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> 論文・エッセイ

鄭栄桓「「不幸」と「不正義」――「日朝平壌宣言」批判」 

 今後の日本と朝鮮民主主義人民共和国(以下、共和国)の国交「正常化」交渉における最重要文書である「日朝平壌宣言」について、私がいま、どうあっても書かねばならないと考えていることの一部を記しておきたい。

 過去清算の問題をめぐる「日朝平壌宣言」の評価は一様ではない。例えばある人は、この宣言は矛盾を含んだ宣言だという。日本政府は前文で植民地支配に「お詫び」をしておきながら、第二項でそれを「経済協力方式」で解決するとしており、矛盾しているというのだ。だが、私はそうは思わない。むしろこの宣言は一貫している。だからこそ問題なのだ。

 この宣言の前文では、日本の朝鮮植民地支配期を「不幸な過去」(宣言英語版では”unfortunate past”)と呼んでいる。この言葉が示すのは、「不幸」にも、仕方なく日本と朝鮮は植民地支配・被支配の関係になった、それは決して日本の「不正義(injustice)」な行為を原因にするものではないという認識である。問題を「不幸」あるいは「不運」のレベルでとらえるならば、当然植民地支配の原因に関する言及は回避される。つまり、「併合」の不法性とその責任は問題にならないのである。

 そしてその帰結として、宣言第二項で日本側は「過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えた」ことに対し「痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明」し、それに続いて日本外務省のいう「一括解決・経済協力方式」が示されることになる。外務省の説明によれば「一括解決・経済協力方式」とは、国家及び国民の全ての財産及び請求権の相互放棄により「いわゆる慰安婦、強制連行等の問題を含め、植民地支配に起因する金銭支払いを含めあらゆる請求は法的に完全かつ最終的に解決されたものとするとともに、これと並行して、我が国から北朝鮮に対して経済協力を行うこと」である(ただ、共和国側はその後、日本軍性奴隷などの「人的損害」はここでいう「請求権」に含まれないと主張している)。

 植民地支配に伴い朝鮮人に「多大の損害と苦痛を与えた」ことは「不幸」なことだから、一定の「経済協力」はする。だが、日本の「不正義」を根拠とする国家や個人の損害賠償請求や責任者処罰の追及は認めない。これが宣言に示された認識である。私は前文と第二項の間に矛盾はないように思う。

 また、日朝間で問題となるべき「過去」には、植民地支配に加えて「冷たい戦争」の過去がある(荒井信一『歴史和解は可能か』岩波書店、二〇〇六年)が、後者は第三項の「日朝が不正常な関係にある中」という言葉で表現されている。だが、ここでは共和国側が戦後発生した「日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題」について「今後再び生じることがないよう適切な措置をとる」ことが確認されているだけだ。荒井信一のいうように、理屈上は日本政府だけが、45年8月15日以降に発生した「日本国民」の被害について共和国に補償を要求できることになる。「被害」の時間軸を「戦後」に延ばしつつ、日本政府と在日朝鮮人のあいだの「生命と安全にかかわる懸案問題」は全く議論される余地がないのだ。よく拉致問題に対し強制連行を対置するな云々の議論に出会うが、本来ならば戦後日本の在日朝鮮人弾圧こそが、拉致問題とあわせて冷戦期の国家暴力として「清算」の対象となるべきなのではないか。

 外国人登録制度に基く日常的監視や、民族教育に対する弾圧は、決して社会的差別に留まらない、意図的で、制度的な抑圧だったことは言うまでもない。だが、前文で植民地支配が「不正義」との認識が示されない以上、それを原因として日本に暮らすことになった朝鮮人に対する日本政府の国家暴力もまた、「過去の清算」からは切り離されることになる。前文と第三項にも矛盾は無い。
 「過去の清算」において決定的に重要なことは、植民地支配をした側の人間自らがそれを「不正義」と認めることである。支配された人間に則して言えば、支配した側にそれを認めさせることである。植民地支配という行為そのものの過ちを日本自らが認めること、日本に認めさせること、それこそが「過去の清算」の必要条件なのだ。
(2008年2月8日記)


<付記>

 明日6月7日より日朝の実務担当者協議が始まる予定とのこと。場合によっては急ピッチで、この「過去不清算方式」での日朝国交「正常」化に向けた既成事実が積み重ねられてしまうかもしれない。恐らくその可能性は高いであろう。

 本来なら主体的に植民地支配とそれへの補償を遅らせた責任、そして朝鮮分断を深刻化させた責任を自覚し、それを克服するための様々な批判的代案を提起すべき責任を第一に負っている日本人知識人は、現在その任を放棄している。九〇年代に始まる日朝交渉が、まさに大詰めを迎えようとしているいま、日本で起きているのは恐るべき翼賛的「空気」の中での、国民基金的「現実主義」の提案だけだ。これらの現状に対する総体的批判については、今後改めて展開していきたい(2008年6月6日記)。
  • 2008.06.10 00:00 
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