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金光翔「<佐藤優現象>批判」(『インパクション』第160号(2007年11月刊)掲載)【下】 

7.「国民戦線」としての「人民戦線」

 ここで、佐藤の提唱する「人民戦線」なるものが、いかなる性質のものであるかを検証しておこう。

 佐藤は、このところ、沖縄戦の集団自決に関する高校歴史教科書検定での書換えの件について、書換えを批判する立場から、積極的に発言している。『金曜日』の佐藤の記事を引用しよう。佐藤は、「歴史教科書検定問題を放置すると日本国内で歴史認識問題が生じ、日本国家、日本国民の一体性にヒビが入り、外国から干渉される口実にもなる」と、右翼が多く出席する会合で発言したところ、会場からは反発はまったくなく、ある右翼理論家も「これは日本国家統合の危機をもたらす深刻な問題だ。教科書の書き換えなどもってのほかだ。右側、保守としても真剣に対処しなくてはならない」と述べたとしている。笑うべきことに、佐藤はこの記事を「過去の日本国家の過ちを率直に認める勇気が今必要とされている」と結んでいる(52)。

 佐藤が、日本国家の弱体化の阻止の観点から格差社会化に反対していることは、「5③」で述べた。また、前述の「フォーラム神保町」の「世話人」には、『金曜日』関係者だけではなく、部落解放同盟の関係組織である解放出版社の編集者が名を連ねている。また、佐藤が北海道で活動する新党大地の有力な応援団の一人であることも、よく知られていよう。

 私が興味深く思うのは、佐藤の論理においては、「日本国家、日本国民の一体性」を守る観点からの、それらの人々―経済的弱者、地方住民、沖縄県民、被差別部落出身者―の国家への包摂が志向されている点である。「国益」の観点からの、「社会問題」の再編が行われている。この論理は、改憲後、リベラル・左派において支配的になる可能性が高いと思われる。

 この包摂には、基本的に、在日朝鮮人は含まれない。ここがポイントである。ただし、「反日」ではない、日本国籍取得論を積極的に主張するような在日朝鮮人は入れてもらえるだろう(53)。佐藤が言う「人民戦線」とは、「国民戦線」である。

 「国民戦線」が包摂する対象には、ネット右翼ら右派層も含まれよう。リベラル・左派の大多数は、インターネット上での在日朝鮮人への差別・殺人教唆・デマ書き込みは放置し、人種差別規制を目的とした人権擁護法案に関しても、「言論・表現の自由の侵害」として法案成立に全面的に反対した。メディア規制を外した対案を成立させようとする意志もなかった。

 私には、誰の目にも明らかなネット上をはじめとした在日朝鮮人への差別・殺人教唆・デマ書き込みや〈嫌韓流〉に対し、「人権」を尊重するはずのリベラル・左派が沈黙していること、それどころか差別規制の可能性すら「言論・表現の自由の侵害」として潰すことについて(それにしても、この連中は、人種差別禁止が法制化されているフランスやドイツ等の諸国には「言論・表現の自由」がないとでも言うのだろうか)、かねてから不思議だったのだが、〈佐藤優現象〉の流れから考えると理解できるようになった。すなわち、「日本国民の一体性」を守るために、ネット右翼のガス抜きとして、在日朝鮮人への差別書き込み等は必要悪だ、ということなのだろう。「国民戦線」には、在日朝鮮人は含まれず、恐らくは社会的弱者たるネット右翼は含まれるのだから(54)。無論、ネット右翼の増加、過激化が、「国益」の観点から見てマイナス、という論理も成り立ちうるが、「国益」の論理に立てば、両者は比較の問題でしかないのだから、差別書き込み等が必ずしも規制されることにはならない。

 かくして、「国益」を中心として「社会問題」が再編された上での「国民戦線」においては、経済的弱者や地方経済の衰退、日本国民として統合されているマイノリティに対する差別禁止の声は高まるだろうが、在日朝鮮人の人権は考慮されず、〈嫌韓流〉による在日朝鮮人攻撃も黙認されるだろう。すでにその体制は完成の域に近づきつつある(55)。


 
8.改憲問題と〈佐藤優現象〉

 〈佐藤優現象〉に示される問題を、喫緊の問題である改憲問題にひきつけて考えてみよう。

 現在のジャーナリズム内の護憲派の戦略は、大雑把に言えば次のようなものだ。北朝鮮問題には触れないか、佐藤優のような対北朝鮮戦争肯定派を組み込むことによって、「護憲」のウィングを右に伸ばし、「従来の護憲派」だけではない、より幅の広い「国民」層を取り込む。また、アジア太平洋戦争については、「加害」の点を強調する(それは「反日」になるから)のはやめて、「被害」の側面を強調し、改憲することによって再び戦争被害を被りかねないことに注意を促す。

この戦略は馬鹿げている。対北朝鮮戦争は人道上、言語道断だと言うだけではない。国民投票の票計算として馬鹿げているのだ。

 そもそも、改憲か護憲(反改憲)か、という問いは、以下の問いに置き直した方がよい。日本国家による、北朝鮮への武力行使を認めるかどうか、という問いだ。

 簡単な話である。仮に日本が北朝鮮と戦争した際、敗戦国となることはありえない。現代の戦争は、湾岸戦争にせよイラク戦争にせよ、アメリカ単独もしくはアメリカを中心とした多国籍軍対小国という、ゾウがアリを踏むような戦争になるのであって、ゾウの側の戦争当事国本国が敗北することは、一〇〇%ありえないからである。大衆は、マスコミの人間ほど馬鹿ではないのだから、そのことは直感的に分かっている。したがって、対北朝鮮攻撃論が「国民的」世論となってしまえば、護憲側に勝ち目は万に一つもない。

 護憲派が、あくまでも仮に、「護憲派のポピュリズム化」や、右へのウィング(これで護憲派が増えるとは全く思えないのだが、あくまでも仮定上)で「護憲派」を増やしたとしても(たとえ、一時的に「改憲反対」が八割くらいになったとしても)、対北朝鮮攻撃論が「国民的」世論ならば、そんな形で増やした層をはじめとした護憲派の多くの人々は「北朝鮮有事」と共に瞬時に改憲に吹っ飛ぶ。自分らに被害が及ぶ可能性が皆無なのだから、誰が見ても解釈上無理のある「護憲」より、「改憲」を選ぶのは当たり前である。

 佐藤のような「リアリスト」を護憲派に組み込む(組み込んだつもりになる)ことで、護憲派は、「現実的」になって改憲に対抗しうると妄想していると思われるが、それこそ非現実的な妄想の最たるものだ。口先だけ護憲の旗頭を掲げている人間と無原則的に組んで、ジャーナリズム内の「護憲派」を増やしたところで、大衆には無関係である。現在の、〈佐藤優現象〉に見られる無原則さ、「右」へのシフトは、対北朝鮮攻撃の容認に向けた世論形成を促進し、大衆への「護憲派」の説得力を失わせることに帰結するだろう。



9.「平和基本法」から〈佐藤優現象〉へ

 〈佐藤優現象〉を支えている護憲派の中心は、雑誌としては『世界』であり、学者では山口二郎と和田春樹である。この顔ぶれを見て、既視感を覚える人はいないだろうか。すなわち、「平和基本法」である。これは、山口や和田らが執筆し、共同提言として、『世界』一九九三年四月号に発表された。その後、二度の補足を経ている(56)。

 私は、〈佐藤優現象〉はこの「平和基本法」からの流れの中で位置づけるべきだと考える。

 同提言は、①「創憲論」の立場、②自衛隊の合憲化(57)、③日本の経済的地位に見合った国際貢献の必要性、④国連軍や国連の警察活動への日本軍の参加(58)、⑤「国際テロリストや武装難民」を「対処すべき脅威」として設定、⑥日米安保の「脱軍事化」、といった特徴を持つが、これが、民主党の「憲法提言」(二〇〇五年一〇月発表)における安全保障論と論理を同じくしていることは明白だろう。実際に、山口二郎は、二〇〇四年五月時点で、新聞記者の「いま改憲は必要なのか」との問いに対して、「十年ほど前から、護憲の立場からの改憲案を出すべきだと主張してきた。しかし、いまは小泉首相のもとで論理不在の憲法論議が横行している。具体的な憲法改正をやるべき時期ではないと思う」と答えている(59)。「創憲論」とは、やはり、改憲論だったのである。

 同提言の二〇〇五年版では、「憲法九条の維持」が唱えられているが、これは、政権が「小泉首相のもと」にあるからだ、と解釈した方がいいだろう。「平和基本法」は、戦争をできる国、「普通の国」づくりのための改憲論である。同提言は軍縮を謳っているが、一九九三年版では、軍縮は「周辺諸国の軍縮過程と連動させつつ」行われるとされているのだから、北朝鮮や中国の軍事的脅威が強調される状況では、実現する見込みはないだろう(60)。また、「かつて侵略したアジアとの本当の和解」、二〇〇五年版では、周辺諸国への謝罪と過去清算への誠実な取組みの必要性が強調されているが、リベラルは過去清算は終わったと認識しているのであるから、これも実効性があるとは思えない。要するに、同提言には、論理内在的にみて、軍事大国化への本質的な歯止めがないのである。

 佐藤が語る、愛国心の必要性(61)、国家による市民監視(62)、諜報機関の設置等は、「普通の国」にとっては不可欠なものである。佐藤の饒舌から、私たちは、「平和基本法」の論理がどこまで行き着くかを学ぶことができる。

 馬場は、小泉純一郎首相(当時)の靖国参拝について、「今後PKOなどの国際的軍事・平和維持活動において殉死・殉職した日本人の慰霊をどう処理し追悼するか、といった冷戦後の平和に対する構想を踏まえた追悼のビジョンもそこからは得られない」と述べている(63)。逆に言えば、馬場は、今後生じる戦死者の「慰霊」追悼施設が必要だ、と言っているわけである。「普通の国」においては、靖国神社でないならば、そうした施設はもちろん、不可欠だろう。私は、〈佐藤優現象〉を通じて、このままではジャーナリズム内の護憲派は、国民投票を待たずして解体してしまう、と前に述べた。だが、むしろ、すでに解体は終わっているのであって、「〈佐藤優現象〉を通じて、残骸すら消えてしまう」と言うべきだったのかもしれない。

 ここで、テロ特措法延長問題に触れておこう(64)。国連本部政務官の川端清隆は、小沢一郎民主党代表の、テロ特措法延長反対の発言について、「対米協調」一辺倒の日本外交を批判しつつ、「もし本当に対テロ戦争への参加を拒絶した場合、日本には国連活動への支援も含めて、不参加を補うだけの実績がない」、「ドイツが独自のイラク政策を採ることができたのは、アフガニスタンをはじめ、世界の各地で展開している国連PKOや多国籍軍に参加して、国際社会を納得させるだけの十分な実績を積んでいたからである。翻って日本の場合、多国籍軍は言うに及ばず、PKO参加もきわめて貧弱で、とても米国や国際社会の理解を得られるものとはいえない」と述べている(65)。

 元国連職員の吉田康彦は「国連憲章の履行という点ではハンディキャップなしの「普通の国」になるべきだと確信している。(中略)安保理決議による集団安全保障としての武力行使には無条件で参加できるよう憲法の条文を明確化するのが望ましい」と述べている(66)。川端と吉田の主張をまとめれば、「対米協調一辺倒を避けるため、国連PKOや多国籍軍の軍事活動に積極的に参加して「国際貢献」を行わなければならない。そのためには改憲しなければならない」ということになろう。民主党路線と言ってもよい。今の護憲派ジャーナリズムに、この論理に反論できる可能性はない。「8」で指摘したように、対北朝鮮武力行使を容認してしまえば、改憲した方が整合性があるのと同じである。

 なお、佐藤は、『世界』二〇〇七年五月号に掲載された論文「山川均の平和憲法擁護戦略」において、「現実の国際政治の中で、山川はソ連の侵略性を警戒するのであるから、統整的理念としては非武装中立を唱えるが、現実には西側の一員の日本を前提として、外交戦略を組み立てるのである。」「山川には統整的理念という、人間の努力によっては到底達成できない夢と、同時にいまこの場所にある社会生活を改善していくという面が並存している」と述べている。私は発刊当初この論文を一読して、「また佐藤が柄谷行人への点数稼ぎをやっている」として読み捨ててしまっていたが、この「9」で指摘した文脈で読むと意味合いが変わってくる。佐藤は、「平和憲法擁護」という建前と、本音が分裂している護憲派ジャーナリズムに対して、「君はそのままでいいんだよ」と優しく囁いてくれているのだ。護憲派ジャーナリズムにとって、これほど〈癒し〉を与えてくれる恋人もいるまい(67)。



10.おわりに

 これまでの〈佐藤優現象〉の検討から、このままでは護憲派ジャーナリズムは、自民党主導の改憲案には一〇〇%対抗できないこと、民主党主導の改憲案には一二〇%対抗できないことが分かった。また、いずれの改憲案になるにしても、成立した「普通の国」においては、「7」で指摘したように、人種差別規制すらないまま「国益」を中心として「社会問題」が再編されることも分かった。佐藤は沖縄でのシンポジウムで、「北朝鮮やアルカイダの脅威」と戦いながら、理想を達成しようとする「現実的平和主義」を聴衆に勧めている(68)が、いずれの改憲案が実現するとしても、佐藤が想定する形の、侵略と植民地支配の反省も不十分な、「国益」を軸とした〈侵略ができる国〉が生まれることは間違いあるまい。「自分は国家主義者じゃないから、「国益」論なんかにとりこまれるはずがない」などとは言えない。先進国の「国民」として、高い生活水準や「安全」を享受することを当然とする感覚、それこそが「国益」論を支えている。その感覚は、そうした生存の状況を安定的に保障する国家―先進国主導の戦争に積極的に参加し、南北間格差の固定化を推進する国家―を必要とするからだ。その感覚は、経済的水準が劣る国の人々への人種主義、「先進国」としての自国を美化する歴史修正主義の温床である。

 大雑把にまとめると、〈佐藤優現象〉とは、九〇年代以降、保守派の大国化路線に対抗して、日本の経済的地位に見合った政治大国化を志向する人々の主導の下、謝罪と補償は必要とした路線が、東アジア諸国の民衆の抗議を契機として一頓挫したことや、新自由主義の進行による社会統合の破綻といった状況に規定された、リベラル・左派の危機意識から生じている。九〇年代の東アジア諸国の民衆からの謝罪と補償を求める声に対して、他国の「利益のためではなく、日本の私たちが、進んで過ちを正しみずからに正義を回復する、即ち日本の利益のために」(69)(傍点ママ)歴史の清算を行おうとする姿勢は、リベラル内にも確かにあり、そしてその「日本の利益」とは、政治大国を前提とした「国益」ではなく、侵略戦争や植民地支配を可能にした社会のあり方を克服した上でつくられる、今とは別の「日本」を想定したものであったろう。私たちが目撃している〈佐藤優現象〉は、改憲後の国家体制に適合的な形で生き残ろうと浮き足立つリベラル・左派が、「人民戦線」の名の下、微かに残っているそうした道を志向する痕跡を消失もしくは変質させて清算する過程、いわば蛹の段階である。改憲後、蛹は蛾となる。

 ただし、私は〈佐藤優現象〉を、リベラル・左派が意図的に計画したものと捉えているわけではない。むしろ、無自覚的、野合的に成立したものだと考えている。藤田省三は、翼賛体制を「集団転向の寄り合い」とし、戦略戦術的な全体統合ではなく、諸勢力のからみあい、もつれあいがそのまま大政翼賛会に発展したからこそ、デマゴギーそれ自体ではなく、近衛文麿のようなあらゆる政治的立場から期待されている人物が統合の象徴となったとし、「主体が不在であるところでは、時の状況に丁度ふさわしい人物が実態のまま象徴として働く」、「翼賛会成立史は、この象徴と人物の未分性という日本政治の特質をそれこそ象徴的に示している」と述べている(70)が、〈佐藤優現象〉という名の集団転向現象においては、近衛のかわりに佐藤が「象徴」としての機能を果たしている。この「象徴」の下で、惰性や商売で「護憲」を唱えているメディア、そのメディアに追従して原稿を書かせてもらおうとするジャーナリストや発言力を確保しようとする学者、無様な醜態を晒す本質的には落ち目の思想家やその取り巻き、「何かいいことはないか」として寄ってくる政治家や精神科医ら無内容な連中、運動に行き詰った市民運動家、マイノリティ集団などが、お互いに頷きあいながら、「たがいにからみあい、もつれあって」、集団転向は進行している。

 ところで、佐藤は、「仮に日本国家と国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家、同胞の日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」と述べている(71)。佐藤は、リベラル・左派に対して、戦争に反対の立場であっても、戦争が起こってしまったからには、自国の国防、「国益」を前提にして行動せよと要求しているのだ。佐藤を賞賛するような人間は、いざ開戦となれば、反戦運動を行う人間を異端者扱いするのが目に見えている。

 この佐藤の発言は、安倍晋三前首相の目指していた「美しい国」づくりのための見解とも一致する。私見によれば、安倍の『美しい国へ』(新潮新書、二〇〇六年七月)全二三二頁の本のキモは、イランでのアメリカ大使館人質事件(一九七九年)をめぐる以下の一節である。「(注・反カーター陣営の)演説会で、意外に思ったことがある。人質事件に触れると、どの候補者もかならず、「私は大統領とともにある」(I am behind the President.)というのだ。ほかのことではカーターをこきおろす候補者が、そこだけは口をそろえる。/もちろん、人質にされている大使館員たちの家族に配慮するという意図からだろうが、アメリカは一丸となって事件に対処しているのだ、という明確なメッセージを内外に発しようとするのである。国益がからむと、圧倒的な求心力がはたらくアメリカ。これこそがアメリカの強さなのだ。」(八七~八八頁)

 文中の、「人質事件」を拉致問題に、「大統領」を安倍に、「アメリカ」を日本に置き換えてみよ。含意は明白であろう。安倍は辞任したとはいえ、総連弾圧をめぐる日本の言論状況や、〈佐藤優現象〉は、安倍の狙いが実現したことを物語っている。安倍政権は倒れる前、日朝国交正常化に向けて動きかけた(正確には米朝協議の進展で動かされたと言うべきだが)が、こうなるのは少なくとも今年春からは明らかだったにもかかわらず、リベラル・左派の大多数は、「日朝国交正常化」を公然と言い出せなかった。安倍政権が北朝鮮外交に敗北したのは明らかである。だが、日本のリベラル・左派は安倍政権ごときに敗北したのである。

 〈佐藤優現象〉は、改憲後に成立する「普通の国」としての〈侵略ができる国〉に対して、リベラル・左派の大部分が違和感を持っていないことの表れである。侵略と植民地支配の過去清算(在日朝鮮人の人権の擁護も、そこには含まれる)の不十分なままに成立する「普通の国」は、普通の「普通の国」よりはるかに抑圧的・差別的・侵略的にならざるを得ない。〈佐藤優現象〉のもとで、対北朝鮮武力行使の言説や、在日朝鮮人弾圧の言説を容認することは、戦争国家体制に対する抵抗感を無くすことに帰結する。改憲に反対する立場の者がたたかうべきポイントは、改憲か護憲(反改憲)かではない。対北朝鮮武力行使を容認するか、「対テロ戦争」という枠組み(72)を容認するかどうかである。容認してしまえば、護憲(反改憲)派に勝ち目はない。過去清算も不十分なまま、札束ではたいて第三世界の諸国の票を米国のためにとりまとめ、国連の民主的改革にも一貫して反対してきた日本が、改憲し、常任理事国化・軍事大国化して、(国連主導ではあれ)米軍中心の武力行使を容易にすることは、東アジア、世界の平和にとって大きな災厄である(73)。

 改憲と戦争国家体制を拒否したい人間は、明確に、対北朝鮮武力行使の是非、対テロ戦争の是非という争点を設定して絶対的に反対し、〈佐藤優現象〉及び同質の現象を煽るメディア・知識人等を徹底的に批判すべきである。





(52)佐藤優「集団自決の教科書検定問題で文部官僚を追い込め」『金曜日』二〇〇七年九月一四日号。佐藤ら右派が「日米同盟」の堅持を主張しながら、集団自決に関する教科書検定で文科省を批判することはおかしくない。アメリカの有力シンクタンクも、沖縄での米軍基地の拡張・新設にあたって、「台湾海峡という紛争水域周辺の重要な地域に足場を確保するために」、沖縄に海兵隊撤退などの「見返り」を与えることを主張している(浅井基文『集団的自衛権と日本国憲法』集英社新書、二〇〇二年二月、六三頁)。「見返り」には、歴史認識に関する沖縄の声に日本政府が配慮することも含まれよう。無論、「日米同盟」を支持するリベラルによる文科省批判も、同様の計算が多かれ少なかれ働いていると見るべきだろう。

(53)「5①」でも指摘したが、リベラルはすでに日本の過去清算は終わったものと認識しているのだから、論理上、在日朝鮮人が特別永住者として韓国国籍・朝鮮籍のままでいることを否定することになる。なお、総連弾圧と並行して、坂中英徳・浅川晃広を中心とし、在日朝鮮人の日本国籍取得を推進する主張が論壇上で活発に展開されていることにも留意する必要がある。坂中が民族団体を「日本国籍の取得を徹底的に拒否してきた」として激しく攻撃することからもわかるように、総連の消滅は、在日朝鮮人を「コリア系日本人」とするプロジェクトにとって、これ以上ない贈物であろう。詳しくは、宋安鍾「「コリア系日本人」化プロジェクトの位相を探る」『現代思想』二〇〇七年六月号参照。

(54)2ちゃんねるなどに見られる差別書き込みは、「ネタ」として若者が交流するためのツールであって、排外主義ではないとする解釈は、その典型だろう。在日朝鮮人の人権を守るのではなく、ネット右翼に「ネタ」というエサを与えて飼い慣らしておいた方が、社会統合上、よいということだ。なお、九〇年代以降、多くの先進国で排外主義が活発化したことが報告されているが、背景としては、単に「グローバリゼーションで没落した人、没落しそうな人が、排外主義の基盤になっている」だけではなく、ここで指摘したような構図があるように思われる。すなわち、グローバリゼーションによる「国民」統合の失敗を回避するために、マイノリティに対する排外主義の動きを、リベラルが容認・黙認する、という構図である。

(55)馬場は言う。「戦後の日本・日本人に対する強烈な同化への欲望と、それに匹敵するほどの反発と不信が同居する彼らの様々な葛藤や矛盾は、「在日問題」として、日本政府・自治体に対する権利要求、人々の偏見に対するクリティカルな言論活動、自らのアイデンティティを掘り下げ表現した「在日文学」や「在日」による様々な芸術活動の中で展開されている」(前掲「戦後東アジア心象地図の中の日本」)。この叙述には、「在日問題」とは、在日朝鮮人の直面する社会的・法的差別や人権侵害のことではなく、「在日」の存在自体のことであるとする馬場の意識が露呈している。また、「不公平な弱者救済を受ける人間」として、「もはや差別などほとんど無きに等しいのに今だに非差別者としての特権のみを得ている、女性や在日や部落」を挙げる(「深夜のシマネコBlog」二〇〇六年九月一五日付)赤木智弘が、「論壇」や若年者労働運動で持てはやされるのも、ここで指摘したことの一側面であろう。
  なお、佐藤は、日本がファシズムの時代になり、「国家に依存しないでも自分たちのネットワークで成立できる部落解放同盟やJR総連の人たち」が叩き潰されると、左右のメディアも弾圧されて結局何もなくなると主張する(「国家の論理と国策操作」『マスコミ市民』二〇〇七年九月号)。ところが、佐藤は同じ論文で、緒方重威元公安調査庁長官の逮捕について、「国民のコンセンサスを得ながら朝鮮総連の力を弱める国策のなかで、今回の事件を(注・検察は)うまく使っている」と述べており(傍点引用者)、朝鮮総連の政治弾圧には肯定的である。この二重基準に、「国民戦線」の論理がよく表れている。「国民戦線」の下では、「人権」等の普遍的権利に基づかない「国民のコンセンサス」によってマイノリティが恣意的に(従属的)包摂/排除されることになる。

(56)原型は、古関彰一・鈴木佑司・高橋進・高柳先男・坪井善明・前田哲男・山口二郎・山口定・和田春樹「共同提言「平和基本法」をつくろう」『世界』一九九三年四月号。その後、同「共同提言 アジア・太平洋地域安保を構想する」『世界』一九九四年一二月号、古関彰一・前田哲男・山口二郎・和田春樹「共同提言 憲法九条維持のもとで、いかなる安全保障政策が可能か」『世界』二〇〇五年六月号、が発表されている。二〇〇五年版では、恐らく政治情勢上の判断から、論理や表現がぼかされているので、ここでは一九九三年版に基づいて論じている。

(57)「自衛隊合憲論ではない」としているが、「平和基本法が成立したとき、国会は国土警備隊(注・自衛隊の名称を変えたもの)を合憲と認める」とあるので、明らかな自衛隊合憲論である。

(58)国連軍への「参加は慎重にすべき」とあるが、「「国連軍」を、各国と協力しつつ具体的な形で提案する」ともある。なお、同提言は、「国際(国連)警察的な活動」に参加するのは「日本部隊」であって軍隊ではないとする。だが、同「部隊」が任務とするのは「非軍事を中心とする国連の平和維持活動など」であって(傍点引用者)、軍事参加が否定されているわけではない。

(59)『東京新聞』二〇〇四年五月二日。

(60)この点は、上田耕一郎「「立法改憲」めざす「創憲」論」(『世界』一九九三年八月号「平和基本法―私はこう思う」所収)でも指摘されている。呆れることに、前田哲男は『自衛隊』(岩波新書、二〇〇七年七月)において、「平和基本法」の一九九三年版について、「(注・自衛隊を)「最小限防御力」にまで縮小・分割していく。その一方で、軍縮を手がかりとしながらアジア諸国との和解をなしとげ」ると記述している。論理が逆転しているではないか。藤原帰一は、「(注・中国が)もし(注・アメリカの)ミサイル防衛を阻止したいのであれば、それと引き換えに中距離ミサイルの設備更新をはじめとする軍拡を断念しなければならない」としている(「多角的核兵力削減交渉「広島プロセス」を提言する」『論座』二〇〇七年八月号)が、当然日本のミサイル防衛についても同じ論理が適用されるだろう。現実の一九九三年版の方が、今のリベラルの論理と気分にはるかに忠実である。

(61)佐藤はイスラエルを賞賛し、「外務省でも私、東郷さん、そして私たちと志を共にする若い外交官たちは、日本とイスラエルの関係を強化する業務にも真剣に取り組みました。彼ら、彼女らは、「私たちはイスラエルの人々の愛国心から実に多くのものを学ぶ」ということを異口同音に述べていました」(『獄中記』三九七頁)と書いている。イスラエルのレバノン侵略戦争を佐藤が肯定していることは既に触れたが、佐藤は同書で、「中東地域におけるイスラエルの発展・強化は、イスラエルにとってのみでなく、日本にとっても死活的に重要です。なぜなら、私たちは、人間としての基本的価値観を共有しているからです」(同頁)とも述べている。佐藤は、日本をイスラエルのような国家にしたいのだと思われる。

(62)自衛隊の情報保全隊による市民監視について、佐藤は言う。「外務省でも、外務省にとって好ましくない団体の集会に行くなど国内調査をしていた。行政側の文脈としては「当たり前」の仕事でもあるが、国民がその言い分を額面通り認めてはならない。自衛隊がやったことは、結社の自由に対する侵害などの問題性をはらんでいる。警察や公安調査庁などを含め、どこまで国家がこういうことをやっていいか。その線引きがない。冷静な議論を通じて国民が決めていく必要がある」(『河北新報』二〇〇七年六月一〇日)。ここでは、国家が市民を監視すること自体は否定されていない。「線引き」さえあれば正当化される。国家による市民へのスパイ行為を否定しない佐藤を、「監視社会化」に批判的であるはずの斎藤貴男が賞賛するのは、やはり奇妙だというほかない。せめて斎藤には正道に戻ってもらいたいものだ。

(63)馬場は、この一節での注で、船橋洋一「過去克服政策を提唱する」(同編『いま、歴史問題にどう取り組むか』岩波書店、二〇〇一年)を挙げているが、興味深いことに、船橋の記述と馬場のそれとは重要な違いがある。船橋は同論文では、「平和の時代にあっても、国際協力事業で命を失った人々もいる。平和維持活動(PKO)で命を落とした人々もいる。今後も日本の平和を守るために尊い生命を犠牲にする人々がでてくるだろう。それは日本人に止まらないかもしれない」(一六五頁)と述べている。馬場の「ビジョン」では、PKO参加5原則すらない、PKOに止まらない、今後の軍事活動が想定されており、追悼対象は日本人の「慰霊」であることがわかる。なお、一九九三年版の「平和基本法」はその構想の現実化において、「旧帝国軍隊を想起させる靖国神社への死者の合祀や、市民社会への違法な諜報活動なども停止されなければならない」としている。逆に言えば、旧帝国軍隊を想起させない戦死者追悼施設、国家による市民への合法的な諜報活動は否定されていない。

(64)佐藤の論理からすれば当然であるが、佐藤はテロ特措法延長を支持している。〈地球を斬る〉二〇〇七年九月一九日「総理大臣の辞任」参照。

(65)川端清隆「テロ特措法と安保理決議―国連からの視点」『世界』二〇〇七年一〇月号。なお、同論文に対して、小沢は次号に反論を寄せている(「今こそ国際安全保障の原則確立を」『世界』二〇〇七年一一月号)。小沢は、護憲派ジャーナリズムに食指を動かしてきたわけだが、これは、一九九三年版の「平和基本法」時と同じ構図である(渡辺治『政治改革と憲法改正』(青木書店、一九九四年)参照)。前回の政治過程が、日本社会党の自衛隊合憲論への転換と、党の消滅に帰結したことを忘れるべきではない。なお、小沢の同論文の、国連決議があれば武力行使に自衛隊が参加しても合憲とする主張に対し、朝日新聞は社説で疑問を呈して、「安全保障に関する基本法」などに関する「体系的な議論」が必要だとする(二〇〇七年一〇月六日)。自治労も「平和基本法」を支持しており、「平和基本法」への警戒を怠ってはなるまい。

(66)吉田康彦『国連改革』集英社新書、二〇〇三年一二月、五七頁。

(67)佐藤の同論文の読解については、岩畑政行のブログ「政治ニュース 格物致知」二〇〇七年九月二三日付「護憲的安全保障について」から示唆を得た。無論、佐藤の主張は柄谷行人の「憲法九条=統整的理念」論から来ているが、ここでは、柄谷の主張が、たかだか憲法九条をプログラム規定として解釈するものに過ぎなかったことが浮き彫りになっている。実際に、九・一一事件以降の柄谷の言説は、「戦争への参加」への屈服の自己正当化という特徴を持っている(高和政「湾岸戦争後の「文学者」」『現代思想』二〇〇三年六月号参照)。

(68)前掲「集団自決の教科書検定問題で文部官僚を追い込め」。

(69)安江良介『同時代を見る眼』岩波書店、一九九八年(原文発表は、一九九二年三月二一日付)。

(70)『藤田省三著作集2 転向の思想史的研究』みすず書房、一九九七年、一〇六~一〇七頁。

(71)〈地球を斬る〉二〇〇七年七月四日「愛国心について」。

(72)例えば、最上敏樹は、アメリカやイギリスなどの諸国のテロへの「不安や焦燥感」に全く理由がないとは言えないから、有志連合形式の武力行使を抑えるために、国連を「国際的な警察活動の中心へと戻してやることが必要だ」とする(最上敏樹『いま平和とは』岩波新書、二〇〇六年三月)。国連主導の「対テロ戦争」である。なお、当然ながら、国連主導であったとしても、日米を参加国とした国々と北朝鮮との武力衝突、戦争への発展は起こりうる。二〇〇六年の北朝鮮のミサイル発射実験、核実験に対して決議された安保理決議も戦争の道につながりうる。

(73)日本の常任理事国化がいかに問題か、日本がこれまで国連の場で米国に追従していかに夜郎自大に振舞ってきたか、そしてそのことがリベラルにいかに認識されていないかについては、河辺一郎『日本の外交は国民に何を隠しているのか』(集英社新書、二〇〇六年四月)参照。

[金光翔(キム・ガンサン)一九七六年生まれ。会社員。韓国国籍の在日朝鮮人三世。gskim2000@gmail.com]
  • 2008.01.27 02:49 
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