦争である。そしてこの戦争が、日本との複雑なからみあいをもった朝鮮のもうひとつの建国の歴史でもあったことを忘れてはならない。


治安維持法と朝鮮人

 さて、またこの時代の日本は、暗い谷間に入る。ファシズムの暴圧の例として、治安維持法をあげる人が多い。治安維持法は、国体の変革と私有財産制の否認とを目的とする結社やそれへの参加を処罰する法律で、もっぱら共産主義者取締のためと説明されているが、のちに自由主義や平和を主張する者も圧迫迫害された。

 しかし、この法律適用の最大の目的は国体の変革を意図したとして、朝鮮独立運動に適用することだったことを指摘しておきたい。朝鮮独立の企図はイデオロギーとは無関係に天皇の領土を望む「不逞」であり、国体の変革そのものと規定されていた。朝鮮人の民族主義者は、この法律によって武器所持等の罪が複合され民族的偏見が加重され、死刑が続出した。悪法であるが死刑は出さなかった、日本的なよい法律だったと弁護したのは風見鶏学者の故・清水幾太郎氏であるが、朝鮮独立運動家は複合罪で多数の死刑者を出している。清水氏はここでも内と外をつかいわけているのである。つまり、法律適用の最大の犠牲者が朝鮮人であったことは、一面当時の日本国家が何を一番危険だと考えていたかを反証しているといえよう。それは決して階級問題ではなく、民族問題なのである。


戦時下「皇国臣民」に

 次に37年の中日戦争下の状況について述べておきたい。

 中国との泥沼戦争が世界大戦になっていく状況で、日本国民は「国家総動員法により戦争に協力させられ、多くの被害を出した」。これは日本史の本が書いているとおりである。しかしより重要なのは、何ら戦争に責任のない朝鮮が大陸兵站基地にされ、朝鮮民衆が日本の戦争のため協力を強制されたことである。日本の鉱山や土木現場、軍需工場で朝鮮人のいないところはひとつもなかった。そして地獄の苦しみをなめたのは、まさに戦争に責任のない朝鮮民衆だったのである。70万とも100万ともいわれるがよくわからないのが実状である。

 昔の日本地図を思い出していただきたい。戦争でうちたてた日本の勢力範囲を色別している。見た人も多いと思う。朝鮮は日本と同じ赤色でそめられている。中国が黄色、旧満州国がピンク、というのが多い筈だ。この日本と朝鮮が同じ赤色で書かれたことの意味するものこそ、大陸兵站基地のもう一つの側面である、人的資源まで動員対象とする範囲をあらわしたものであった。

 日帝は朝鮮の人的動員をはかるため、徹底的な同化政策を強行した。先程述べた3・1以後、民族主義者の、左右分裂の助長をテコに一方で弾圧と一方で忠良従順な準日本人づくりをはじめる。とりわけ1936年関東軍司令官南太郎大将が総督に赴任してから、あらゆる政策に「皇国臣民化」をにじませてきた。1937年の「皇国臣民の誓詞(誓い)」はまさに日帝下、朝鮮人の精神のあり方を規定した踏絵である。

 至誠一貫次ノ三ヶ条ヲ順守シ皇民タルノ道ヲ実践スベシ。これではじまるのである。

  一 私共ハ日本帝国ノ臣民デアリマス。
  一 私共ハ心ヲ合セテ天皇陛下ニ忠誠ヲ尽シマス。
  一 私共ハ忍苦鍛練シテ立派ナ強イ国民ニナリマス。

 このようなことを毎日斉唱させる。そして日本式氏名、創氏改名である。日本語の常用と朝鮮語の使用禁止、朝鮮の民族服の排除、朝鮮服は白い服だが、それを排斥し、色衣が奨励される。神棚が配給され神社参拝、東方(宮城)遙拝が義務づけられた。大和魂注入のため、みそぎも奨励された。寒い冬、水のなかに入ってふるえるのである。まさにこのうごきは狂信的、神がかったものだった。そして一視同仁、内鮮一体、内鮮通婚(朝鮮人と日本人の婚姻だが)などのスローガンが氾濫した。

 皇民化運動は長期的には差別と支配の永久化を、短期的には朝鮮の人的資源の戦力化をめざしたものであった。こうした諸政策と連動して1938年2月陸軍志願兵制の施行、同年、国民精神総動員朝鮮聯盟の発足、国民徴用令の施行、徴兵制の適用とエスカレートしていった。これがいかに総督府の役人たちのお気に召したかは、参考までに朝鮮総督府が1941年に制定した6学年用の『初等国史』から引用しておこう。

「とりわけ陸軍では特別志願兵の制度ができて、朝鮮の人々も国防のつとめをにない、すでに戦争に出て勇ましい戦死をとげ靖国神社にまつられて護国の神となったものもあり、氏を称えることがゆるされ、内地と同じ家の名前をつけるようになりました。今日では朝鮮地方二千三百万の住民は国民総力朝鮮聯盟を組織し、一斉に皇国臣民の誓詞をとなえて、信愛協力し内鮮一体のまごころをあらわし、忠君愛国の志気に燃えて、みなひとすじに皇国の目あてに向かって進んでいます。とりわけ支那事変がおこってから、朝鮮地方の地位がきわめて重くなり、大陸前進の基地として東亜共栄圏を建設するもとになり、わが国発展の上に大きな役割をになって内鮮一体のまごころはますますみがきあげられて、日に月に光をそえてゆきます」

 植民地権力がおくめんもなく、このような歴史を朝鮮の子どもに教えこんだことは、一面ではそれだけ支配が深まったことを意味する。そしてねじふせられ、傷ついた一部少年が醜の御楯を志願し、「みずくかばね(屍)、草むすかばね(屍)」になったものもでてきた。ちなみに、アジア太平洋戦争下の朝鮮人軍人21万、軍属16万に達し、うち、戦死行方不明は15万名にのぼっている。「従軍慰安婦」も膨大な数であった。女子挺身隊とか看護婦の名目で連行された朝鮮人女性は日本軍のどんな前線にもいた。作家がいろいろ書いている。軍人で朝鮮女性に世話にならなかったものはいないだろうといわれている。このことは、日帝の朝鮮支配は精神の面まで踏みこんできたことを意味する。中国は朝鮮の二の舞とならないために、抗戦した。闘いのある限り犠牲は大きいが、精神的には健康であった。朝鮮はねじふせられ、それに精神の面にまでふみこまれてもなお生きなければならなったところに、日本と朝鮮の間の歴史の溝の深さがある。中国よりきびしい。なかなか清算できない、日本と中国との関係はカラッとしているところがあるが、なかなかカラッとしない問題がある。

 しかし皇民化政策で三文字の名が四文字になったからといって、日本化したのは少数であった。大部分の人は面従腹背で嵐のすぎるのを待ち、生きるために意にそまぬ協力をしたにすぎなかったのである。それは1945年8月、日本敗戦直後の歓喜の状況をみていただければよくわかる。決して心から協力したわけではなかった。

 その証拠に、数十万の朝鮮人を動員した軍部は決して朝鮮人部隊を編成しなかったし、適当に分散配置させ、朝鮮人兵士を孤立の状態においた。それでも朝鮮人兵士のたえざる脱走にくやしがった。これはイギリスが、グルカ兵を一つにしたり、アメリカが日系442部隊をつくったりしたのとはまったくちがう。海軍は1944年までに朝鮮人兵士の乗艦を拒否した。なぜかというと、一人の不始末のために艦もろとも沈む。その「不心得」とはなにか、朝鮮人の民族主義であり、それへの警戒心である。海軍は陸軍より合理的といわれているが、その点では先が見えていたわけである。1945年になると乗艦を許した。だが、このときはのるべき船がなくなるのである。

 日本への強制連行も同じである。手続きをして納得づくで渡来したというよりは、炭鉱の労務係が憲兵と共に来て、トラックをもって町を歩いている者、あるいは田畑で仕事をしている者を手当たり次第、役に立ちそうな人を片はしからそのままトラックにのせ船で日本に送った。「徴用というが人さらいですよ」と語る人がいる。強制連行である。

 これらの人は、日本の鉱山をはじめ各種の軍事施設の建設など「銃後の戦士」として、肉体をすりへらしたことはいうまでもない。1945年当時、日本にいる朝鮮人は、250万を数えた。このうち170万は1938年以降の渡航であった。

 それもほとんど若者である。いかに大量の人口移動があったかがわかる。当時の朝鮮の人口が2300万人であったことを考えればなおよくわかる。

 もう一つ付言しておくことがある。戦時経済のうえからいっても朝鮮の役割は巨大であった。例えば貿易が断絶した状況で、1943年の朝鮮の鉱物資源が日本の全生産高で占める比重をあげると、黒鉛、雲母、重硝石、マグネサイトは100%、重石88%、モリブデン85%、螢石95%、鉛60%というおどろくべき数字である。このほか、鉄、金、石炭、タングステンなど、日本の地下資源の総量に対するパーセンテージは巨大であった。

 食糧もきわめて重要であった。1941年は朝鮮の米の生産量の41%、42年は45.2%、43年は55.7%、44年は63%ももちだされた。その間は朝鮮人はくうのもくわず、「満州」からの豆カスなどを代用した。朝鮮や「満州」の食糧がストップした戦後の深刻な食糧事情を考えるだけで、朝鮮米の日本の食糧事情に占めた役割の大きさはわかるであろう。


日本人に植民地支配への反省はあるのだろうか

 こうして日本の敗戦、朝鮮の解放をむかえるが、以上のような両民族の歴史的なからまり、それは相互に葛藤し、規制しあってきたが、主として近代では日本が一方的にしむけたものである。朝鮮史はその圧力に抗しながら盆栽の松のように歪曲された歴史へと発展した部分も多い。日本史もまた植民地を領有したためにねじまがり、矛盾を拡大したことも多いのである。

 このからまりの歴史が戦後完全に一方的にバラバラに解体され無視され、ある日突然に在日朝鮮人は「第三国人」となり、外国人とみなされ、サンフランシスコ講和条約後は外国人という理由で差別をうけるようになる。

 日本は70余の戦時補償法を日本「国民」に対してつくるが、ともに戦時を闘いともに戦災にあった朝鮮人は、外国人という一方的な理由で外された。国籍選択の自由はなかった。犬の鑑札のような外国人登録証をもたされ、日本列島の囚人のような扱いを受けてきたのだ。ここにも内と外の使い分けの日本史の特質が生きているといわなければならないであろう。

 そういうことで、いろいろ考えてみると日本は、日帝下植民地人がなめた精神的、物質的苦痛は、本国の民衆の苦痛とも質的に違うことを少しもわかっていないのである。特別にしろとはいわないが、少なくとも平等であってほしい。いつも考えることがある。かつてグアム島やルバング島で日本の敗戦を知らずに戦争を継続した小野田寛郎少尉、横井庄一伍長の生還に対し、日本国民は熱狂的に歓迎をした。生命力の偉大さ忠誠心をたたえたことがある。

 私はその同じころ、同様にインドネシアで30年闘って帰った、台湾人原住民の中村輝夫(創氏名)一等兵への日本人の対応を思いだし、台湾出身の皇軍兵士の赤誠に対する日本世論のあまりに差別的な対応に怒りを覚えた。植民地支配の何たるかがわかっていないのであった。この人はわずかな戦時中の軍人給料をもらった。あまりだというので、時の三木武夫首相ら関係者がポケットマネーをだしたそうである。台湾に帰ったら、おくさんは再婚して帰る家もない。台湾政府は対日協力者ということで冷たい。死んだそうである。日本には植民地支配の反省がないことの好例である。フランスとかイギリスなど植民地をもった国が、みんなこうしているのか調査してみる必要があろう。

 中国へ残した戦争孤児への暖かい目をもつ心やさしい日本に心うたれるものがある。しかし同じ頃朝鮮、台湾出身日本兵の戦時補償要求に対して平気でNOという神経がわからない。彼らは日帝時代同じく日本人であり、そのため兵士になった。「満州」に行ったのは武装移民であり、日本人である。台湾の人は裁判の道があったからまだよい。朝鮮の北半分にいる人たちのことは目にも入らない、同じく植民地支配をうけた。そこにもかつて日本人にされて、国債や郵便貯金や労働報酬やらをかかえて未解決のままでいる、大勢の人たちがいるのである。日本と朝鮮のこのような関係は事実である。そして歴史的に形成されたものである。この事実を大多数の人が知らないことからこのようなことが未解決のまま放置されるのである。もし知っていたら、このようなことは許される筈がない。

 例えばある一時期、14歳の子供に指紋を強制することがあった(注・1982年まで)が、それは犯罪である。試みに思え、日本のみなさんが、自分の子どもがもし14歳になったら指紋を押さなければならぬとしたらどう思われるか。

 朝鮮人の子はみなさんの教え子であったり、自分の子どもの友だちであったりするわけである。そういう子が指紋を押さなければならない。どうしてそういう法律があったか知るべきである。そういう法律をつくっていた日本政府にもっとものをいうべきである。われわれはものがいえない。選挙権がないのである。やはりこれは不公平である。なんで朝鮮の子が14歳になると犯罪予備軍のように指紋をとられ、傷つかねばならぬか。外国人全部というが、この当時は90%が朝鮮人である。これはあきらかに朝鮮人を治安対象にしたものである。

 最後に、こうしてみると戦後日本社会は他者を差別、排除することで成り立つ「身内」の世界である。身内同士には優しく、人々はこの「以非同類価値観」に浸っているようで、この底には戦後破産しかけた日本は他国と違うという皇国史観があり、その日本の流れのまがり角に、必ずある時はつまづきの石となり、ある時は覚醒の石ともなるべき朝鮮問題があった。それは法則的といってもよいことが再確認できる。


おわりに

 さて現代日本の拉致騒動、朝鮮バッシング、愛国心の昂揚ではじめた小論をどう締めくくるか、今の日本ではすでに述べてきた流れとは逆にいわゆる韓流ブームなるものが中年の女性たちを中心に広がっているではないかと問われることが多い。朝鮮人のニンニクは臭いがイタリア人のニンニクは香気?と言われた時代を知っている在日二世の体験からいえば、韓国人俳優がテレビのコマーシャルに登場、キムチがブームとなることは歓迎すべき現象である。韓国の民主化、経済発展、大衆文化の開放が背景にあり、双方の往来が何百万人単位になったことの所産である。

 しかし韓流の中味を検証してみると視覚、聴覚、味覚に限定されているようである。

 綺麗だ、リズムが良い、美味しいの世界である。欠けているのは知的な理解である。若い人の中には韓半島が日本の植民地であったことを知らない人も少なくない。韓国と朝鮮(北)が一つの国家、一つの民族であることを知る人はもっと少ないのが現実である。

 教えられないからである。したがって美しい、美味しいの範囲から離れ、独島(竹島)問題、「慰安婦」問題、強制連行問題、靖国問題、教科書問題などになると韓国はなぜ文句をいうのか、何回謝ればよいのかという反発となる。「嫌韓論」がベストセラー本なのも、もう一つの現実である。

 これこそ日本社会が過去を直視しないことから生ずるいらざる摩擦である。無知が過去を温存させ、恥を知らない人が過去の「栄光」再現に加担しない保証はない。 

 知ることが心の問題に帰結することを考えれば、今の韓流ブームを喜んでばかりはいられない。韓流ブームを支える民衆が「嫌韓論」、朝鮮バッシングをしているねじれがあるからである。

 いまひとつ最近、日韓双方に昂揚するナショナリズムは「非」と主張する人がいるがナショナリズムはその民族の歴史発展に従ってその性格を異にする。

 日本のナショナリズムは幕末、明治以降、常に攻撃的であった。韓国は反対に防衛的であった。「両非論」の一般化は歴史の事実をねじ曲げてはじめて成立する。こうした主張が、日本人某が韓国名で書いた『醜い韓国人』や金完燮『親日派のための弁明』(草思社。日本語翻訳者は、拉致キャンペーンを張っている会のリーダーである荒木和博ほか一名)、呉善花の各種「文化論」が、韓国人がこういうことを言ったとして歓迎されたのと同じ意味で、日本社会から歓迎されていることを知らねばならない。              
  • 2008.12.01 00:00 
  • Comment(-) |
  • Trackback(-) |
  • URL |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。