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> 論文・エッセイ

高和政「湾岸戦争後の「文学者」 ─〈新たな反戦〉の行方─」(『現代思想』2003年6月号掲載) 

(管理人注※『現代思想』掲載時の傍点は傍線に、注のローマ数字はアラビア数字に、それぞれ改めている。)


はじめに

 いまの視点から、一二年前の湾岸戦争の際に出された「『「文学者」の討論集会』アッピール」を見ると、すこし不思議な感覚にとらわれる。なぜ、このようなことがありえたのだろうか、と。この思いはすぐさま次の疑問ヘとつながっていく。ではなぜ、現在、このようなことはありえなくなってしまっているのか。
 米英のイラク攻撃に対する世界中の反戦運動の盛り上がりの中で、日本でもたとえば二〇〇三年三月八日・二一日に東京で行われた「ピースウォーク」にはそれぞれ三万人・五万人もの人々が集まった。いわゆる「知識人」の動きの鈍さが指摘される一方で、多種多様な一般市民が参加したという点ではかつてないほど反戦の動きが高まったことはまぎれもない事実である。しかし、四月一三日の東京都知事選では、「戦争」を広言してきた石原慎太郎が、得票率七割・三〇〇万票という過去最高の圧倒的な得票で再選を果した。一見矛盾しているようにみえるこの事態は、一体何を表しているのだろうか。反戦をめぐって、いま何が起っていて、何が必要とされているのか。
 本稿では、このような疑問を出発点とし、あらためて湾岸戦争時の「『「文学者」の討論集会』アッピール」と、「アッピール」を出した「文学者」たちの〈その後〉の言説を検討していきたい。〈新たな反戦〉であったはずの当時の経験を振り返ることは、現在の、そしてこれからの反戦を考えるために大きな意味を有していると思われるからだ。



Ⅰ.湾岸戦争・憲法九条・『敗戦後論』

 湾岸戦争当時、日本政府がアメリカを中心とする「多国籍軍」に九〇億ドルを「援助」することが決まり、その「多国籍軍」がイラクを攻撃する中で、「『文学者』の討論集会」が行われ、「アッピール」が出された。この集会は、柄谷行人・中上健次・川村湊・田中康夫・高橋源一郎・いとうせいこうといった、それまでの反戦運動・反核運動に関わってこなかった、あるいは批判的な人々が中心となったことに特徴があった。その「『「文学者」の討論集会』アッピール」(一九九一年二月九日)は次の二つの声明から成っていた。

  声明1
   私は日本国家が戦争に加担することに反対します。

  声明2
   戦後日本の憲法には、『戦争の放棄』という項目がある。それは、他国からの強制ではなく、日本人の自発的な選択として保持されてきた。それは、第二次世界大戦を『最終戦争』として闘った日本人の反省、とりわけアジア諸国に対する加害への反省に基づいている。のみならず、この項目には、二つの世界大戦を経た西洋人自身の祈念が書き込まれているとわれわれは信じる。世界史の大きな転換期を迎えた今、われわれは現行憲法の理念こそが最も普遍的、かつラディカルであると信じる。われわれは、直接的であれ間接的であれ、日本が戦争に加担することを望まない。われわれは、『戦争の放棄』の上で日本があらゆる国際的貢献をなすべきであると考える。
 われわれは、日本が湾岸戦争および今後ありうべき一切の戦争に加担することに反対する。


 先にあげた、この集会を担った「文学者」たちは、この「アッピール」に沿った形で、様々な発表媒体に反戦の言葉を記していった(*1)。当時の時代状況を振り返ると、このような動きが持ち得た意義も見えてくるだろう。一九八九年に昭和天皇が死亡し、一年後の九〇年には、天皇の戦争責任に言及した本島等長崎市長が右翼団体員に狙撃される(*2) 。九一年の後半に金学順さんが元日本軍「慰安婦」として初めて名乗り出て、その後、日本政府は「慰安婦」制度への国の関わりを認めざるを得なくなり、九三年細川首相により、「侵略戦争」発言がでることになった。つまり、九〇年代前半に、すでに遠い過去の出来事であると多くの人々が思っていた戦争とは、実はまったく解決されていないということが明らかになり、日本の「戦争責任」・「戦後責任」が改めて問われたのだった。
 このような状況の中で、新たな戦争に直面し、反戦のために憲法九条という〈理念〉を改めて見直そうというこの動きが起こったのである。これはやはり、一つのチャンスだったのではないか。「アッピール」を出した「文学者」たちには様々な批判が寄せられることになるが(*3) 、それへの応答の中から、戦争の記憶をとらえ直し、反戦を様々な形で実践していくことも可能だったのではないだろうか。しかし、九四年以降、先ほどのべた日本の「戦争責任」が問い直されるという流れに対して強烈なバックラッシュが起こり、日本社会の右傾化が一気に進行していくわけだが、その中で、「『文学者』の討論集会」に見られたような動きは、見事に消えていく。
 このことが最もよく表れているのが、加藤典洋『敗戦後論』とその評価のされ方だろう。当初から「アッピール」に対して批判ともつかない揶揄的な文章を書いていた加藤典洋は、「敗戦後論」(『群像』一九九五年一月)の冒頭で、まとまった批判を展開することになる。

 三年前、湾岸戦争が起った時、この国にはさまざまな「反戦」の声があがったが、わたしが最も強く違和感をもったのは、そのいずれの場合にも、多かれ少なかれ、その言説が「反戦」の理由を平和憲法の存在に求める形になっていたことだった。
 わたしはこう思ったものである。
 そうかそうか。では平和憲法がなかったら反対しないわけか。


 「その言説」の代表的な例として、加藤は「『文学者』討論集会アッピール」をとりあげ、「戦後、五十年をへて、わたし達の自己欺瞞は、ここまで深い。ここにあるには個々人の内部における歴史感覚の不在だが、その事態が五十年をへて、ここでは、本来はない歴史主体の、外にむけての捏造が生みだされているのである」と述べていく。
 この「反戦」批判の論拠は、改憲派の常套句ともいえる「押しつけ」憲法論だった。戦後日本の「ねじれ」の源に、「押しつけ」られた「平和憲法」という「矛盾」を見、この「矛盾」に目をつぶる「自己欺瞞」の例として、「アッピール」を批判していくのである。加藤は、「平和憲法」をめぐる「ねじれ」によって戦後の日本社会は「人格的に二つに分裂している」ため、たとえば細川首相の「侵略戦争」発言と永野法相の「南京大虐殺はでっちあげだ」という発言は「セット」になっており、いつまでもアジアの戦争被害者に真の謝罪ができない、とする。そして、この「人格分裂」を克服し「謝罪主体」を構築するためには、まずさきに「自国の三百万の無意味な死者を無意味ゆえに深く哀悼」することが必要であり、その「自国の死者への深い哀悼」を通じてしか「二千万のアジアの死者」への真の謝罪はできるようにはならない、というすでによく知られた主張を展開していくのである。
 このような加藤典洋の主張には、周知の通り高橋哲哉をはじめとして強い批判がよせられ(*4) 、「戦後責任論争」・「歴史主体論争」につながっていくことになる。しかし、加藤の批判の対象となった当の「文学者」たちの反応は違ったのである。



Ⅱ 『敗戦後論』に対する「文学者」たち

(1)川村湊の場合

 「文学者」の一人である川村湊は、「湾岸戦後の批評空間」(『群像』一九九六年六月)で「アッピール」に至る経緯を語り、その上で、加藤典洋への論駁を試みている。しかし、「アッピール」に対する加藤の批判について「私が声明の署名者の一人でなければ『なるほど』と肯いてしまいそうな明晰な論理である」として、それが「根源的でかつ苛烈なもの」であるとし、さらに、「ヌケヌケといってしまえば、私は『声明2』について、『平和憲法』の『戦争の放棄』という条項を“信じているフリをしてみよう”と思って賛同し、署名したのである。」と、自らの行為を「自己欺瞞」であったと「ヌケヌケと」明らかにし、痛いところをつかれた、と認めてしまっている。つまり、川村は「ねじれ」の源である「平和憲法」という加藤の議論(*5) を承認した上で、反論しようとしているのである。そのため、「加藤典洋の批判への疑問」としては、加藤の「過剰な潔癖さ(あるいは異様な情念)」を指摘するにとどまり、次のような主張ヘとつながっていく。

敗戦から戦後の「ゆがみ」を文字通り体験した美濃部達吉や大岡昇平などの戦前派や戦中派の人たちとまったく同じ状況であったかのように、「ゆがみ」や「原点の汚れ」を自分の身にまとってみせるということは、別の意味での自己欺瞞に陥ることではないだろうか。(中略)そこには著しく、わたしが「戦後」において良きものだと考えている、ある意味では無責任なノン・モラルの柔軟さが欠如しているように思われるのである。(傍点引用者)

 加藤の論に、川村は「無責任なノン・モラルの柔軟さ」の「欠如」を見ている。それは単純にいってしまえば、〈無さが足りない〉ということだ。その意図とは逆に、川村は「誤りうること」の重要性を主張する加藤を見事に補完してしまっているのである。「敗戦後論」に続く「戦後後論」(『敗戦後論』所収)は、先に引用した川村の文章から説き起されており、「『ノン・モラル』の声」・「その権利」こそが「文学」の基底だとする、「文学」論が展開されることになるのだ。
 川村の「無責任」の主張の問題点は、加藤の「自国の死者への深い哀悼が、たとえばわたし達を二千万のアジアの死者の前に立たせる」という議論に対した時に、一層明らかになるだろう。川村は「『自国の死者』と『アジアの死者』という分け方は意味がない」と述べ、その根拠として次の例を挙げている。

戦後サハリンに残留させられた朝鮮人たちが、自分たちの住んでいる村で死んだ日本人たちの無銘の墓を山の上に建てたという内容のテレビのドキュメンタリー番組を見たことがある。(中略)
 あるいはミクロネシアのパラオ島へ行った時、そこの日本人墓地には日本人、沖縄人、朝鮮人の墓が同様に苔むしたままで建っているのを見かけた。日本人と非日本人、アジア人と〝脱アジア人〟とを分けることは本質的に不可能なのであり、また私たちはいかにしてそうした二分法から発想することを止めることができるかが、私たちの思想的な課題となっているはずなのだ。


 確かに、大日本帝国は〈多民族国家〉であったのだから、「自国の死者」と「アジアの死者」とを明確に区別することはできない。しかし、ここで問題となるのは、周縁部〈日本国民〉であった「沖縄人」・「朝鮮人」というマイノリティーを言挙げすることにより、「日本人と非日本人」を「分けることは本質的に不可能」だとして、「日本人」という概念そのものをも無効としかねない、ということだ。エスニック・ジャパニーズではない「日本人」がいるからといって、支配エスニシティーである中心部「日本人」までが消え去るわけではない。多様なエスニシティの〈日本国民〉が存在するのだが、誰が〈日本国民〉であるか、その枠組みを決定するのは、紛れもなく支配エスニシティである中心部〈日本国民〉であるのだ。川村の論は、徐京植の指摘する「周縁部日本国民の存在を取り上げて、中心部日本国民の責任を解除するという構造の論理」(*6) に近接してしまっているといえるだろう。この川村の認識は、酒井直樹・守中高明との鼎談「〈共同性〉批判としての『戦後詩』」(『現代詩手帖』一九九七年九月)での以下の発言につながっている。

「従軍慰安婦」の人たちの団体が韓国においてお金を受け取るのを拒否したり「女性のためのアジア平和基金」の活動自体を否定したりするのですが、そういった拒否の態度は「慰安婦」の人たちとそれを支援する人、韓国政府がほぼ一致して表明しているんですね。ちょっと邪推した見方をするなら、じゃあ、どうすればいちばんいいのかと問うたとしたら、ひょっとしたら「天皇」の名前で謝れ、ということが出てくるんではないかと思うんです。つまり天皇の名前でお金を出すということが彼らにとっては正しいかたちなんじゃないか。彼らもやはり誰がどのようなかたちで謝罪するのかといった場合に、戦前の天皇を頂点とする「大日本帝国」というイメージから離れていないと思うんです。結局、日本が国民として謝罪するとか、お金を払うとかいうことになると、まさしくわれわれは「大日本帝国」をそのまま継承している、ということになってしまうんじゃないか。それはぜったい避けなくちゃいけないことだと私は思うのですが(*7)

 川村の「邪推」はどうあれ、日本軍性奴隷制度の被害者である元「従軍慰安婦」の女性たちの要求には、日本政府による公式謝罪・責任者処罰・個人賠償が含まれている。その被害者の女性たちの声にもとづき、「国家が正義を行う責任を果たすことを怠ってきた結果として設置された」「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」(二〇〇〇年一二月)は、天皇裕仁に人道に対する罪について有罪の判決をくだし、日本政府に対し「完全で誠実な謝罪を行うこと」・「法的措置をとり、生存者へ補償すること」・「人的な資源と機構をもって調査を行うこと」など7項目にわたる勧告を出したのである(*8) 。被害女性たちの立場からすれば、自分たちに戦時性暴力を行使した日本軍の最高責任者である天皇に対して刑事責任を追及するのは当然だろう。そしてその要求は、約半世紀にわたって戦争責任を直視することを避け続けてきた戦後日本社会の、戦時との連続性を問うものでもあるはずだ。まさにここでは、戦後日本が「大日本帝国」を「継承している」ことこそが問題となっているのではないか。
 しかし、川村は、この連続性を否認する(*9) 。「彼ら」が「大日本帝国」のイメージをもって現在の日本を捉えているため、その要求に応えれば、「われわれ」も「大日本帝国」の連続性に括り込まれてしまうことになるのであり、「それはぜったい避けなくちゃいけない」といっている。ここでの川村の力点は、被害者の呼びかけにどう応えていくのか、ということではなく、「大日本帝国」と明確に切り離された〈自己〉をあくまでも保とうとすることに置かれている。「われわれ」が戦前・戦時日本国家とは切断されていることを自明視し、その上で「彼ら」は『「大日本帝国」というイメージから離れていない」と高みにたって規定し、「彼ら」の声への応答を拒絶してしまうのだ。
 加藤典洋にさらなる「無責任やノンモラルの柔軟さ」を求める川村の論は、このような形で、国民国家批判のかたちをとりつつ、他者の呼びかけをも否認してしまう。そして川村の議論において最後まで残るのは、やはり、「責任」の「無」い〈自己〉なのである(*10)

(2)高橋源一郎の場合

 「アッピール」に署名した「文学者」の一人である高橋源一郎は、「戦争が終り、文学が……」(『小説トリッパー』一九九八年夏期号、『文学なんかこわくない』朝日文庫、二〇〇一年では「文学の向こう側」と改題)で、『敗戦後論』に言及している。この文章は「『「文学者」の討論集会アッピール」への署名についても触れられており、それは「その時、タカハシさんが考え得るもっとも愚かな行為であった」とされ、その行為に寄せられた様々な批判や指摘のすべてが「正しい」ものであったとして、次のように述べられている。

 タカハシさんが言葉というものと恐れとともに付き合うようになって知ったたった一つのことは、言葉を使おうとする者は誰でもそれを「正しい」と思って使うようになるということだった。いや、言葉はそれを使う者に、その言葉を使うことを「正しい」と思わせるのである。
(中略)
 それぞれの言葉は、それぞれの言葉を作り出した人間の世界の中で丁寧に吟味され、矛盾のないよう選ばれる。だから、それぞれの言葉を使う者はどちらも自分の正しさを疑わない。そして、いつかそれが「言葉がつくりだした空間の中での正しさ」ではなく、単なる「正しさ」であるように思い込む。
 それは言葉の持つ本質的な政治性である。


 高橋源一郎は、加藤典洋の論を、ここで述べられているような「正しさ」を主張しない「奇妙」なものだとしている。そしてその「奇妙」さにおいて、「彼だけが『戦争』を言葉で批判しようとした」、「『敗戦後論』で加藤典洋がやろうとしたのは、わたしたちの生存の条件を解きあかすことであった」と賞賛しているのである。
 この「戦争が終り、文学が……」は、「三十年ほど前」に高校生であった「タカハシさん」と、「タカハシさんをオルグしようとする」「ある党派の幹部」との会話の回想から始まっており、そこでの若き「タカハシさん」の「ぼくたちが言葉を持つ限り、言葉を用いる限り、『誤る』ことが必然なら、問題はどのように『誤る』だけではないでしょうか」という言葉が印象深く引かれている。「タカハシさん」が会話をしていた「ある党派の幹部」とは、連合赤軍の幹部であったことがほのめかされ、必ず「誤り得る」というところから出発することの必要性が言われており、加藤典洋の議論との共通性が見られる。
 ここでの高橋源一郎の論に限らず、「正しさ」という〈恐ろしさ〉というようなことがいわれる時に、学生運動当時の体験談が持ち出されることがよくあるが、率直にいって、その論理は実際に経験をしていない私のような者にとって、納得できるものではない。確かに、「正しさ」がある集団によって占有され、あるイデオロギーが〈絶対的正義〉とされることによって、深刻な暴力や犠牲が生まれてきたことは紛れもない事実だし、それは現在も続いている。しかし、だからといって、「正しさ」を求める行為の「すべて」を、危険視し遠ざけてしまうことに意味があるとは思えないのだ。そもそも、署名という行為に対する批判を、「そのすべてが正しい」と一括りにし、その「正しさ」と距離をおこうとするのは、単純にいって判断停止なのではないだろうか。しかし、高橋源一郎は、「正しさ」を目指さない「文学論」であるという点で、『敗戦後論』を高く評価していくのである。

(3)守られる「主体」

 中野敏男は、「『戦後日本』において『戦争への反省』は確かにあったはずなのに、それが結局は『アジアの民衆の声、被害者たちの声』に直面しなくなってしまう思想的理由」について考察し、「自由なる主体的意識」戦後啓蒙の代表的存在である丸山眞男と、その丸山に「大衆嫌悪」を見出して批判する吉本隆明との間に、「日本の大衆の主体形成あるいは自立」という「共通の問題関心の存在」を見出し、加藤典洋の『敗戦後論』を、「『責任』への問いかけに対して『主体形成』への決意をもって応える」という「『戦後日本』の言説に通例の問題構成がまた現れてきたと理解されうる事件」としてとらえている(*11) 。これまで見てきた『敗戦後論』に関わる川村湊と高橋源一郎の二人の議論も、この問題系に置き直して考えてみるのも意味あることかも知れない。川村は「国民主体」を批判するのだが、そのことにおいて他者の声までも否認する「無責任」かつ特権的な(「柔軟」な?)判断「主体」となっていた。高橋源一郎は、「誤り得る」「わたしたち」の「生存の条件を解き明かす」ものとして、『敗戦後論』を評価していた。二人の議論は、『敗戦後論』に表れている「『戦後日本』の正統的な問題構成」を強化するものではあれ、それを批判的に組みかえうるものではないだろう。
 二人に共通するのは、署名をし声明を出すという自己の行為についての、「愚か」な「自己欺瞞」であることは十分にわかっていた、別に「正しい」と思ってやったわけではないんだ、とする身振りである。この身振りとは、「愚か」な「欺瞞」的行為だと知っていたがそれでもあえて選択をしたのだという、〈決断〉をした自分たちの〈内面〉を保とうとするものであることに注意したい。「アッピール」に対する加藤典洋の批判に対抗するのではなく、「愚か」な行為であったことは認めつつも、そのことに自覚的に署名を選び取ったとすることで、その行為に至るまでの自分の心情だけは守られるのである。「アッピール」を出した本人たちが、自分の言動をこのように捉えなおした結果、憲法九条を論拠としていた「アッピール」という行為や内容そのものは、結局「自己欺瞞」にすぎず「愚か」であったものとして規定されてしまうのだ。
 先に述べたように、九〇年代前半という時代状況の中、「日本国家が戦争に加担することに反対」する「アッピール」が出されたことは、日本における戦争責任・戦後責任をとらえ直す契機としてありえたはずだ。しかし、これまで見てきたように、「アッピール」を出した当の「文学者」は、加藤典洋『敗戦後論』への反応において、「『被害者たちの声』に直面」することのない議論に終始した、といわざるえない。契機は、つかみそこねられてしまったのである。



Ⅲ.「9・11」以降

 「9・11」の後、日本は法整備も含めて戦争に参加できる体制を急速に整えていくが、湾岸戦争時には反戦の声をあげた「文学者」たちの多くは、沈黙していく。その中で柄谷行人は「これは予言ではない」(『批評空間』Web CRITIQUE、http://www.criticalspace.org)という文章を、二〇〇一年九月一六日という早い段階でインターネット上に発表している。

 今後、日本では、憲法改正をはじめ、戦争への参加が急速に推し進められるだろう。それに抵抗することはできないだろう。それは湾岸戦争の時にはじまったのであり、そのときに抵抗しなかった奴らが今できるはずがないのだ。しかし、1999年の時点で、私はもうそんなこと(今『戦前』に在るということ─引用者注)について一喜一憂する気はなくなった。戦争に向かうに決まっていたからだ。だから、そのころから、私は『戦後の思考』について考え始めた。それは第二次大戦後のことではない。これから起こる戦争の『後』のことだ。とはいえ、それは第二次大戦の『戦後』と無関係ではない。われわれはあの愚劣な『戦後』をこそ反復してはならないのである。
(中略)
 どうか、皆さん、国家と資本が煽動する愚かな興奮の中に呑み込まれたり、右顧左眄・右往左往することはやめてもらいたい。そうすれば、三、四年後に確実に後悔するだろうから。その逆に、『戦後』にむけて着々と準備することを勧めたい。


 湾岸戦争時に、「文学者」による新たな反戦を提唱した人物が、その湾岸戦争時と現在との関係を言いながら、「抵抗すること」は無駄だし、出来るはずもない、戦争はやってくるのだからその「後」に備えよう、と見事なまでに「現実」に屈服する文章を書いてしまっている。言ってみれば、負けて「後悔」しないために、あらかじめ諦めることをすすめているのだ。また、「その時に抵抗しなかった奴らが今できるはずがない」という言い方で、今後あり得る様々な可能性を切ってしまってもいる。
 「アッピール」の中心的人物であった柄谷行人がこのような文章を書き、他の「文学者」たちが沈黙を守っているという状態は、当然批判の対象となった(*12) 。「『文学者』の討論集会」に参加しなかった山田詠美も、〈それ見たことか〉と次のように言っていく(山田詠美・河野多恵子「本当の戦争の話をしよう」、『文学界』二〇〇二年一月)。

「湾岸戦争をきっかけに、そういう全て(反戦運動―引用者注)がバカバカしくなりました。なんだかんだ言って戦争を経験していない団塊の世代の人たちが、反戦歌を歌ったりしていたということが今ではすごく腹立たしい。」
「私は今も昔も、日常的な、すごく個人的なものしか考えられない。今のこのちゃんと安心して小説が書ける場所を奪われたら困るとか、そういうことが先に立ちますから。湾岸戦争時みたいに、大上段に構えて戦争について語る人たちに対しては『バカみたい』と思ってしまう。」


 もちろん、ここに見られるような、「戦争」を経験しなければ「反戦」も意味が無いという〈素朴経験主義〉や、「個人的なもの」と大状況とを区分する昔ながらの〈文学〉的二項対立は論理として成立していないといえるが、「文学者」たちの〈その後〉は、このような論理ともよべない反戦批判にも、格好の根拠を与えてしまったようだ。
 柄谷は、「9・11」の直後の「これは予言ではない」だけでなく、『批評空間』第Ⅲ期第2号(二〇〇二年一月)の「編集後記」でも、「私は、今秋世界で騒がれていることなどは、将来的には、些事にしか見えないだろう、と思う」と述べている。私がここで問題だと思うのは、現在起っている、あるいはこれから起ろうとしている「戦争」は「些事」であり、あえて「抵抗」するのでなければ、それに関わることなく「戦後」をむかえられるとする、柄谷の認識である。いうまでもないことかもしれないが、「世界で騒がれていること」によって直接の暴力にさらされている人々は紛れもなく存在しており、そのような人々にとっては「将来」においても「些事」であるはずがないし、そもそも「将来」がありうるのかどうかもわからない。『倫理21』(平凡社、二〇〇〇年)において「死せる他者」との関係や「生まれざる他者への倫理的義務」を説き、自身が中心となって進めていた運動体NAMの「原理」においても、「他者は、生きている他者だけでなく、死者、そしてまだ生まれていない未来の他者をも含まなければならない」(*13) としていた柄谷にとっては、明らかな矛盾ではないか。
 「これは予言ではない」にしろ、「編集後記」にしろ、以前の柄谷の仕事に多くを教えられてきた者にとって、驚きをなくしては読むことができない文章であるが、なぜこうなってしまったのか。もうすでにNAMは解散してしまっているが、その「原理」をあらためて読み返してみると、ここで検討している柄谷の〈変化〉(?)につながる、見逃しがたい問題点が存在していると思われる。
 ここでは柄谷行人の著作として「NAMの原理」を検討してみたい。この「原理」は、単なる国民国家批判ではなく、「資本制経済の内側と外側」から、「資本制=ネーション=ステート」の三位一体構造への対抗運動として、「トランスナショナルな『消費者としての労働者』の運動」を組織するというあり方や、「個人の倫理性」に基づいて「生産―消費協同組合のグローバルなネットワーク」や「地域通貨経済の形成」を目指す点など、現在の諸問題を解決していく上で有効だと思われる考えが含まれており、賛同できる点も多い(*14) 。しかし、疑問を抱かざるをえないのは、たとえば次のような部分である。

われわれは、マイノリティ・女性・環境問題、その他の市民運動の課題を重視するが、それらの運動に資本制経済がもたらす生産関係、また、先進諸国と第三世界諸国との生産関係への認識が欠けていることを指摘しなければならない。これらの問題は、基本的にブルジョア革命の理念(人権)に含まれて居るから、近代国家も資本もそれに反対することはできない。しかし、たとえそれらが実現されても、資本制経済の生産関係は手つかずに残る。実際には、こうした運動は一定の成功を収めるとともに、インパクトを失い、今や社会民主主義に帰着している。今重要なのは、資本と国家の揚棄に関して、いかに明瞭な見通しをもつか、そして、そうした多様で分散的な運動をいかに統合するかということである。

 ここで、「今や社会民主主義に帰着している」様々な市民運動の欠点を挙げているが、その指摘は単なる思い込みが作用しているものと考えざるをえず、妥当性を欠いている。「これらの問題は、基本的にブルジョア革命の理念(人権)に含まれて居るから、近代国家も資本もそれに反対することはできない」としているが、本当にそうか。逆に、たとえば「マイノリティ」の側からすれば(この「マイノリティ」という大ざっぱな括り方にも違和感を覚えるが)、「近代国家」と「資本」から「反対」され続け、一向に問題が解決に向かっていないというのが実感なのではないだろうか。また、「こうした運動は一定の成功を収めるとともに、インパクトを失」っているとしていることにも疑問が残る。「一定の成功」とは何を指しているのかもよくわからないが、それよりもひっかかるのは、「インパクト」という言葉である。一体、誰に対する、どのような、何のための「インパクト」なのだろうか。「マイノリティ」や「女性」の置かれた状況と関わらずに「インパクト」の有無を判定できる立場から、「マイノリティ・女性・環境問題」を克服しようとする運動の持つ可能性を、矮小化してとらえているようにしか見えない。
 さらに、これらの市民運動が「資本と国家の揚棄」という課題の下に「統合」されなければならないとされていることが問題だろう。言ってみれば、「資本と国家の揚棄」という目標の下位区分として「マイノリティ・女性・環境問題」が置かれることになるのだ。『日本精神分析』(文藝春秋、二〇〇一年)に収められた「市民通貨の小さな王国」での柄谷の発言に、そのことがよく表れている。

環境問題で人を啓蒙している人がいますが、なぜ彼らは市民通貨に参加しないのでしょうか。それは国家による規制で解決することを考えているからでしょう。しかし、それでは資本制=ネーション=ステートの三位一体的な構造を超えることなどできません。彼らはいつも啓蒙的に運動していますが、何も実行していない。(中略)
 フェミニストの運動についても同じことがいえます。それは、先ほどいったように、市民通貨を促進することを通してはじめて、現実的なものになると私は思います。他のマイノリティの運動に関しても同じです。(中略)ところが、この種の運動の理論家は、現実的になろうとすると、議会政党に向かいます。そして、議会政党をうごかすつもりでいながら、実際は運動を議会政党の票田にしてしまう。あるいは、はじめから、議会政党がその目的で運動をやっている場合が多い。しかし、このようなことで一喜一憂するのは、もういい加減にやめるべきでしょう。


 「市民通貨」Qの問題をきっかけにNAMが解散に至ったことを考えると(*15) 、焦りしか感じられない文章ではあるが、「市民通貨」に参加しないかぎり運動は「現実的なもの」にはなりえないとする、この特権的な振る舞いは批判されなければならない。たとえば、外国人参政権の問題を考えるだけでいい。権利を有する者が、権利の無い者に向かって、〈その権利にこだわるのは、意味がない〉と言っているのである。
 「他者は、生きている他者だけでなく、死者、そしてまだ生まれていない未来の他者をも含まなければならない」という「倫理」を説いた柄谷であったが、実際は自分の主要な関心事のに「他者」を置いてしまっていた。このように見てくれば、実は「これは予言ではない」やあの「編集後記」も、驚くべき文章ではなかったのである。



Ⅳ 抵抗・非暴力・知識人

 柄谷行人は、他にも「入れ札と籤引き」(『日本精神分析』、所収)で、〈無駄な抵抗〉をしないことをすすめている。

 戸坂潤が小林秀雄を攻撃したのは、革命的なふりをしたがる左翼の虚勢にすぎません。しかも、最も理解してくれている者に八つ当たりしているだけです。戸坂は優秀な哲学者でしたが、このような愚かさのために、戦争が終る直前に、獄死する目にあったというべきでしょう。小林は「腹も立たぬ」と言いますが、こうしたことが続くたびに熱意を失ったことは疑いがありません。彼は、日中事変の勃発に対して、「国民は黙つて事変に処した」と書きました。つまり、その時点から、「人民戦線」的な抵抗を放棄してしまうのです。なぜ突然、そうなったのかわかりません。しかし、こうした小林秀雄の態度の背後に、菊池寛がいたということに注意すべきでしょう。菊池寛さえ諦めてしまったということが、小林秀雄に、それ以上の抵抗を断念させたように思われるのです。

 ここで柄谷は、「抵抗」を諦めることを正当化していく。現状を読めない愚かしい「左翼」がいるから、「抵抗」を断念することはしかたがない、というのである。また、戸坂が「獄死」したのは、彼が「虚勢」を張る「愚か」な「左翼」だったからだとすることにより、戸坂潤を「獄死」させた者の責任は決して問われず、「日本文学報国会」の創立総会議長を務めた菊池寛のあり方も、しょうがなかったこととされてしまうのである。
 冒頭で述べたように、この間日本においてもイラク攻撃反対の動きは確かに高まりを見せたのだが、しかし同時に、この文章に表れているような、「抵抗」することを避ける風潮も強固に存在しているように思われる。今回の統一地方選の結果を見ればわかるように、イラク攻撃反対の声は、「北朝鮮の脅威」を理由に戦争ができる体制を整えつつある日本の現状に対して、「抵抗」することにはうまくつながっていないのではないか。「戦争」・「暴力」に反対はしているのだが、それが「抵抗」に決して結びつかない一つの例として、上野千鶴子の次の文章をあげておきたい。
 「暴力」が吹き荒れる現状への批判として、上野は次に引く「非力の思想-戦争の犯罪化のために」(『朝日新聞』二〇〇二年九月一〇日夕刊)という文章を書いている。

 理不尽な暴力に遭う。ゆるせない、と拳をにぎりしめる。そこまではおなじだ。そこで、くちびるをかみながら拳をおろす。そんな経験をわたしたちはしてこなかっただろうか。ヒロシマ、ナガサキの惨劇のあと、日本には拳をふりあげる力さえなかった。(中略)自分の無力さが骨身に沁みているからだ。反撃すれば、もっと手痛いしっぺがえしが待っていることを、知っているからだ。この経験は、無力な者には親しい。
 もしあなたが非力なら、あなたは反撃しようとはしないだろう。なぜなら反撃する力があなたにはないからだ。あなたが反撃を選ぶのは、あなたにその力があるときにかぎられる。そしてその力とは軍事力、つまり相手を有無を言わさずにたたきのめし、したがわせるあからさまな暴力のことだ。
 反撃の力がないとき。わたしたちはどうしたらいいのだろう? 問いは、ほんとうはここから始まるはずだ。
(中略)
 相手から力ずくでおしつけられるやりかたにノーを言おうとしている者たちが、同じように力ずくで相手に自分の言い分をとおそうとすることは矛盾ではないだろうか。フェミニズムにかぎらない。弱者の解放は、『抑圧者』に似ることではない。


 ここで言われているのは、よく目にする〈非暴力〉の主張であるので、思わずうなずきそうになるが、その主張がどのような働きをしているのか考えると、立ち止まらざるをえない。ここで上野は、暴力を受けた「力」がない「非力」な者は、「反撃しても」「もっと手痛いしっぺがえしが待っている」だけなので、反撃をしないのだ、と被害者の規定を行っている。もっと言ってしまえば、被害者の反応を、あらかじめ決めつけているのである。つまり、理不尽な暴力を受ける「非力」な者の、それでも「反撃」する、という選択肢を奪ってしまっているのだ。徐京植が強調する、「あらゆる方法を奪われた者から」、「最後の想像力」すらも奪い取る「非暴力主義」の働きを、まさにここに見ることができるだろう(*16)
 また、あらゆる暴力を、相手をたたきのめす「軍事力」だとして、ひとしなみに見ることで、どのような人が・どのような人に対して・どのような状況の中で・どのような暴力をふるったのかという、暴力の差異、違いが完全に見落とされている。すべての暴力をひとくくりにし、それぞれの暴力を直視することを避けているといっていい。その結果、弱者が「反撃」するのは「矛盾」なのだ、とされている一方、理不尽な暴力をふるい「手痛いしっぺがえし」をする側には、決して批判が及ばないのだ。ここに、日本社会において特徴的な、〈他者への想像力〉を欠いた〈非暴力無抵抗〉主義が表れているだろう(*17)

 最後に、E・W・サイードが「知識人」の「責務」について述べた、『知識人とは何か』の一節を引いておきたい。

 したがって知識人がなすべきことは、危機を普遍的なものととらえ、特定の人種なり民族がこうむった苦難を、人類全体にかかわるものとみなし、その苦難を、他の苦難の経験とむすびつけることである。(中略)
知識人にとってみれば、自分自身の民族的・国民的共同体の名のもとになされる悪には眼をつぶり、あとはただ自国民を擁護し正当化しておくほうが、気が楽であるし、そのほうが人から憎まれずにすむ。(中略)だが、たとえそうであるとしても、知識人は、集団的愚行が大手をふってまかりとおるときには、断固これに反対の声をあげるべきであって、それにともなう犠牲を恐れてはいけないのである。(*18)


 これまで見てきたように、湾岸戦争では「アッピール」を出した「文学者」たちであったが、「危機を普遍的なものととらえ」ることはできず、いまでは「反対の声をあげる」ことができなくなってしまった。この「文学者」たちの〈現状〉にあまり関わることなく、イラク戦争反対の動きは高まりをみせたようにも思われるのだが、どのようにしたらその動きを、「有事法制」の成立が目前のものとなってしまっている現在の日本の状況に対する〈抵抗〉につなげていけるのか。その時に必要不可欠なのが、「危機を普遍的なものととらえ、特定の人種なり民族がこうむった苦難を、人類全体にかかわるものとみなし、その苦難を、他の苦難の経験とむすびつけること」なのではないだろうか。
 ここで言われているような大「知識人」などいまや存在しえない、という声も聞こえてきそうだ。しかし、どこか遠くにいるえらい「知識人」だけが、このことを行えるというのではないだろう。そうではなく、ここでサイードが述べていることを行っていこうとする者こそが、「知識人」なのではないか。〈他者への想像力〉をもってそれぞれの「危機」・「苦難」の実態を見つめ、同時代性においてそれぞれをむすびつけるとともに、その歴史性を明らかにして、「集団的愚行」がまかりとおる圧倒的に不均衡な現状に対して「反対の声をあげる」こと。ひとりひとりがこの意味での「知識人」になることが、いままさに求められている。


 


(*1)もちろん、この「アッピール」の文言そのものは批判されなければならないと思う。坪井秀人が指摘する、「声明1」と「声明2」の間の、「私」・「われわれ」という安易な主語の置き換え(『声の祝祭』名古屋大学出版会、一九九七年、三七四頁)や、「声明2」の「アジア諸国に対する加害への反省に基づいている」・「西洋人自身の祈念が書き込まれている」といった、加藤典洋も批判する記述には、やはり問題があるだろう。

(*2) この発言の後二ヶ月あまりの間に、本島市長のもとには、七三〇〇通もの書信が寄せられた。そのうち、発言を支持するものは六九四二通にものぼった。マス・メディアにおいても、「言論の自由」の問題に重点がおかれてしまったとはいえ、「天皇の戦争責任」が議論の対象となったのは、今からすると驚くべきことである(『増補版 長崎市長への七三〇〇通の手紙』径書房、一九八九年。ノーマ・フィールド『天皇の逝く国で』みすず書房、一九九四年)。

(*3) 代表的なものとしては、笠井潔「湾岸戦争と無根拠な『平和』」(『現代思想』一九九一年五月)、若森栄樹「湾岸戦争、天皇制、署名」(『文藝』一九九一年五月)。

(*4) たとえば、高橋哲哉『戦後責任論』(講談社、一九九九年)、小森陽一・高橋哲哉編『ナショナル・ヒストリーを超えて』(東大出版会、一九九八年)、「責任と主体をめぐって」(『批評空間』第Ⅱ期13号、一九九七年四月)。

(*5) 加藤典洋の憲法論の問題点については、多くの言葉を費やす必要はないだろう。古関彰一『新憲法の誕生』(中央文庫、一九九五年)は、GHQ案と日本の「民間草案」との憲法理念における共通性が見られること、「押しつけ」られたGHQ案を日本政府法制局官僚が巧みに「日本化」していき、外国人の人権を保障する規定がすべて消された過程などを明らかにしている。古関によれば、憲法制定過程とは「押しつけはあったのか、なかったのか」という「国家対国家の対立という図式によって解明されるものではな」い。また、高橋哲哉による加藤の憲法論批判については、「日本のネオナショナリズム2」(『戦後責任論』、所収)参照。平和憲法が歴史的に果してきた役割を加藤が無視あるいは軽視していることや、憲法の内容よりも「わたし達の手で選ばれていること」を優先させる、加藤の「純粋ナショナリズム」的思考の問題点を指摘している。

(*6) 徐京植・高橋哲哉『断絶の世紀 証言の時代』(岩波書店、二〇〇〇年)、一一三頁。

(*7) 酒井直樹・川村湊・守中高明「〈共同性〉批判としての『戦後詩』」(『現代詩手帖』一九九七年九月)、一五~一六頁。

(*8) VAWW-NETジャパン編『裁かれた戦時性暴力』(白澤社、二〇〇一年)、二九四~三〇五頁。

(*9) この「連続性」は、「女性のためのアジア平和基金」(国民基金)の呼びかけ人も認めている。「日本の戦後国家は戦前国家と連続性を有しており、したがって過去の戦争犯罪をただの一つも自分では裁けなかったのです」。しかし、この認識が「このような日本国家にいま戦争犯罪を認め、法的責任をとるように求めても難しいと思います」と、「連続性」を切ることは不可能だという主張の根拠となっていることに驚かされる(大鷹淑子・下村満子・野中邦子・和田春樹「なぜ『国民基金』を呼びかけるか」、『世界』一九九五年一一月、一二六頁~一二七頁)。

(*10) 国民国家批判論が、「日本国民」であることの法的・政治的レベルでの責任までを解除してしまう、責任回避の論理につながっていくことの問題については、前掲『断絶の世紀 証言の時代』一三〇~一三七頁、参照。

(*11) 中野敏男「〈戦後〉を問うということ」、『現代思想臨時増刊号 戦後東アジアとアメリカの存在』二〇〇一年七月、所収、二九七~二九八頁。

(*12) たとえば、大塚英志『サブカルチャー反戦論』(角川書店、二〇〇一年)や東浩紀・笠井潔『動物化する世界の中で』(集英社新書、二〇〇三年)。大塚は「今回の『戦争』をめぐる『動き』のそもそもの始まりが柄谷が言うように『湾岸』にあったというのなら、ならばこそ、あの時の『声明』やふるまいは今に至るまで継続されていてしかるべきだし、今回もまたそれは繰り返されてしかるべきではないか」と至極真っ当な批判をしている。

(*13) 柄谷行人・西部忠・高瀬幸途・朽木水編著『NAM原理』(太田出版、二〇〇〇年)、二七頁。

(*14) 「NAMの原理」、同書、所収。

(*15) 柄谷行人「FA宣言」(NAMホームページ、http://www.nam21.org)。ただし、NAMの解散にともない、このホームページも閉鎖された。

(*16) 徐京植「『希望』について」(『ユリイカ』二〇〇一年八月)、一四六~一四七頁。

(*17) 〈非暴力〉といえばガンジーが想起されることが多いが、その思想は決して〈無抵抗〉主義などではなかった。ガンジーの〈非暴力〉は〈不服従〉と切り離すことのできないものであり、「道徳」性において積極的に闘おうとする、ラディカルな〈抵抗〉の一形態なのである。『わたしの非暴力』1・2(みすず書房、一九九七年)、『真の独立への道』(岩波文庫、二〇〇一年)、参照。

(*18) エドワード・W・サイード『知識人とは何か』(平凡社ライブラリー、一九九八年)、八三~八四頁。
  • 2008.03.18 18:30 
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> メッセージ・推薦文・紹介

韓国のインターネット新聞「プレシアン」での「<佐藤優現象>批判」紹介記事(権赫泰氏) 

<管理人注>
韓国のインターネット新聞「プレシアン」(ちなみに、岩波新書の『北朝鮮は、いま』は、ここでの連載をまとめたものである)に、私の論文と、その後の経緯等に関する記事が掲載された。著者は、権赫泰(コン ヒョクテ)氏である。権赫泰氏は、現在、聖公会大学日本学科教授であり、日本でも、しばしば『世界』『現代思想』などに、啓発的な論文・エッセイを執筆している。

その記事の全訳を下に掲載する。なお、掲載と訳文に関しては、権氏の確認を得ている。

「プレシアン」のような、(特に韓国のリベラル・左派への)影響力のあるメディアに取り上げられたことの意義は大きい。記事内容も、非常に的確なものである。逆に言えば、こうしたことを言えない日本のメディア・知識人とは一体何なのか、ということでもある。<佐藤優現象>に乗っかる護憲派メディアに遠慮しているのであろうが、それこそ、「在日朝鮮人に対する日本社会の非理性的な攻撃については、あえて目をつぶる」という、権氏が見事に要約してくださった、私の論文の指摘を反復している。
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日本の進歩に問う 権赫泰の日本を読む(1)

〈佐藤優現象〉と金光翔
――日本の進歩派に対する金光翔の問い

『プレシアン』2008年2月27日
http://www.pressian.com/scripts/section/article.asp?article_num=40080226115432&s_menu=%EC%84%B8%EA%B3%84



 日本を代表する出版社に岩波書店というところがある。少し前に韓国を訪問したこの出版社の前社長を指して、韓国のメディアが「日本を代表する知性である岩波書店」の代表と紹介したことから見て、この出版社は日本だけでなく韓国社会でも日本を代表する「知性」と認められているようだ。

 私もこの出版社が発行する雑誌『世界』を愛読しており、それだけでなく時には筆者として文章を寄稿することもあるので、因縁が深いといえる。『世界』は「世界文化人」という言葉があるほどで、まさに戦後日本社会の進歩/リベラル派の知識の「蔵(くら)」であった。1970~80年代には「韓国からの通信」という韓国民主化問題に関する連載のために、韓国政府から「反韓雑誌/反韓出版社」という「名誉ある称号」を与えられたこともある。筆者も1970~80年代に苦労して手にした『世界』を、練達とはいえない日本語能力ではあったが、辞書をひきつつ一つ一つ読んでいた記憶がある。

 また、岩波文庫や岩波新書などの伝統あるシリーズは、日本の近現代を貫く知性界の「蔵」を重厚なものにしてきた。知性的で進歩的で革新的であることを意味する「岩波文化」という言葉が生れるゆえんである。主に大衆書中心の出版社として名高い講談社と対比される理由もここにある。岩波書店は日本の進歩/リベラルの「蔵」なのである。

 しかしこの出版社で、進歩・知性・革新という出版社のイメージに真っ向から対立するとしか思えない出来事が起こった。この出版社で働く在日朝鮮人青年が会社から、そして会社の労働組合から圧迫を受けているのである。経緯はこうだ。

 岩波書店社員でもある金光翔という韓国国籍の在日朝鮮人三世が、『インパクション』という他の出版社から出ている隔月の雑誌に、最近の日本の社会現象を批判する論文(「〈佐藤優現象〉批判」2007年、160号)を書いた。ベストセラー作家として知られる右派評論家・佐藤優という人物が、『世界』や『週刊金曜日』のようないわゆる進歩・リベラル派の雑誌の常連筆者になっていることを事例として、日本の進歩・リベラル陣営の右傾化現象を問題にしたのだ。

 ところが、この論文に対し右派週刊誌である『週刊新潮』が「佐藤優批判論文の筆者は岩波社員であった」という煽情的なタイトルで悪意に満ちた記事を書き、このために問題が大きくなり始めた。岩波では金光翔に対し圧力を加え始め、よりひどいことにこの圧力に対して抗議をしてしかるべき位置にある岩波書店労働組合が、むしろ金光翔に対するいじめを始めたのである。

 一体何があったのだろうか?そして佐藤優の意図は何であり、彼になぜ進歩・リベラル派の雑誌が競って常連筆者として書かせているのか?そして金光翔はこうした現象をどのようなものと診断しているのか?

2.

「新帝国主義時代においても日本国家と日本人が生き残っていける状況を作ることだ。帝国主義の選択肢には戦争で問題を解決することも含まれる。国家が自衛権を持つことは当然のことであり、抑止力をどうすれば高められるかが重要だ。憲法を改正しなくても集団的自衛権に対する内閣法制局の解釈を変えればよい。そして周辺事態法が定めている周辺事態に台湾海峡を含ませ、『非核三原則』を緩和し、朝鮮半島有事には核兵器搬入を認めればよいのである」

「日本人拉致問題の解決無しに日朝交渉はありえない。よって北朝鮮に対しても戦争もありうるというカードを示したほうがいい。「敵(北朝鮮)が嫌がることをあえてすること」が情報戦の定石であり、在日朝鮮人とその団体に対する弾圧は、拉致問題解決のための環境を整えるのに助けになる。北朝鮮が条件を飲まないならば、歴史をよく思いだすことだ。帝国主義化した日本とロシアによる朝鮮半島への影響力を巡る対立が日清戦争、日露戦争を引き起こした。もし、日本とロシアが本気になって、悪い目つきで北朝鮮をにらむようになったら、どういう結果になるかわかっているんだろうな」という内容のメッセージを金正日に送るのだ」

「米国議会で推進されている慰安婦決議は事実誤認に基づく反日キャンペーンについて、日本政府がき然たる姿勢で反論することは当然のことだ。米国下院などが何を言っても日本が謝罪する必要はない。中国や韓国が何を言っても靖国神社参拝を小泉総理がやめなかったようにすればいい」

「『大東亜共栄圏』は一種の棲み分けの理論である。日本人はアジアの諸民族との共存共栄を真摯に追求した。強いて言えば、現在のEUを先取りするような構想だった。中国の蒋介石政権は米国とイギリスの傀儡政権であり、汪兆銘政権は決して日本の傀儡政権ではなかった」

 核兵器搬入の許容、北朝鮮戦争肯定論、米国議会の慰安婦決議の黙殺、大東亜共栄圏に対する賛美、あたかも右派政治家の板についた発言を聞いているようだが、実際には現在の日本を代表する論客でありベストセラー作家として知られる佐藤優という元外交官の主張を、金光翔氏の論文から抜粋・要約したものだ。

 佐藤優の経歴は若干特異である。1960年生まれの佐藤優は同志社大学神学部を卒業し、同大学で神学の修士学位を取得、1988年から外務省でロシア外交を担当した外交官だ。彼は2002年に背任容疑で逮捕され、保釈後、現在のような旺盛な執筆活動を展開した。こうした経歴のためか、自身の背任事件を告白した『国家の罠』は空前のヒットを記録し、その後約五年間で二十冊以上の著書を書いた。

 金光翔はもちろん彼が特異な経歴を持っており、また最近の日本社会で最も人気のある評論家であるという理由で彼に注目するのではない。上で言及したような歴史認識や情勢判断などは別段新しいものではない。代表的な右派雑誌である『正論』や『諸君』などで容易に見つけられる論理だ。よって「ありきたりの論理にありきたりの根拠」をくり返す彼の主張を一つ一つ取上げてその是非を分かつことは、この論文の目的にはならない。

 問題は佐藤優という人物の考えにあるのではなく、このような明らかな右翼・国家主義者の主張をいわゆる進歩・リベラル派に分類されるジャーナリズムが黙認しているのみならず、これら進歩派雑誌が競って佐藤優を常連筆者として登場させているという現象にある。これを金光翔は「佐藤優現象」と呼ぶ。進歩派ジャーナリズムが右派評論家を常連筆者として登場させる現象こそが、日本の右傾化の現住所をはっきりと示しているといえるのである。

3.

 こうした現象に対し、金光翔は明快に診断する。以下、改憲をめぐる動きを中心に見てみよう。

 日本で最近改憲が現実化する可能性が他のどの時期よりも大きいということは、よく知られた事実である。加えて代表的な護憲勢力である共産党と旧社会党(現社民党)は、護憲を担保できる議席を全く持っていない少数政党に転落している状態である。

 これに対する護憲派の戦略は、既存の護憲層だけでなくより幅広い「国民」層を護憲勢力へと包摂しようとするものだ。この過程で北朝鮮と在日朝鮮人に対する日本社会の非理性的な攻撃については、あえて目をつぶるか、あるいは佐藤のような対北戦争肯定派までも包摂しようとする。また1990年代以降の民主化により、韓国、中国で巻き起こり始めた過去事問題を、韓国、中国の「反日ナショナリズム」であると貶め、「加害」よりも「被害」の側面を強調する。

 言い換えれば護憲派の戦略とは、改憲後(明文改憲だけでなく解釈改憲も含む)の国家体制に適合する形態で生き残るためのリベラル左派の「集団的転向」だということだ。最近日本社会で頻発している在日朝鮮人に対する弾圧(これについては鄭栄桓「反動の時代――2000年代在日朝鮮人弾圧の歴史的位相」『黄海文化』55号、2007年冬参照)と、北朝鮮への非理性的な攻撃に対し、日本の進歩・リベラル派勢力がなぜ口を閉ざしているのか、そしてこうした「黙殺」が国家体制の志向とどのような関連を持っているのかについて、金光翔は答えているのである。

 問題はこうしたリベラル左派の「転向」をどうみるかだ。1990年代まで日本のリベラル左派は、過去事問題に対しある程度「転向的」な態度を取ってきた。韓国、中国などのアジア諸国に対し「謝罪」と「補償」をすることにより歴史問題にけりをつけ、経済大国にみあった政治大国となる路線を想定してきた。しかし形式的な謝罪と補償の構想は、「慰安婦」問題に対する国民基金問題によくあらわれているように、韓国などのアジアの民衆の抵抗により挫折することになる。この挫折に対する焦りが、アジアの民衆らの抵抗を「反日ナショナリズム」と貶める背景として作動することになるのだ。

 しかしこうしたリベラル左派の「転向」は「転向」ではない。リベラル左派により導かれてきた日本の戦後民主主義に、そもそも植民地主義に対する問題意識 がほとんど無かったことに起因しているのである。言い換えれば日本の戦後民主主義は胎生的に植民地主義を内に抱えながら生まれてきたのである。東京大学教授である高橋哲哉が『前夜』の創刊の際に記した次のような創刊趣旨文は、戦後民主主義の本質的な限界を明らかにしている。

「この国の「地金」が剥き出しになってきた。まるで、戦後民主主義と平和主義の全ては、この「地金」を暫時隠していたメッキにすぎなかった、とでもいうかのように。〔…〕一九四五年の敗戦は、民主主義と平和主義の憲法をもたらしたけれども、この国の「地金」に本質的変化はなかったのであろう。いま、再び、戦争と差別の時代がやって来ようとしている。」

 ここで言われている「戦争」とは北朝鮮との戦争を、差別とは「国民」の名のもとに在日朝鮮人を排除するシステムをいう。よって明文改憲のかたちであれ、解釈改憲であれ、戦後五十年間、民主主義と平和主義というメッキに隠されていた地金が姿をあらわす時代が来たということである。

 筆者紹介

 1959年生。高麗大学史学科を経て日本・一橋大学で経済学博士学位(日本経済史)を取得した。山口大学教授を経て2000年から聖公会大学日本学科教授として在職中である。著書に『反日と東アジア』(共著)、『アジアの市民社会』(共著)などがある。

  • 2008.03.10 00:00 
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