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> 論文・エッセイ

金玟煥「日本の軍国主義と脱文脈化された平和の間で――沖縄平和祈念公園を通して見た沖縄戦を巡る記憶間の緊張」 

(※管理人注:「現知事」「前知事」などの表現は、発表時(2005年11月)のもの。)


日本の軍国主義と脱文脈化された平和の間で
    ―― 沖縄平和祈念公園を通して見た沖縄戦を巡る記憶間の緊張


【著者:金玟煥(キム ミンファン)
1972年釜山生まれ。ソウル大学社会学科博士課程修了(文化社会学専攻)。韓国のいくつかの大学で非常勤講師。主要論文に「韓国の国家記念日成立に関する研究」、「誰が、何を、どのように記憶するのか」、 「虐殺と内戦、空間的再現と言説的再現の間隙: 居昌事件追慕公園の空間分析」。】

【初出掲載誌:「2003年度~2006年度科学研究費補助金 基盤研究(A)研究成果報告書 変容する戦後東アジアの時空間――戦後/冷戦後の文化と社会」(研究代表者 中野敏男、2007年6月)】


1. はじめに

 一般的に、造成されてからかなりの時間が経過した記念公園や記念館などは、その存在が十分に認識されることで当初それが造られたときの意見の不一致や葛藤などが想起されることは難しくなる。何を記念するのか、どのように記念するのか、当初に記念しようとした人々が一体誰なのかは単純に「沿革」としてだけ伝えられ、記念公園や記念館などが造られる過程で生じた「政治学」は忘れ去られてしまう。そして、記念公園や記念館などは過去に起こった事件を「あるがままに」描写し伝承するので、後世には過去の事件を客観的に教育するための空間として認識されてしまう。

 しかし過去の事件を純粋に、また客観的に描写する記念公園や記念館などは存在しえない。過去には、記念されるものと忘却されなければならないものの間の「選択と排除」の問題が介入していて、特定の描写方法を「選択する」という問題もまた介在してくる。すなわち、過去に存在した歴史的な事件に対する「解釈」の問題が必然的に介入してくるのである。このような観点を確認した場合、記念公園や記念館について重要なことは、その空間で一体何が記念されているのかということよりも、一体何が記念されていないのかという問題であり、記念されることと記念されないことがどのように結合しているのかという問題である。特定の歴史的な事件がどのような社会的な力学の網の目の中でどのような特定の方法で記念されるのかを把握することは、結局その力学が働いた当時の社会のあり方を把握することでもある。記念公園や記念館を巡る「記憶の政治学」(1)を媒介に特定の社会を理解すること、結局これは最近、記念(commemoration)をめぐる多くの研究が目指しているところでもある(2)

 ここでも基本的にはその目的を実践しようとするものである。これにあたり沖縄と平和祈念館は特別に意味がある素材だと思われる。なぜなら、この平和祈念公園は造成されてから、それ程時間が経っておらず、造られた当時の「記憶の政治学」がそのまま表出する空間であり、その争点も比較的明確で沖縄社会の葛藤の様相をも容易に推測することができるからである。それ故にこの問題を扱った研究も既に多く発表されている(3)。しかし、既存の研究は沖縄平和祈念公園をめぐる「記憶の政治学」の問題を日本と沖縄あるいは日本の中の沖縄という観点から扱うのが主流であるのに対して、ここでは、東アジアというより大きな枠組みの中でこの問題を眺めることは一体どのような意味があるのか、ということを念頭に置いてこの問題に接近する。韓国の研究者が沖縄を研究することが持つ唯一の強みはまさにこの地点にあるからである。これについては本論で本格的には扱わないが結論部分で言及する。


2. 沖縄平和祈念公園の現況

okinawa.png
<図1> 沖縄平和祈念公園の配置図(空間分割は筆者による。「沖縄平和祈念公園公式パンフレット」より)

 沖縄平和祈念公園は沖縄本島の南部、糸満市摩文仁(いとまんしまぶに)に位置している。摩文仁は水面から約100m程度の高さの絶壁であるが、ここで太平洋に向かって広がるその青い海と白い波を眺めると誰もがその美しさに息を呑む。しかしここは沖縄戦当時、沖縄の防御線を担当していた日本軍がアメリカ軍の上陸作戦によって後退しながら最後に行き着いた場所であり、当時総指揮官であった牛島満中将と彼の参謀長が1945年6月23日に切腹し、自決したところでもある。このような歴史的な背景の中で沖縄平和祈念公園が位置しているのである。

 沖縄平和祈念公園は大きく二つの領域で構成されている。一つは国立沖縄戦没者墓苑を中心に日本の各県が、その県の出身者として沖縄戦で戦死した人々を追悼するために建てた慰霊塔が「霊域園路」という路に沿って並んでいる領域である(図1の右側部分、以降<領域1>と呼ぶ)。この路の先端の丘陵の上には自決した牛島とその参謀長を追悼するために建てられた「黎明之塔」が聳え立っている。

 他の領域は沖縄県が造成を主導したところである(図1の左側の部分、以降<領域2>と呼ぶ)。そしてまたこの領域は大きく二つの部分で構成されている。一つは「平和の礎」であり、もう一つは「沖縄県の平和祈念資料館」である。「平和の礎」は戦死した人々の名前が刻まれている刻銘碑である。波模様の黒い花崗岩の碑が弧(arc)を描いていて少しずつ扇状に広がっていく様式である。アメリカのワシントンにあるベトナム戦争の参戦記念碑(the Wall)から着想を得たとされているが(4)、それと異なっている点は、ベトナム戦争の参戦記念碑にはベトナムで犠牲になったアメリカ兵の名前だけが刻まれいるのに対して、平和の礎には沖縄戦で犠牲になったすべての人々の名前が国籍に関係なく、また民間人であるか軍人であるかの別や、戦争加害者と被害者の別なく刻まれているという点である(5)。そして新しい犠牲者が発見されれば、いつでもその名前を刻むことができる空間も用意されていて、毎年ここに名前が追加されている。平和の礎は海岸部分の絶壁の頂上付近に建立され、そこから岸壁に砕ける波を眺めることができるが、その波が穏やかな平和の波になるようにという願いが込められている。またその礎の配置は静かに波立つ姿を表現しているのである(6)

 「沖縄県平和祈念資料館」は、1975年に建てられたこの施設が老朽化するに従ってこれを新しく建て直す必要性が提起され、2001年4月に新しく開館した展示空間である(7)。元の大きさの9倍の規模で増築されたこの平和祈念資料館は平和の礎と向かい合っており平和の礎と関連付けられて建築された。平和の礎が追想の場所であり平和の象徴として機能しているならば、祈念資料館は戦争の非合理性と野蛮性が展示され、学びの場所として機能しているのである(8)

 これ以外にも平和祈念公園には「沖縄平和祈念堂」や「韓国人慰霊塔」も存在する。これらは平和祈念公園全体から見れば<領域1>と<領域2>の両側からそれぞれ一定の距離で引き離されている印象を与える(9)

 平和祈念堂は1978年10月に開館した12mの高さの塔様式の建築物であり、内部には美術館があり、平和祈念塔の理念に賛同した日本の美術家たちの作品が展示されている(10)

 韓国人慰霊塔は1975年9月3日に建てられたが、「韓国人慰霊塔」という碑銘は朴正熙が書き、碑文は李殷相が書いたことになっている(11)。この慰霊塔が沖縄平和公園内に存在する他の多くの慰霊塔とどのような関係にあるのか、またその位置にはどのような意味があるのかはまだ十分に明らかにされていない。しかし、Figalはこの慰霊塔の碑文で強調されている(日本軍による)「虐殺」という言葉が「霊域園路」に沿って存在する、各県が建てた慰霊塔の碑文の内容(日本軍戦死者に対する賛美)と葛藤を引き起こす可能性に注目している(12)。また長らく広島平和公園の外部に存在するしかなかった広島原爆被害の韓国人犠牲者の追悼碑の事例と関連して、この慰霊塔の位置が持つ意味を説明している。すなわち、<領域1>の空間は日本人だけの空間であり、韓国人という異質的な存在は<領域1>の外部に存在するしかないということである。しかしこの解釈は推測の域を出ておらず、今後より詳細な検討が要求される。


3. 沖縄平和祈念公園が内包している沖縄戦の記憶の緊張

 これまで沖縄平和祈念公園が空間的にどのように構成されているのかを見てきた。大雑把に見るだけでも沖縄平和祈念公園は異質的な二つの領域が互いに対立しているという事実を確認することができる。明確に区分されるこの二つの領域が各々意味するところは何であろうか。あるいはこれに付与される意味は何であろうか。この問題は沖縄戦をどのように記憶するのかという問題と直接関連している。

 沖縄戦は1945年3月26日のアメリカ軍の慶良間諸島の攻略に始まり、4月1日沖縄本島の上陸、そして6月23日の第32軍牛島司令官の自決で終決した(13)。この戦闘でアメリカ軍は上陸軍18万人余りを投入したが、日本軍の守備隊は7万7千人程度であったという(14)。3ヵ月間の戦闘で日本は敗北を喫することになるが、本来この戦闘は日本に勝算がない戦闘であったと見るのが一般的である。すなわち沖縄は日本本島を守るための防波堤に過ぎなかったのである。アメリカ軍を沖縄に一日でも長く足留めすることが作戦上の最優先事項であり、このために沖縄住民が強制的に戦場に動員された。この過程で日本語ができない沖縄住民はアメリカ軍のスパイと看做され射殺される事態も発生し、日本軍による集団虐殺も頻繁に行われた(15)。また「強制的集団自殺」(16)によって多数の住民が死亡した。沖縄戦と関連した死亡者数は24万人を超えると推定されている。この犠牲者をどのように記憶するのかという問題に対して、相違する回答が沖縄平和祈念公園内に存在するこの二つの領域なのである。

Ⅰ. 日本の軍国主義の緊張

 沖縄平和公園内の<領域1>は明らかに靖国神社と同じ役割を果たしている空間である(17)。ここは基本的に日本人のための空間であり、その中でも日本のために命をささげた「皇軍」のためだけの空間である。これを最もよく現しているのは慰霊塔が存在する方法である。<領域1>の慰霊塔の中では直接的に特定の部隊員のための慰霊塔が多数存在する。主に生き残った「戦友」たちによって建てられたこの慰霊塔は同僚の死を日本的な文脈の中で記憶しようとする意志の現れである。そして前述したように日本の各県がその県の出身者たちの中から沖縄で戦死した人々を追悼する慰霊塔を<領域1>で建てた。沖縄までやって来て戦死した他県出身者の民間人はどれ程いるのだろうか。従ってこの慰霊塔は全面的に当時の日本軍人のための慰霊塔であると認識するべきだ。この慰霊塔の碑文を内容別に調査したある報告書によれば(18)、この記念塔の碑文は大抵「戦争や戦死者たちを肯定賛美して美化」したり、「愛国憂国の心情」を表現する内容を含んでいるという。牛島司令官と彼の参謀長の自決を愛国心と軍人精神の真正な発露として賛美する「黎明の塔」が<領域1>の頂上に聳えていることも同じ文脈で捉えることができる。これと同様に<領域1>は沖縄戦を「祖国守護戦争」という文脈で記憶すべきだとする軍国主義の観点が貫徹される場所として日本軍による被害者たちは徹底して隠蔽されているのである。当然日本軍によって直接間接的に被害を被った人々の視点で見るならば居た堪れない場所でしかあり得ない。

 <領域1>の観点に対抗しているのが<領域2>である。<領域1>の空間が戦争を賞賛する日本の軍国主義に屈することだと批判した大田昌秀(19) 前沖縄県知事は平和公園内の他のどの記念碑とも異なる形式の記念碑を建てることを宣言したが、それがまさに1995年の沖縄戦闘終了50年記念日に合わせて建立された平和の礎である。前述のようにここは日本のために死んだ軍人の他にも、沖縄戦で戦死したアメリカ軍、沖縄の民間人、韓国人、台湾人などすべての犠牲者を追悼する空間として企画されたものである。<領域1>では認識されていなかった人々を可視化しているという点で<領域2>の平和の礎は意味を持つ。

 <領域2>の沖縄平和祈念資料館は基本的に<領域1>の観点に挑戦している空間である。2000年に拡大新築される前の本来の平和祈念資料館は1975年に公式開館された。1975年に初めて開館されたとき、この平和祈念資料館は<領域1>の視点をそのまま受容していたという(20)。入口では日の丸と牛島中将の写真が掲げられ、牛島に献呈された詩も同時に展示されていた。資料館のこのような観点に反発した多様な平和運動団体と研究者たちが県議会と県政府に抗議し、県政府は素早く他の方法で平和祈念資料館を建てることを決定した。結局、2年後の1977年、<領域1>の視点とは完全に異なった形式で建てられた平和祈念資料館が市民に公開された。改装された資料館は軍の文書、宣伝ポスター、戦争経験に関連した生々しい口述資料が展示された巨大で暗い部屋などで評判だったという(21) 。この口述資料などを詳細に読めば「ヤマトンチュ(22)の兵士でさえ死ぬとき、『天皇陛下万歳』を叫ばなかった」(23)という事実を知ることができたと1993年ここを訪れたノーマ・フィールドは記録している。

 本来、祈念資料館はその構造において展示と資料保管能力において深刻な限界があった。故に大田前知事は1995年に沖縄平和祈念資料館を新しく建てる基本計画を発表した。もちろん平和祈念資料館の増築は平和の礎の建立と空間的調和やその志向するところにおいて同一の地平を共有するものであった。増築された平和祈念資料館の基本方針は、過去の資料館の精神を維持しながらも「沖縄戦の真実」が「省略されることなく」描写される施設を作ることがその核心であった(24)。新しい資料館には「戦争に至った歴史的過程」、「アジア太平洋地域の国々の歴史」、「アジアの国々に苦痛を与えた日本の戦争責任に対する考察」なども展示される予定であった(25)。しかし現在計画通りに展示されてはいない。その理由は大田前県知事の後任である自民党系の稲嶺恵一現県知事が本来予定されていた展示計画を変更しようと試み、その一部のみが実現しただけだからだ。

 稲嶺知事が変更を試みたものは、第2次大戦当時日本がアジアで行った役割と関連があるものが中心であった。県当局は「映画を通じて見る日本の侵略」というセクション全体をなくす命令を下した。これには南京大虐殺の場面、731部隊が行った蛮行、シンガポールで日本軍によって殺害された人々の遺骸発掘の姿などが含まれていた。日本に反対する大衆運動と関連した歴史的文献と資料、そして韓国の抵抗運動を記念して発行された記念切手などが撤去されて、「慰安婦」関連資料、領土紛争と関連した資料なども外された(26)

 戦後のアメリカ軍の占領を記述する部分にも多くの変更があった。先ず県当局はアジア-太平洋地域の平和維持のためのアメリカ軍の役割が展示内容に含まれなければならないと主張した。また沖縄で起こった事件・事故の中でアメリカ軍が関係した事故よりもそうでない事故の方が多いという事実を説明する展示の必要性を強調した(27)。故に現在平和祈念資料館の中ではアメリカ軍の存在がまるで背景のように処理され、事実上存在しないかのような印象を与える。

 沖縄住民の反発を最も多く招き、また展示内容が変更されるという事実が広く知られることになった契機は、ガマ(28)で起こった事件を再現する復元模型の変更であった。この復元模型は子供の泣き声のためにアメリカ軍によって壕が発見されることを恐れた日本軍兵士が沖縄人の母親にその子供を殺すことを命令し、銃を突きつける場面を再現することになっていた。しかし、この平和祈念資料館の運営を担っていた委員の一人がある日資料館を訪れたとき、兵士は銃を持っておらず単に洞窟に潜んでその親子を眺めているだけの場面に変わっていることに気が付いた(29)。この事実がマスコミに知られるや、沖縄県民は県当局に強く抗議を行った。その後副知事が謝罪し、記念館の運営委員会は銃を復元することに成功した。しかし銃が直接子供の母親を向かないように銃の角度を若干下げることに同意するしかなかった(30)

 稲嶺知事がこのように展示内容を変更するよう指示した理由は、「事実ではあるが、あまりに反日的になってはならない。沖縄も日本の一県に過ぎないのであり、日本全体の展示に関して考えないのは良くない」(31)ということである。すなわち「靖国化」されている<領域1>の観点と完全に相反する観点を取り入れることはできないというのが彼の立場であったのである。

 現在平和祈念資料館の展示内容の相当部分が本来の計画よりも縮小されることになったが、縮小することができないものも存在する。それは沖縄戦を経験した体験者が直接口述した内容を書き取った資料である。<領域1>でかき消されている戦争被害者の声が流れ出ているこの口述資料は沖縄において沖縄戦の「真実」を伝えてくれる一次資料なのである。そして、この口述資料を収集する過程が沖縄戦の真実を伝える過程であったために、この資料は日本の軍国主義者たちが押さえつけようとしても押さえつけることができないものなのである。また平和祈念資料館の展示内容の変更に関して沖縄の多くの学者と県民が関心を持っているので、県政を担当する勢力が変われば本来の展示計画どおりに展示される可能性も大きい。また現在県政を担当する勢力が継続して権力を維持するとしても今よりも展示内容が縮小される可能性はないと推測される。<領域2>の空間を直接<領域1>の内容、すなわち靖国的に変更させることは不可能であると思われる。戦争の間苦痛を被った人々の声が溢れ出る場所において、直接的に戦争を賛美し美化することは事実上不可能なのである。平和祈念資料館は常に「平和」に関して言及し続け、<領域1>とは明確に区分された場所として残されるだろう。

Ⅱ. 脱文脈化された平和主義との緊張

 しかし、<領域2>が<領域1>とは異なり持続的に「平和」を強調しながら「戦争」の美化を警戒したとしても、この「平和」の内容を強調する方法自体が変化してしまう可能性は常に存在する。すなわち、露骨に靖国化される可能性はないとしても、「広島化」される可能性は大きく、<領域2>を最初に構想し現実化した人々はこの可能性に対して苦しい戦いを強いられることになるだろう。

 多くの研究者たちは、第二次大戦で日本の広島と長崎に原子爆弾が投下された後、日本人たちは自らを戦争の被害者と捉えるようになったという事実を指摘している(32)。特に広島の場合は都市の至るところに残っている原子爆弾による可視的な被害が「平和」に関する言説と結合して日本人たちを犠牲者意識に浸らせ、日本がアジア-太平洋地域で行った侵略者としての姿を批判的に捉えることを不可能にさせる機能を担っていることを認識する必要がある。これが最も端的に現れている場所が広島平和公園内の広島平和博物館である。

 広島平和博物館では日本の侵略の歴史に対する展示内容を、日本国内の大部分の他の博物館と同様、目にすることができない。日本の国公立博物館での「戦争の非展示」(33)という現象に対して、1987年広島地域の平和運動家グループが挑戦したことがあった。彼らは広島平和博物館に日本の侵略の歴史に関する記録を展示するよう請願を行ったが、これは却下された(34)。Burumaが広島平和博物館を訪問した当時平和博物館の館長であった川本義隆は、「侵略者のコーナー」を設置してくれという提案を拒否した理由について次のように述べた。

ここにそんなものを設置することはできません。侵略者たちは東京に座っていましたから。私たちの唯一の目的は1945年8月6日に何が起こったかを見せることにあります 。 (35)

 この発言は歴史的な文脈が除去された「平和」というものがどれ程危ういかということを示唆する発言である(36)。すなわち広島的な「平和」は沖縄戦の犠牲者と広島の原爆被害者を分断する機能を果たすのである。このように美化された平和と、靖国神社や沖縄平和公園内の<領域1>で見られる美化された戦争との距離はどれ程開いていると言えるだろうか(37)

 もちろん、脱文脈化された被害者的な視点から語られる広島的な「平和」と沖縄平和公園内の「平和の礎」が語るそれはその起源において明確に区別されるものである。<領域2>を初めて企画した人々が語る平和は明らかに日本の戦争責任を念頭に置いていたし、沖縄の人々が被った戦争被害も沖縄の人々が日本の戦争行為に同調して他のアジアの人々に被害を与えたことでブーメランのように返ってきたことをしっかり認識していた(38)。しかし前述したように、このような認識は新しい県知事を誕生させた勢力の台頭によって深刻な危機を迎え、「平和」を脱文脈化するこのような試みは今後もより巧妙に行われる可能性が大きい。

 このような状況の中で平和の礎に名前を刻むという行為をもう一度省察する必要がある。なぜなら、平和に対するこのような脱文脈化された美化の可能性は、事実、この名前を刻む行為自体に由来するからである。平和の礎に言及する多くの人々は、礎に名前を刻むことが初めて決まったときに沖縄現地で沸き起こった反発を一様に紹介している(39)。それは、現在、平和の礎に名前が刻まれている方法は、全ての戦争犠牲者を同一視し、日本の戦争責任に関する問題を曖昧にするというものであった。特に沖縄からは日本出身の軍人犠牲者と沖縄の民間人の犠牲者の名前が一緒に刻まれることは適切ではないと指摘された。しかし、このような批判を紹介しながらも現在はこのような論争が収束したと説明されている。保坂広志によれば、

建設当時は、戦争加害者を祀ることは新しい「靖国化」ではないのかとか、敵味方の区別なく名前を刻むことは世界の他の刻銘碑の例に反するのではないかという指摘もあったが、現在はそのような反発や異論は起こっていないようである。それは戦争という過酷な現実の前では、死亡者は全て犠牲者なのであり、人の生命には軽重がないということ、あるいは多数の戦没者の刻銘碑を見ることでどれ程この戦争が惨酷の極みにあったかを一目瞭然にわかる配置になっているためかもしれない 。(40)

 しかし筆者は、平和の礎の建立計画が発表された当時の批判がこれ以上提起されないことは、「平和」を脱文脈化する一助になっていると考える。むしろ現在このような批判を提起すること自体に意味があると考える。

 多くの人命被害をもたらした悲劇的な歴史的事実に対して加害者と被害者を区分せず追悼しようとする試みは、常に論争を巻き起こすことになる。1986年当時西ドイツ首相ヘルムート・コールは西ドイツを訪問した当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンに、ベルゲンベルゼンのユダヤ人強制収容所があった場所に造られた墓地を訪問して、それから何時間も経たないうちに、ナチの親衛隊員たちも埋葬されているビットブルクのドイツ戦没将兵墓地を訪れることを提案した。コールは過去の敵国同士であったアメリカと西ドイツ間の偉大な和解の瞬間に、ナチ親衛隊の墓と他の戦争犠牲者の墓を区別することは洗練された振る舞いではない、いや、全く相応しくない振る舞いだと考えたのかもしれない(41)。しかし、コールのこのような行動によってドイツでは新しい歴史論争が沸騰し、それは現在依然として進行中である。コールが採った過去の被害者と加害者を区別することなく追悼する方法を支持する人もいたが、多数の知識人は過去の世代が犯した加害の事実をより根本的に反省するために新しい歴史認識が必要だという主張を繰り広げた。権力を握った人々だけでなく平凡な当時のドイツの人々の責任も問わなければならないと訴えたのである。そしてその方法として「日常史」が提唱されもした。

 一方韓国でも同じような事例が存在する。新しく造成された光州望月洞(マンウォンルドン)墓地が国立墓地になりながら、加害者と被害者は同列に並べられるようになった。韓国で代表的な国立墓地である銅雀洞(トンジャクドン)の国立墓地の東側29墓域の将校墓地では次のような碑文を目にすることができる。「1980年5月22日光州で戦死」(42)。これが意味することは明確である。1980年5月に光州で市民を虐殺した軍人が、自衛のために武装した光州市民軍との戦闘で死亡し、銅雀洞の国立墓地に埋葬されているのである。また国家権力の被害者であった光州の市民たちが埋葬された望月洞墓地が国立墓地になると、加害者と被害者が一緒に国立墓地に埋葬されるという事態も発生した。加害者と被害者の両者が国家の暴力によって死亡したのであるが、死者を区別する必要はないという論理が広く承認されたのである(43)。だがこれに対して批判的な韓国人たちはかなりの数に達するのである。

 加害者と被害者の間に存在する差異を無化させるこのような論理は、特定の事件をそれが発生した歴史的文脈の中から抜き出して永遠に加害者と被害者の間の差異をなくす効果を発揮する。加害者と被害者の間の差異が消滅したその場所には、つまり過去にどのようなことがあったかが正確に語られない場所では、逆説的に「未来が忘却」(44)されてしまう。もちろん前述したように平和の礎は追悼の空間であり、平和記念資料館は学習の空間であり、その事件の歴史的な文脈を明らかにする義務は平和祈念資料館が担っている。しかし、追悼の空間と学習の空間がその同一の歴史的文脈を明確にすることこそが強く望まれるのである。

 一方、平和の礎の心臓部に位置する「平和の火」は日本国内に存在する平和と関連した四つの火のモニュメントの一つである。残り三つの火のモニュメントは、沖縄戦当時アメリカ軍が最初に上陸した阿嘉島(あきじま)の「沖縄戦の火」と広島の「平和の火」、そして長崎の「誓いの火」であるが(45)、ここでも沖縄が広島に繋がっていく可能性がある。 Figalの指摘によれば(46)、沖縄を広島に繋げることの長所は日本国内の「平和」言説の総本山である広島を経由して沖縄問題をその主流に押し上げることができる点だという。孤立から脱してその主流において沖縄が議論されればそれは明らかに前進だと言えよう。だが、そうすることで沖縄固有の観点が失われるならば、それは沐浴の水と共に赤ん坊を流してしまう結果になるだろう。

 日本では、日本の戦争責任を展示する国公立記念館はほとんど存在しない。大阪の「大阪国立平和センター」、京都の立命館大学付設「国際平和博物館」、長崎の「岡まさはる記念長崎平和資料館」などはその数少ない例である(47)。これらの博物館は基本的に私立であり、過去の戦争における日本人のイメージを被害者のイメージではなく侵略者のイメージとして浮び上がらせている。もちろん、これらの博物館も日本人たちが経験した苦痛に対して沈黙してはいない。大阪国際平和センターのある展示室は大阪が焼夷弾によってどのように破壊されたか、特に子供の視点から都市において爆撃を受けることの意味を極めて詳細に描写している。戦争当時ある子供が描いた絵では、爆弾が落ちて赤ん坊の頭が血を噴出しながら空中を飛来し、人々は恐怖に駆られて橋の上に逃げて行くという姿が描かれている。だがしかし、広島平和博物館とは異なり、ここではこのような惨事が日本が起した戦争の結果であったことを描こうとする努力が見られるのである(48)。沖縄平和祈念公園が歩むべき先は広島ではなく、それがたとえ沖縄のような非主流であっても、まさにそこに存在するのである。


4. 終わりに

 今まで沖縄平和祈念公園を通じて沖縄戦の記憶をめぐってどのような緊張が存在するかを見てきた。沖縄平和祈念公園は靖国化と広島化の間で危うい綱渡りをしていると筆者は考える。もちろん、沖縄平和祈念公園の<領域2>は当初、靖国化や広島化とは全く関係なく企画された空間であった。その空間では日本で唯一地上戦が行われたという沖縄の人々の記憶が中心になければなかった。しかし、稲嶺県知事を誕生させた勢力はこの空間を靖国化することができないまま、次第に広島化するという衝動に駆られたのである。これに口実を与えたのは平和の礎に名前を刻む行為に潜んでいるのではないかということを検証してきたのである。

 沖縄には沖縄平和公園を広島化することに反対する強力な勢力が存在する。しかし同時に彼らは沖縄の平和を広島の平和に変えようとする同様に強力な勢力と争わなければならない。彼らを支援しながら彼らの問題を我々の問題として捉えることのできる方法はないのだろうか。ここで我々は東アジア的な視点の重要性を再び発見する。

 広島と沖縄に関して語られるありふれた言葉の一つに「唯一」というものがある。広島では、広島が世界で「唯一」原子爆弾の被害を被ったと至る場所で聞かされる。沖縄では、沖縄が日本で「唯一」地上戦が行われた場所だと聞かされる。結局この二つの「唯一」の間でどのような立場を重視するかが、日本において過去の太平洋戦争をどのように記憶するのかという立場を決定する。広島で語られる「唯一」に対する感覚はともかく、沖縄で語られる「唯一」なことに対する感覚は東アジアあるいはアジアというより広い文脈の中では唯一なものではないという事実をここで指摘したい。つまり、日本の領土内で「唯一」地上戦が行われた場所が沖縄という観点は、東アジアで「唯一」地上戦が行われなった場所が日本本土だという観点に転換できるなら、沖縄の「唯一性」に対する観念は消失してしまう可能性もある(49)

 言うまでもなく第2次世界大戦においてアメリカが中心となった連合軍と日本が地上戦あるいは海上戦を行った場所のほとんどが中国半島を含めたアジア全域であった。また朝鮮半島は朝鮮戦争を通じて過酷な地上戦を経験し、またベトナム戦争での経験を加えることもできるはずだ。このように見れば、東アジアで地上戦を経験しなかった唯一の場所が日本本土であり、また地上戦を経験せずに、原子爆弾という凄まじい被害を被った場所が唯一日本本土だということもできる。故に沖縄は日本本土の戦争体験と繋がるというよりも地上戦を経験した他のアジア地域の戦争経験と繋がることがより自然なのではないだろうか。もしこのような観点が沖縄内で力を得ることができれば、展示内容を変更させながら稲嶺知事が述べた言葉、つまり「沖縄も日本の一県に過ぎないのであり、日本全体の展示に関して考えないのは良くない」という言葉の代わりに、「沖縄も地上戦を経験した他のアジアに属するので、アジア全体の展示に関して考えないのは良くない」と述べることができるのではないか。そうであるならば、日本国内のもう一つの唯一性の問題である「広島」の苦痛も、唯一性の観点ではなく、また異なった共通の苦痛の記憶に転換することができるだろう。その瞬間まさに広島が語る平和は空虚なものではなく未来に向けた真摯な土台になるのである。

 この観点から、沖縄の問題は韓国に生きる我々の問題でもある。過酷な地上戦を経験した韓国人は自分たちが経験したその戦争をどのように歴史的な文脈で記憶し、それを東アジアの平和とどのように繋げていくことができるかを思考することができる。また我々が参戦したもう一つの戦争であるベトナム戦争に関しても、我々はどのように省察できるのかという問題もまた沖縄を経由して提起される切実で真剣な問題なのである。




<注>
(1) 「記憶の政治学」という用語についてはキム・ミンファン(2003)を参照。
(2)このような研究の例としては、Gillis(1994)やMacdonald(1998)、Neal(1998)などがある。
(3) 保坂廣志(2004)、石原昌家他(2002)、屋嘉比収(2000)、Figal(2003)、Yonetani(2003)
(4)ベトナム戦争の参戦記念碑に関してはWagner-Pacifici & Schwartz(1991)を参照。
(5)名前が刻まれる人を選定することにおいて国籍は重要な基準ではないが、実際には国籍別または出身地別に刻まれている。
(6)沖縄県平和祈念資料館(2001)
(7)保板廣志(2004,213)
(8)Yonetani(2003,192)
(9)そういった意味で沖縄平和祈念公園は大きく三つの区域に構想されたと考えることもできるだろう。<領域3>と呼ぶことのできるこの二つの空間は特別な注目を受けていないように思われ、それ故、残りの二つの領域と比較したときその意味が明示的に表れていない。一方、チョ・ソンユン(2005)は平和祈念堂を<領域1>と同一の空間と看做し、平和祈念館と<領域1>が<領域2>を包囲していると解釈しているが、平和祈念堂にあまりに大きな意味を付与しているのではないかと思われる。むしろ平和祈念堂と韓国人慰霊塔は互いに対立する二つの領域の間で疎外されていると見るのが妥当だろう。
(10)沖縄県平和祈念資料館(2001)
(11)韓国人慰霊塔奉安会(1978)
(12)Figal(2003,79-81)
(13)故に毎年6月23日は、沖縄県の公式記念日である「慰霊の日」になっている。沖縄が日本に復帰した後の1974年に県の条例によって定められた。しかし9月まで非公式的な戦闘は継続され、6月23日以降も多くの人々が戦争に関わる行為によって犠牲になった。平和の礎には9月に死亡した人々の名前も刻まれている。このような観点から、6月23日を「慰霊の日」と制定したことは問題があるように思われる。一方で1989年、この「慰霊の日」の存在に不満を持つ右翼によってこの記念日がなくなる危機もあったが、このとき多数の県民たちが「慰霊の日」の存続のために努力し、その結果として現在もこの日は沖縄県の公式記念日として残ることになったのである。
(14)保板廣志(2004,209)
(15)保板廣志(2004,210)
(16)「強制的集団自殺」という用語はノーマ・フィールドの著作から引いたものである。「強制的集団自殺」の問題を理解するにはField(1995)の第1部を参照。
(17)実際にここを説明するとき「靖国化」という用語で説明されることもある。これに関しては新崎盛暉他(1989)を参照。
(18)靖国神社国営化反対沖縄キリスト者連絡会(1983,17-21)
(19)大田前知事は長らく基地反対、平和運動に尽力してきた大学研究者として、基地がない平和な沖縄を実現することを主張して知事に当選した。1995年のアメリカ軍の少女暴行事件以降、地域住民の圧倒的な支持を受けながら、彼はアメリカ軍の基地使用のための代理署名を拒否するなどの活動を行った。大田前知事の基地使用代理署名拒否とこれと関連した反基地闘争については大田昌秀(2000)を参照。
(20)Yonetani(2003,194)
(21)Yonetani(2003,194)
(22)「ヤマトンチュ(大和人)」は沖縄の人々が日本本土の人々を指すときに使用する言葉である。これに対して沖縄の人々が自身を指す言葉は「ウチナンチュ」である。
(23)Field(1995,101)
(24)沖縄県平和記念資料館(2001)
(25)石原昌家他(2002)、Yonetani(2003) 
(26)石原昌家他(2002)、Yonetani(2003)
(27)Yonetani(2003)
(28)ガマは暗く内側に大きく入り込んだ洞窟で沖縄の自然景観の至るところに点在し、戦時中は防空壕として利用されていた。ガマに避難した沖縄住民たちはここで「強制的集団自決」の犠牲者になった。
(29)石原昌家他(2002)、Yonetani(2003)、保坂廣志(2004)
(30)石原昌家他(2002)、Yonetani(2003)
(31)屋嘉比収(2000,115)から再引用
(32)ブルマ(2002)、Dower(1999)、Hein & Selden(1997)
(33)千野香織(2002,231)
(34)ブルマ(2002,136)
(35)ブルマ(2002,137)から再引用
(36)太平洋戦争の期間に広島が担った軍事的役割を正確に認識する必要がある。当時広島は日本軍第2軍司令部が置かれた場所であり、決して戦争と無関係ではなかった。
(37)日本の徳山市の回天記念館は美化された戦争と美化された平和が一致することを明確に見せてくれる空間である。この記念館には第2次大戦当時、特攻隊に志願した人々を終始美化する方法で展示が構成されているが、その展示の最後には「平和」を願う文句が掲げられている。ここでの「平和」とは一体何を意味するのであろうか(回天基地を保存する会,1999)。
(38)屋嘉比収(2000)は沖縄戦当時、沖縄の住民が避難したヒムクガマとチビチリガマで起こった差を説明しながら、この点を明確にしている。ヒムクガマに非難した村の住民たちの多くが生き残ったのに比べて、チビチリガマに非難した村の住民は「集団自決」で多くが死亡した。ヒムクガマにはハワイに農業移民に行って帰ってきた村の住民がいたが、この人々が洞窟の中の住民を投降するように説得して全員が生き残ることができた。一方、チビチリガマには中国に派遣されて帰ってきた兵士1名と看護士が1名、住民と一緒にいたが、この二人は過去自分たちが中国で民間人の捕虜を全員殺してしまうという経験を持っていた。彼らはもし自分たちがアメリカ軍の捕虜になれば過去自分たちがしたように全員殺されるだろうと話し、アメリカ軍に殺される前に自決するべきだと村の住民の大部分を「集団自決」するように仕向けたのである。チビチリガマの悲劇は結局加害者としてアジアの住民を虐殺した日本の原罪がブーメランのように返ってきたものと解釈することもできる。
(39)石原昌家他(2002)、Yonetani(2003)、保坂廣志(2004)
(40)保坂廣志(2004,212)
(41)ブルマ(2002,265)
(42)キム・ジョンヨップ(1999,203)
(43)キム・ミンファン(2003,414)
(44)キム・ミンファン(2003,414)
(45)沖縄県平和祈念資料館(2001)
(46)Figal(2003)
(47)千野香織(2002)、ブルマ(2002)
(48)ブルマ(2002,279)、千野香織(2002,241)
(49)これは、屋嘉比収が2005年5月14日に行われた学術大会「沖縄と東アジア問題」で言及したことから示唆を受けた。


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Yonetani, Julia(2003), “Contested Memories”, in Hook & Siddle ed., Japan and Okinawa, Routledge Curzon, New York.

  • 2009.04.01 00:00 
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