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> 論文・エッセイ

金光翔「天皇政治利用問題と天皇訪韓」 

天皇政治利用問題と天皇訪韓


1.問題の焦点

中国の習近平副主席と天皇との会談をめぐる一連の議論を見ていて遺憾に思うのは、この問題の焦点が、天皇の政治利用を積極的に肯定するかどうか、という点であることが明確にされていないことである。もちろん、政治利用は認められないということが、建前としてはマスコミ上で一応は共有されている以上、明確にされようがないのだが。だが、問題の本質的な焦点は、小沢ら民主党の行為が政治利用であったかどうかではなくて(それは、政治利用に決まっているわけである)、政治利用を肯定するかどうかなのである。この件に関する小沢一郎の憲法解釈は周知のように珍妙なものであるが、仮に小沢の憲法解釈が「正しい」と仮定したとしても、問題は何ら変わらない(注1)

私には上記の点は自明なことだと思うのだが、念のために、この点に触れている見解を引用しておこう。朝日新聞12月12日付朝刊からである(強調は引用者、以下同じ)。


「長谷部恭男・東大教授(憲法学者)の話 

 天皇は憲法で、政治的権能を一切持たず、形式的儀礼的行為のみを行う国の象徴とされている。天皇の国事に関するすべての行為には内閣の助言と承認を必要とし、内閣がその責任を負うことも憲法に定められている。天皇が政治的権能を持たないことを徹底させるためだ。ただ、それは最終的に内閣が責任を持つということであって、内閣が決めれば、操り人形のように天皇を動かしてよいというわけではない。

 相手国の政治的重要性いかんにかかわらず、「1カ月ルール」というプロトコル(外交手順)を順守することが、あらゆる政治的立場を超える国の象徴という天皇の地位を守ることにつながる。今回のように特例を認めることは、健康問題以前に政治の領域へ天皇を巻き込むことにつながりかねない。

 天皇は憲法で政治的権能を持たないとされているが、一定の社会的・心理的影響力を持つ。天皇を政治の領域に巻き込むことは日本の民主政治そのものにとって、そして外国から日本がどのように見えるかという意味でも、大きなマイナスとなる。内閣のその時々の判断で簡単に踏み越えるべきルールではない。慎重な判断が必要だ。」


長谷部はリベラルであって左派でもなんでもないから、「天皇を巻き込む」云々が強調されているが、論理自体は全くその通りであろう。これに、(かつての)護憲派の真っ当な見解を付け加えておこう。

「そもそも憲法が内閣の助言と承認を要求したうえでなお天皇の権能を限定したのは、天皇の独走を防ぐためであったということとともに、天皇を政治的に利用することをも防ぐためであったとみるべき」(芦部信喜監修『注釈憲法(1)』有斐閣、2000年、202頁、浦部法穂執筆)

メディアでは、日中関係は重要であるから、今回の会見は当然、という主張も散見されるが、それこそが政治利用なのである。


2.リベラル・左派の天皇制活用論

では、この民主党による天皇の政治利用に関して、リベラル・左派から批判は出るであろうか。私は、あまり出ないか、後述するような形での本質を回避した批判になるのではないか、と思う。それは、リベラル・左派の大多数が民主党政権擁護を至上命題としているからだけではなく、今の「国益」論的に変質したリベラル・左派の天皇(制)に関する位置づけに関わるものだと思う。

ポイントは、上の長谷部の発言にもある、天皇(制)が日本社会において持つ「一定の社会的・心理的影響力」である。かつての護憲派は、そうした影響力が実体として存在することは認めつつも、建前としては、そのことが問題である、としていたはずである。ところが、これは<佐藤優現象>と並行して起こっていると言ってよいと思うが、近年のリベラル・左派の諸言説において散見されるのは、従来とは180度逆の、天皇(制)が日本社会において持つ「一定の社会的・心理的影響力」を積極的に活用しよう、という見解なのである。

このところの姜尚中が、天皇制が国家主義に対する抑制的な役割を担っている、天皇制が多民族ナショナリズムの統合装置となりうるなどと、天皇制を積極的に肯定していることは既に私のブログでも紹介したが(姜の対談相手である中島岳志も、こうした見解に同意しているようである)、現在の天皇が日本国憲法を擁護する立場をとっていること、国旗・国家の強制に否定的であることを強調したり、富田メモを引いて首相の靖国参拝批判を行なったりするのも、これである。

苅部直による、天皇ら皇室が「権力者の行動に関する模範」となることを期待する発言(注2)や、森達也が現在の天皇に、香山リカが皇太子妃雅子に萌えていることも、この流れの中で考えることができると思う(注3)。天皇主義者を標榜する佐藤優がリベラル・左派論壇で活動できるのも、この流れが背景にあるからだと思う。

そして、このような、天皇(制)が日本社会において持つ社会的・心理的影響力を活用しようという意図を、最も明確に打ち出しているのは、宮台真司であろう。まずは、宮台の象徴天皇制解釈を聞いてみよう。


「(注・日本国憲法)第7条で細目が規定される国事行為は、厳密な意味の天皇の公務――国民から天皇への命令――ではない。そうではなく、統治権力が天皇にお願いしてよい非政治的行為を定めた、国民から統治権力への命令です。この統治権力からのお願いを天皇が聞かなければならないという憲法的命令も法律的命令もありません。統治権力からのお願いを天皇が聞かなければならないという憲法的命令も法律的命令もありません。統治権力からの国事行為のお願いを聞くかどうかは天皇の御意次第です。

(中略:憲法第7条全文の引用)

したがって、何度も繰り返して申しあげてきたことですが、日本国憲法が象徴天皇制を規定するというのは厳密には誤りです。象徴天皇制がシステムとして回っているように見えるのは、天皇が事実的に政治的発言を控えておられるからであり、天皇が事実的に国事行為を拒絶する振る舞いに及ばないからです。すなわち、制度があるからではなく、陛下の御意があるから回るのが、象徴天皇制だということです。社会学的には完全に自明です。逆にいえば教科書が教えていることは完全に誤りです。」(宮台真司ほか『天皇と日本のナショナリズム』春秋社、2006年10月、11~13頁)


このような、天皇(制)の社会的・心理的影響力を拡張しうる解釈を披瀝した上で、宮台は、以下のように、自らの戦略を述べている。これは、天皇(制)の持つ社会的・心理的影響力を積極的に活用しようというリベラル・左派の戦略を、極めて率直に語ったものだと思う。


片側は(注・天皇を)政治利用しようとしているわけですから、対抗する側も同じロジックで同じ程度の抵抗を示すことに問題はない。それが僕の立場です。

(中略)

 僕は、昨今の日本のマスコミの平均的見識よりも、昭和天皇や今上陛下のご見識のほうが遥かにすばらしいと思うし、個人的には幾分かは天皇主義者です。祖父が昭和天皇に生物学をご進行申しあげていたり、お師匠の小室直樹先生が天皇主義者だったりすることもあるかもしれません。連れあいが、大日本帝国憲法を井上毅と一緒に作成した伊東巳代治の子孫だったりします。

 その立場からいえば、旧リベラルあるいは旧左翼の方々は「陛下もこうおっしゃっているんだから国旗国歌法はよくない」「陛下もこうおっしゃっているんだから憲法改正はよくない」「陛下もこうおっしゃっているんだから靖国参拝はよくない」と言えばいい。でも、リベラル側は言いたくない。天皇制そのものに反対だから「陛下がおっしゃっている」とは言えないという自縄自縛に陥っている。何て「不自由な頭」を持っているんでしょうね。」(同書、186~187頁)


宮台は、別に左派ではないから、誰に遠慮することもなく、リベラル・左派の欲望をあけすけに語っているのだと思われる(注4)


3.東アジア共同体論と天皇

ところで、天皇(制)が日本社会において持つ社会的・心理的影響力を積極的に活用しよう、という論者のうち、姜尚中や宮台真司は、東アジア共同体論者として知られる。もちろん、天皇訪韓の実質的な提唱者である和田春樹もこれである(注5)今のリベラル・左派論壇で、最も熱心に天皇(制)を称揚する人物がそろって東アジア共同体論者というのは、示唆的である。

東アジア共同体(的なもの)の構築にあたっては、周辺諸国との「和解」と、日本の右派の反対を弱めることが不可欠であるが、天皇(制)は両方において絶対的な効力を有する、ジョーカーのようなものととして、東アジア共同体論者に映っているであろう。もちろん、天皇による「和解」的な政治行為を実現させるには、右派との熾烈な抗争が要求されるが、一旦勝利すれば、「和解」の効果だけではなく、「和解」路線を日本の支配的世論とし、それに応じて自らの主張への支持も調達できる。私は、日朝国交正常化でも、何らかの形で(例えば「おことば」など)天皇カードが使われると思う。そうでないと収拾できないだろう。

「東アジア共同体」と天皇(制)の件に関する、現在の民主党政権の思惑を考える上で参考になると思われるのは、鳩山由紀夫首相の憲法改正草案である。これは、『新憲法草案――尊厳ある日本を創る』(PHP研究所、2005年2月)として書籍として出版されたものである。ほぼ全文が鳩山のホームページでも見れるので、そこから引用する。

鳩山草案は、前文で、「アジア太平洋地域に恒久的で普遍的な経済社会協力および集団的安全保障の制度が確立されることを念願し、不断の努力を続ける」と謳っている。書籍版に附された「なぜ今「憲法改正」なのか――はしがきに代えて」では、より直接的に、「私は、今後五十年の日本の国家目標の一つとして、一言でいえば、アジア太平洋版のEUを構想し、その先導役を果たすことを挙げたい」と述べられている(18頁)。もちろんこの構想は、現在、鳩山が提唱している「東アジア共同体」と同義であろう。

そして、鳩山は、草案の「第2章 天皇」「第9条(天皇の国事行為)」で、天皇の国事行為に、「十 国賓を接遇すること並びに友好親善のため諸外国を訪問すること」と、天皇の海外訪問を追加している。これについて鳩山は、


「天皇の行為については、憲法の規定する「国事行為」と「私的行為」のあいだに、象徴としての「公的行為」があると学説上解説されている。国賓歓迎行事の主催、外国訪問、地方への行幸、国会開会式や国体など国民的行事への臨席などがこれに当たる。天皇制を否定的に考える向きからは、これらの公的行為は違憲であるといわれている。

私はもちろんそのような考えは取らないが、国賓の接遇と外国訪問については、国事行為として規定することとした。これまでも晩餐会等での天皇のスピーチが問題なるなど、公的行為のうちでも、最も政治的性格の強いものであり、内閣の責任を明確にしたほうが適切であると考えるからである。」


と注釈した上で、以下のように述べている。


「天皇制は日本の文化的資産であるとともに、貴重な政治的資産でもある。今回私はその意義を積極的に評価する立場で改正案を作った。」


恐らく鳩山においては、東アジアにおける集団的安全保障制度(東アジア共同体)の構築と、「貴重な政治的資産」としての天皇制の活用は、ワンセットなのだと思われる。天皇の最も重要な政治行為として、海外訪問が位置づけられているのだろう。岡田克也外相による、国会開会式「お言葉」見直し発言も、天皇の権威を高めて「政治的資産」としての価値をより上昇させよう、という民主党内の空気が背景にあるのかもしれない。

また、朝日新聞の幹部で、2002~2008年の論説主幹であった若宮啓文は、朴裕河を持て囃している人物であるが 、著書『和解とナショナリズム――新版・戦後保守のアジア観』(朝日選書、2006年11月)の中で、「「和解」に果たしてきた天皇の役割」(6頁)を強調し、「天皇陛下は中国訪問だけでなく、アジアとの和解や過去の清算にさまざまな役割を果たしてきた。」(319頁)とまとめている。

若宮は、1992年の天皇訪中について、「皇室外交が国家と国家、国民と国民の「友好の証」であればこそ、現天皇の訪中は昭和天皇の訪米(1975年)と並ぶ「戦後最大の皇室外交」に違いなく、内外から大きな注目を浴びたのは当然だった」とした上で、当時、争点となっていたPKO協力法問題などとも絡み合い、「大きな政治的意味をもった」と位置づけている(296頁)。若宮は、「東南アジアに加えて天皇の中国訪問も実現して久しい中で、韓国訪問だけが重い課題として残されている」(326頁)と述べており、天皇の韓国訪問も、「戦後最大の皇室外交」として、積極的に支援していくだろう(注6)

また、目についたところでは、ケネス・ルオフ「平成皇室の「象徴力」とその危機」(『世界』2009年6月号、木村剛久訳)の「平成時代を一貫して流れる特質は、天皇と皇后が戦後処理に強い関心を持ち、戦争の傷跡と真正面から向き合っていることである。」といった発言も、リベラル・左派内部における、「皇室外交」による「和解」を容認する空気を示唆していると思う。


4.なぜリベラル・左派内で天皇制活用論が蔓延しているか

さて、こうした、天皇(制)が日本社会において持つ社会的・心理的影響力を活用しようという「空気」は、なぜ生じているのか、という問題が残る。私は、これは、<佐藤優現象>と本質的には根を同じくする現象ではないか、と考えている。

私は以前、「佐藤優の議員団買春接待報道と<佐藤優現象>のからくり」 で、以下のように述べた。


「成澤(注・成澤宗男、9・11陰謀論者)は恐らく、9・11テロへの対応としてのアフガン戦争・イラク戦争に対して、「人道上許されない」または「国際法違反である」または「テロ対策として非合理的である」といった、聞き手に「理性」または「良識」があることを前提とした反対理由では、ポピュラリティを得ることはできない、したがって、戦争の流れを止めることはできない、と考えているように思われる。だからこそ成澤は、「理性」または「良識」を持ち合わせない(と成澤が考える)大衆も、アフガン戦争・イラク戦争に反対するように、9・11がブッシュらの「陰謀」であることを「論証」しようと懸命に努力しているのだ、と私は思う。

「<佐藤優現象>批判」でその認識の問題点を指摘したが、9・11(2005年)の衆議院選挙の選挙結果について、リベラル・左派は、大衆が愚かにもプロパガンダに惑わされて、自らの利害に反する小泉自民党に大量投票した、と認識したのである。リベラル・左派は、大衆が「理性」または「良識」を持ち合わせていることを前提とした言論活動を展開することに絶望したのだ。だからこそ、「護憲派のポピュリズム化」、<佐藤優現象>、『金曜日』の9・11陰謀論への加担、といった現象が起こっていると私は思う。(中略)

市民運動、社会運動の力によって下から社会を変えることは無理であるから、佐藤優(の諸活動や人脈)を通じて上の中で、上から社会を指導する、あるいは、社会をいじくりまわすことを志向した、と言い換えてもよい。」


つまり、リベラル・左派は、大衆が「理性」または「良識」を持ち合わせていることを前提として、市民運動、社会運動の力によって下から社会を変えていく、といった志向性を、もはや放棄しているのである。大衆が「理性」または「良識」を持ち合わせているなどと考えていないから、天皇(制)の政治利用は否定されるべき、という主張や、天皇(制)が持つ社会的・心理的影響力が減退するように日本社会を変えていこう、という主張は、もはや行なわないのである。逆に、そのような社会的・心理的影響力を活用し、天皇(制)によって「上から」社会への影響力を与えていくという方向を選んでいる(というほど自覚的なものでもないだろうが)のである。

このことは、「和解」の内実とも関連している。仮に日韓の「和解」があるとすれば、大日本帝国との連続性を濃厚に有する日本国家や日本社会が変わらない限り、それはありえないだろう。それが無理だというのならば、素朴な疑問なのだが、「和解」してどうするのか、と思わざるを得ない。「和解」がなくとも民間交流は活発であり、表層的な形で「和解」が一時的に「成立」したとしても、その後で必ずそれは破棄されるだろう。そうなれば、相互で憎悪がより強まるのは自明である。若宮が『和解とナショナリズム』で、天皇訪中後の日中関係の悪化を見て、「あの天皇訪中はいったい何だったのだろうか」と「虚しさ」を感じるようになったと述べているように(295頁)、それは結局のところ、相互不信を招くものでしかない。

大日本帝国と「戦後」の連続性の「象徴」たる、天皇制が持つ社会的・心理的影響力を活用して行なわれる「和解」は、表層的なものにならざるを得ないだろう。「東アジア共同体」だけではなく、以前に森本敏の提案を引いたように、支配層の間では、米日韓の安全保障協力関係の構築の必要性が唱えられているのであって、日韓の「和解」は、そのための条件として出てきているにすぎない。その動きに、マスコミや市民運動を動員するために、姜尚中や和田春樹ら野心的な学者や、『世界』などのジャーナリズムが利用されているだけだ(本人たちもそのことを自覚しながら動いているだろう)。

もちろんこれは、そうした「和解」を進める人々自身が、もはや実際には、朝鮮植民地支配(に基因する件)を含めた歴史認識・戦後補償問題について、大日本帝国との連続性を濃厚に有する日本国家や日本社会を変える契機となるべきものと捉える認識を持っていないことをも意味する。それよりもむしろ、「和解」(例えば「民衆同士の和解」といった決まり文句がよく使われる)が大事なのであろう。だがそれは、「和解」運動に携わる個々人の「癒し」以外の意味を持たないのではないか。「国民基金」以来、この構図は変わっていない(注7)


5.天皇政治利用問題における朝日新聞の転向

さて、これまでの記述を読んで、疑問に思われた読者もいるだろう。「朝日新聞は東アジア共同体や日韓の和解を、マスコミでは最も熱心に支持しているが、その朝日が今回は小沢ら民主党を批判しているではないか」という疑問である。確かに、第一報である12月13日の社説は、私が心配するほど、小沢らによる天皇利用を批判していた。

だが、心配?するには及ばなかったのである。朝日は、同じ問題に関する12月17日の社説では、小沢らを批判しているとはいえ、その論理において、早速転向を遂げているからである。以下、具体的に見てみよう。

まず、12月13日の朝日新聞のこの件に関する社説を確認しておこう。全文を掲載する。


「天皇会見問題―悪しき先例にするな

 あす来日する中国の習近平国家副主席と天皇陛下との会見が、鳩山由紀夫首相の強い要請で、慣例に反して決められた。

 習氏は胡錦濤主席の最有力後継者と目されている。日中関係の将来を考えれば、この機会に会見が実現すること自体は、日中双方にとって意味のあることに違いない。

 問題は、政権の意思によって、外国の要人との会見は1カ月前までに打診するという「1カ月ルール」が破られたことだ。高齢で多忙な天皇陛下の負担を軽くするための慣例である。

 羽毛田信吾宮内庁長官は、相手国の大小や政治的重要性によって例外を認めることは、天皇の中立・公平性に疑問を招き、天皇の政治利用につながりかねないとの懸念を表明した。

 日本国憲法は天皇を国の象徴として「国政に関する権能を有しない」と規定した。意図して政治的な目的のために利用することは認められない。

 鳩山政権は習氏来日の直前になって、官房長官自ら宮内庁長官に繰り返し電話し、会見の実現を強く求めた。天皇と内閣の微妙な関係に深く思いを致した上での判断にはみえない。国事に関する天皇の行為は内閣が決めるからといって、政権の都合で自由にしていいわけがない。

 日程の確定が遅くなったとはいえ、習氏の来日自体は、以前から両国間で調整されていた。日中関係が重要だというなら、もっと早く手を打つこともできたはずだ。

 1カ月ルールに従い、外務省はいったんは会見見送りを受け入れた。

 ここに来て首相官邸が自ら乗り出して巻き返した背景には、中国政府の働きかけを受けた民主党側の意向が働いたと見るべきだろう。小沢一郎幹事長が同党の国会議員140人余を引き連れて訪中した時期と重なったことも、そうした観測を強める結果になった。

 首相の姿勢は、このルールに込められた原則を軽んじたものと言わざるを得ない。

 首相はしゃくし定規にルールを適用するのは国際親善の目的にかなわないと語った。今後、他の国から同様の要請があった場合、どうするのだろうか。1カ月ルールを維持するのか、どんな場合に例外を認めるのか。

 鳩山政権では、岡田克也外相が国会開会式での天皇陛下の「お言葉」について、「陛下の思いが少しは入るよう工夫できないか」と発言し、波紋を広げたこともあった。

 歴史的な政権交代があった。鳩山政権にも民主党にも不慣れはあろうが、天皇の権能についての憲法の規定を軽んじてはいけない。この大原則は、政治主導だからといって、安易に扱われるべきではない。今回の件を、悪しき先例にしてはいけない。」


ごくまっとうな見解である。上で引用した、長谷部の見解にも沿ったものである。

だが、この論理では、朝日新聞が推進する「東アジア共同体」や日韓の「和解」のために、天皇(制)を活用することはできないのである。

そのことを確認した上で、今度は、同じ朝日新聞の12月17日の社説を見てみよう。


「天皇会見問題――政治主導をはき違えるな

 天皇陛下と中国の習近平国家副主席の会見に対し、宮内庁長官が政府の方針に異議を唱えたいのなら、辞任してからにすべきなのか。

 民主党の小沢一郎幹事長が「辞表を提出した後に言うべきだ」と、記者会見で羽毛田信吾宮内庁長官の行動を激しい言葉で批判した。

 政府が外国要人を天皇と会見させたい場合、1カ月前までに宮内庁に申し入れるのが慣例なのに、今回は1カ月を切っていた。だから宮内庁は断ったが、平野博文官房長官が鳩山由紀夫首相の意を受けて「日中関係の重要性にかんがみて」と重ねて要請し、実現させた。そんな経過をたどった。

 論争の焦点は、憲法である。羽毛田氏は、政府の対応は憲法に照らして問題ありとの立場だ。

 「国政に関する権能を有しない」象徴天皇の国際親善は、政治とは切り離して行われるものだ。そのために、相手国の大小や重要性で差をつけず「1カ月ルール」で対応してきた。中国は大事だからとそれを破るのでは天皇の政治利用になりかねない、と訴える

 1カ月を切れば政治利用で、それ以前ならそうではないのか。習氏の訪日自体は前から分かっていたろうし、政府の内部でもっとうまく対処できなかったのか。首をかしげたくなる点もないではない。

 それでも羽毛田氏にとって、いわば政治の横車で1カ月ルールがねじ曲げられるのは、憲法と天皇のあり方にかかわる重大問題だということだろう。

 一方の小沢氏は、官僚がそのような憲法解釈をして、政府にたてつくような発言をしたことに反発した。

 小沢氏の理屈はこうだ。役人がつくった1カ月ルールを金科玉条のように扱うのは馬鹿げている。役人が内閣の指示や決定に異論を唱えるのは、憲法の精神や民主主義を理解していないとしか思えない――。

 政治家が内閣を主導し、官僚はそれに従うというのは確かに筋は通っている。しかし、だからといって反対するなら辞表を出せと切って捨てるのは、権力者のとるべき態度として穏当を欠いていないか。

 民主党は、政府の憲法解釈のよりどころとなってきた内閣法制局長官を国会で答弁できないようにする法改正を目指している。憲法解釈は政治家が決める、官僚はそれに従えばいい、という発想があるようにも見える。

 宮内庁や内閣法制局はその役割として、憲法との整合性に気を配ってきた専門家だ。その意見にはまずは耳を傾ける謙虚さと冷静さがあって当然だ。

 政治主導だからと、これまでの積み重ねを無視して好きに憲法解釈をできるわけではない。まして高圧的な物言いで官僚を萎縮させ、黙らせるのは論外だ。はき違えてはいけない。」


13日の社説も17日の社説も、「政治主導だからと」いって、従来の原則や積み重ねを無視すべきでない、という最後の段落の趣旨は同じだ。だが、それに至る論理は、明らかに変わっている。

17日の社説では、当の朝日新聞が13日に主張していた政治利用批判は、羽毛田が言っていることになっている。しかもその主張に対しては、「首をかしげたくなる点もないではない」などと、まるで他人事のようだ。

もちろん17日の社説でも、小沢は批判されている。だが、13日の社説のような天皇の政治利用が問題だというのではなく、小沢の態度や強引さの問題だとされている。

この17日の社説であれば、今後、天皇が訪韓することになり、宮内庁長官が「政治利用にあたる」として反対したとしても、小沢は、その反対の声を「謙虚さと冷静さ」をもって、あくまでも参考意見として、聞いてやるだけでいいのである。だから、この論理ならば、天皇訪韓は可能なのだ。

今後、民主党が、あからさまな天皇の政治利用によって、天皇訪韓を打ち出したとしても、朝日新聞は少なくとも批判しないだろう。むしろ、積極的に支持するだろう。そのことに面食らう読者は多いだろうが、もう内部的には決着がついているのだと思われる。


6.政治利用推進派の大義名分――「陛下の御心」論

だが、天皇の政治利用を進めようとする側の弱みは、恐らく、現状では大義名分が存在しないことである。若宮のように、「もともと天皇制に内在する政治性は否定できない」などとして開き直る手もあるが、日本国憲法4条第1項で、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」とある以上、説得力を持ち得ないだろう(ちなみに、鳩山の憲法改正草案では、この第4条第1項が削除されている。自民党新憲法草案(2005年10月28日)にはある)。

もう一つ、佐藤優が、天皇を政治に巻き込むべきでないとして、わざわざ言挙げした羽毛田が尊皇精神を欠いているなどと批判しているように、それが政治的に利用されたものであれ、天皇によってなされる行為を論争の対象にすべきでない、とする論理もありうるだろう。だが、この論理が致命的なのは、「尊皇精神」を言い出せば、小沢ら民主党の政治利用の方がよほど問題である点である。この論理は、小沢ら民主党を批判しないことで成り立っているから、党派性に基づいた、ご都合主義的な主張にしか見えないため(佐藤の文章が、小沢へのあからさまな媚びであることは誰の目にも明らかである)、これも大衆的な説得力を持ち得ないだろう。

では、政治利用を進める側には、どのような論理がありうるか。私は、それは、「天皇の意思」または「陛下の御心」を強調するものではないか、と思う。

これは、1992年の天皇訪中の実現をめぐる政治過程をめぐる記述が参考になろう。天皇訪中の計画に対しては、自民党内でも強い反発が起こったのだが、若宮は、そうした反発を抑制するのに力があったのは、天皇自身が訪中を望んでいるらしい、という情報だったと述べている。以下、若宮の記述(「検証・天皇訪中が決まるまで」『和解とナショナリズム』、316頁)から引用しよう。


「宮沢(注・当時の宮沢喜一首相)は(注・1992年8月)5日、党の最高顧問らと懇談した。米国や韓国の(注・天皇訪中への)「理解」も挙げて、協力を要請したのである。宮沢の後見人を自任する鈴木善幸がすかさず後押しした。3月の懇談会から5カ月近く、もはや中曽根も異議を挟まず、流れは固まった。

 こうした中で開かれた5日の総務会。改めて賛否両論がぶつかったのだが、藤尾(注・藤尾正行、天皇訪中反対の最強硬派)が「私は反対だが、決まっているのなら、ここでどうこういってもしょうがない」と言い捨てたのが注目を集めた。その趣旨は憶測を呼んだが、「これ以上反対すると、陛下の御心に反しかねない」という懸念ゆえだ、との解説がなされたものだ。「訪中したい」との天皇の意思は、反対派にも早くから伝わっていた。藤尾は常々、「だからといって陛下のお気持ちで判断してはならない。陛下は政治に関与せずだ」と加藤紘一らに語っていたが、気にはなっていたのだろう。どのみち天皇訪中が避けられないのなら深追いしすぎてはまずい、と考えたのかもしれない。」


「陛下の御心」が反対を抑制したというのは若宮による憶測の域を出ていないのだが、「皇室外交」の政治的重要性を強調する若宮が、「陛下の御心」が天皇訪中への反対を抑える役割を果たしていると認識していることは言えるだろう。

したがって、天皇訪韓やその後の「皇室外交」においても、「天皇は実はこう思っている」といった情報が、マスコミを通じてリーク(捏造?)され、計画されている「皇室外交」と「陛下の御心」があたかも合致するものという表象が作り出されるのではないか、と私は思う。「天皇の政治利用」という批判に対しては、「陛下もこう考えておられるようだ」という主張によって反論する、ということになるのではないか。

12月14日の記者会見上で、小沢が、「天皇陛下ご自身に聞いてみたら『手違いで遅れたかもしれないけれども会いましょう』と必ずおっしゃると思うよ」と発言していたり、天皇訪韓に期待する姜尚中が、「朝鮮日報」のインタビューで、「天皇は本当に韓国に行きたがっています」などと発言していることも、「陛下の御心」論が、今後前面に出てくることを示唆していると思う。

現在の天皇が訪韓の希望を公的に語ることはないと思われるので(注8)、「陛下の御心」は、伝聞形式のものにならざるを得ない。したがって、それに対して、「陛下の御心」を勝手に忖度すること自体が「不敬」である、といった主張も可能である(実際に、上記の小沢の発言は、ウェブ上ではそうした論理で右派から叩かれている)。

したがって、天皇訪韓が日程に上ってくるにつれて、大雑把に言えば、左派を含めた民主党政権支持層は、「天皇陛下も訪韓したいと思っておられるらしいよ」または「これまでのご発言から、天皇陛下も訪韓したいと思っておられるはずだ」と、「陛下の御心」または「天皇の意思」を強調して、反対派を「不敬」であると(言わんばかりの口調で)批判し、「右」は、天皇を政治に巻き込むこと、それによって天皇の社会的権威が低下しかねないことを批判し、「陛下の御心」を勝手に忖度することの「不敬」さを批判することになろう。もちろん、後者の方が日本国憲法の条文には適合的である。

この相互の抗争プロセスを経て、天皇(制)の価値が浮上し、社会意識の右傾化が促進されることになる、と思われる。外国(人)から見れば、日本の言論状況は、すべてが天皇主義者に占拠されてしまったように見えるだろう。

アナロジーで語れば、この件は、天皇機関説排撃事件に比することができるかもしれない。天皇機関説の擁護側が極右で、国体明徴派が小沢や姜だ。「天皇の政治利用」推進派は、「陛下の御心」を強調して、天皇との連結という表象のもとで、自らの政治的意志の貫徹を図るわけである。ちょうどそれは、政党内閣による「統帥権干犯」を恨む軍部が、天皇大権としての統帥権の不可侵性を強調して、国体明徴運動を強力にバックアップしたことに似ている。

在日朝鮮人の中には、「天皇訪韓によって、日韓の友好が進み、日本社会の在日朝鮮人に対する意識もよい方向に向かうだろう」などと楽観視している人間もいるであろうが、現実に起こる事態は恐らく逆であろう。国家レベルでの相互の「友好」が進む一方で、天皇訪韓を実現させる過程で発生するメディア上での抗争によって、天皇の価値が浮上する結果、社会意識はより排外主義的なものになっていくと思われる。また、天皇訪韓による「和解」によって、日韓間の歴史認識問題が「解決」したという表象が作り出されることで、在日朝鮮人への「反日」批判、同化・帰化圧力も強まるだろう。どのように転んでも、天皇訪韓は、在日朝鮮人にとって悪い結果しかもたらさないと思う。



(注1)この一文をほぼ書き終わった後に、小沢が12月21日の記者会見で、「国事行為」論を撤回したことなどが報じられた。本稿には21日の小沢の発言は反映していないが、ここでの指摘自体は21日の発言に関しても妥当していると考える。


(注2)苅部直「新・皇室制度論 伝統VS.批判の二極を超えて」(朝日新聞2008年1月5日付朝刊)より。

「 改めて考えれば、平和主義や民主主義を信奉することと、皇室制度を批判することとが、論理の上でじかにつながるわけではない。世襲君主を置く英国やオランダの国家制度を、反民主的と言い切るのはむずかしいだろう。日本の「天皇制」は諸外国の君主制とは事情が異なる、と反論する手もあるが、そうした論法は、たとえば徳川時代の国学者と、皇室の存続への価値評価を逆にしただけで、制度の理解としてはまるで同じになる。

 どうも、皇室制度をめぐる議論は、二つの極に岐れてしまう傾きがある。それを日本人の文化伝統や宗教性と単純に結びつけて賞賛するか、あるいは、自由や平等の普遍的な価値に反するものとして、批判もしくは無視するか。例えば久野(注・久野収)のように、多文化社会の到来を歓迎するリベラルの立場から、皇室制度の新しい意義を考えるといった議論は、宙に浮いたようになってしまい、理解されにくい。(中略)

 昨年の暮れ、12月11日に、身体が不自由な人の雇用促進のため作られた会社の作業所を、天皇・皇后両陛下が訪問され、従業員に暖かい声をかけられたことがあった。あまり大きく報じられなかったが、紛糾する国会のようすや、官庁の不始末の報道とは、まったく対照的にほっとさせられる

 もちろん、細かな政策提言につながることはないにせよ、こうした皇室の活動に、世間の多くの視線が集まることを通じて、それが権力者の行動に関する模範として働く。報道がきちんとしていれば、そういう回路も、皇室制度が今後ももつ意義として、期待できるのではないか。

 少なくとも、天皇による任命や国会召集といった手続きがもしなかったら、政治家や大臣の責任意識は、現状よりもさらに地に堕ち、混乱に満ちた政治の世界が登場していただろう。そう仮に想像してみることにも、十分な意味があると思えるのである。」


(注3)大塚英志が2000年に、石原慎太郎などの強い指導者崇拝を抑制するものとして、象徴天皇制を「世俗的権力阻止の装置」と積極的に肯定していたが(「天皇抜きのナショナリズム」『VOICE』2000年9月号、『戦後民主主義のリハビリテーション』(角川書店、2001年7月)所収)、このあたりがこうした流れの嚆矢であろう。ただ、大塚は、同書文庫化時の加筆では、その立場を放棄し、天皇制批判の立場に変わったことを宣言している(角川文庫、2005年1月刊、620頁)。文庫版にも収録されている「天皇抜きのナショナリズム」の当該箇所には、特に注釈も修正もないので、大塚の行為は不徹底ではある。


(注4)宮台の主張は大日本帝国憲法下ならば成立可能かもしれないが、日本国憲法下では成り立たないだろう。日本国憲法下では、天皇の「地位は主権の存する日本国民の総意に基く」(第1条より)のだから。「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」という第2条からもそのことは言える。この条文により、大日本帝国憲法下で多数説であった「国務法(国家法)」と「宮務法(皇室法)」の二元的法体系が否定され、皇室典範は憲法の下位法と明確に規定されたからである(極右の中川八洋は、特にこの点を強く指弾している(『悠仁天皇と皇室典範』清流出版、2007年1月)。宮台の矛盾は佐藤優の天皇論の矛盾でもあって、「憲法で一番大事なものは何か?」という問いへの「国民主権」との佐藤の答えに対して、「国民主権では国民が望めば天皇は廃止されるじゃないか!」と指弾した小林よしのりは、右翼としては正当であろう(小林よしのり『ゴーマニズム宣言 天皇論』小学館、2009年6月、359~360頁。これは憲法問題のシンポジウムでのやりとりで、小林によれば、この批判に対し佐藤は無言だったという)。宮台にせよ佐藤にせよ、日本国憲法を否定しない天皇擁護論は、どれほど天皇(制)を神格化しようと「戦後民主主義」的である。


(注5)和田は、東アジア共同体(和田の言い方で言えば、「東北アジア共同の家」)構築と日韓の「和解」において天皇(制)を活用することを、かなり早くから構想していたように思われる。このことについては長くなるので別稿に譲る。


(注6)なお、『和解とナショナリズム――新版・戦後保守のアジア観』は、1995年11月に、朝日選書の1冊として出された『戦後保守のアジア観』の加筆修正版であるが、旧著に比べて「和解」の主張がより前面に出ている。「補論 「和解」と天皇陛下」という章も付け加わっている。

新版においては、多くの箇所が修正されている。天皇関係で一つ挙げておこう。

旧版「(注・天皇訪中について)こうした諸々の政治的な判断があったことは間違いないのだから、訪中に対して「天皇の政治利用」との批判が左右から出るのは、ある意味で当然だった。日本共産党もそれを挙げて強く反対した。」(旧版238頁)
↓↓↓ 
新版「(注・天皇訪中について)こうした諸々の政治的な判断があったことは間違いないのだから、訪中に対して「天皇の政治利用」との批判が左右から出るのは、ある意味で理のあることだった。日本共産党もそれを挙げて強く反対していた。」(新版310頁) 

若宮は、どちらにおいても、「もともと天皇制に内在する政治性は否定できない」などと開き直って反論するのだが、上においては、「天皇の政治利用」批判の法的正当性を薄める形での修正がなされている。この類や、もっとあからさまな修正が、新版には大変多い。


(注7)この件については、長くなるので別途論じる。


(注8)これは、政府の憲法解釈上できない、と言っているのではなく、現在の天皇のこれまでの発言から判断してそう言えるであろう、ということである。宮内庁ホームページにある、天皇の記者会見記録「中華人民共和国ご訪問に際し(平成4年)」から引用しておこう。

「(問3 今回の訪中をめぐりましては,内外に様々な反対意見もありました。この点について陛下のお考えをお聞かせ下さい。)

言論の自由は,民主主義社会の原則であります。この度の中国訪問のことに関しましては,種々の意見がありますが,政府は,そのようなことをも踏まえて,真剣に検討した結果,このように決定したと思います。私の立場は,政府の決定に従って,その中で最善を尽くすことだと思います。

「(問5 韓国訪問は皇太子ご夫妻時代に一度延期になり,その後,廬泰愚大統領から招請もありましたが,陛下はどのようにお考えでしょうか。)

韓国は日本と極めて近い隣国であります。近年,そして長い交流の様々な歴史があります。近年,協力の関係が進み,友好関係が深められてきていることは喜ばしいことと思います。私の訪問に関しましては中国の場合と同じく,政府の決定に従うものでありそのような機会があれば,心を尽くして務めていきたいと思っております。」

天皇の海外訪問は従来の政府見解では公的行為であるが、現天皇が「政府の決定に従う」と表明している以上、海外訪問は内閣の純粋な決定ということになるのであって、天皇の政治利用になるのである。
  • 2009.12.22 00:00 
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> 論文・エッセイ

金光翔「日本は右傾化しているのか、しているとすれば誰が進めているのか」 

1  日本は右傾化しているのか?


我ながら大きく出たタイトルであるが、結局、<佐藤優現象>をはじめとして、私がこのブログで問題にしてきたテーマとそれへの(無)反応は、この問いに帰着するのではないかと思う。

もう少し問いを絞れば、安部政権崩壊(または2007年参議院選)後、日本は右傾化しているのか、しているとすればその支持層はどういったものなのか、ということだ。

多分、日本のリベラル・左派のかなりの部分は、本音では、「右傾化していない」と認識していると思う。格差社会を是正しようという声は保守の間でも強まっており、一時期に比べ、改憲の声も弱まっている。首相の靖国神社公式参拝も控えられている。田母神問題で見られたように、「大東亜戦争」を肯定する人物が政治的な重職に就くべきではないという見解は、保守層も含めた日本のコンセンサスになっている・・・といった具合だ。

だが、こうした認識は、以下のような問いに当然逢着する。それでは、昨年見られた、ほとんど歯止めを失ったかのような中国バッシングは一体なんだったのか?朝鮮民主主義人民共和国のロケット発射、核実験への一連の麻生内閣の対応に対して、ほとんど反対の声が挙がらないのはなぜか?海賊対策という名の対テロ戦争への日本の参加に対して、ほとんど反対の声が挙がらないのはなぜか?朝鮮総連への弾圧が容認されているのはなぜか?外国人労働者流入反対論が流行していたり、入管法の改悪がほとんど話題にならなかったりするのはなぜか?・・・等々。

「右傾化していない」というリベラル・左派の人々は、これらの問いに対してどう答えるか。単純化して言うと、これらの、私からは右傾化と見える事象に対して、「別に問題ないよ。自分も賛成だよ」と答える()のが民主党や朝日新聞であり、「確かに行きすぎだと思うが、一定の妥当性はあると思う」と答える()のが護憲派メディアの大半である。両者は、「普通の国」論(「国益」論)にすでに取り込まれているからこそ、そう考えるのである。

日本は右傾化している。だが、問題は、むしろその次にある。その右傾化は誰が進めているのか、支持しているのか。特に、安部政権崩壊(または2007年参議院選)後はどうなのか、といった問いだ。

多分、中国や韓国、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の、官民含めたレベルでの主要な論調は、「日本は右傾化している」といったものだろう。私もその認識には完全に同意する。そして、この「誰がその右傾化を進めているのか」という問いに対する答えとして存在するのは、恐らく、「日本では戦前の軍国主義の残存勢力が、いまだに強いため、かつての戦争被害を民衆が忘れていき、右傾化していっている」というものである。

念のために言っておくと、こうした理解は大筋では正しい。だが、この見解は、「右傾化していない」という認識と同様、多くの疑問に逢着することになる。それでは、民主党はなぜ勝っているのか?首相が靖国参拝しないのはなぜか?改憲の声が、かつてほどには高まっていないのはなぜか?・・・等々。

特に、韓国左派からすれば、今の日本の状況は複雑怪奇に見えるだろう。日本は間違いなく右傾化している。ところが、日本は次の衆議院選で民主党が政権を握りそうだ。ところが、その民主党の対外政策は自民党と大して変わらず、90年代初頭には日本の右傾化の象徴的な政治家であった小沢一郎の影響力が強い。ところが、かつて韓国民主化闘争を支援した『世界』のような日本の「進歩派勢力」は、こぞって民主党を支持している。ところが、日本の「良心派」の代表的知識人たる和田春樹は、右翼の佐藤優と連携している。さっぱりわけがわからないではないか。

こうした複雑怪奇さから、韓国左派の一部からは、「日本は実は、それほど右傾化していないのではないか。むしろ、私たちの方が「ナショナリズム」の過剰だったのではないか」といった「反省」(例えば「韓日、連帯21」。中心人物の一人の朴裕河はむしろ確信犯だが)が出てきているように思う。韓国左派の間の、日本の学術や「進歩派」への過大評価も、そうした「反省」を後押ししているだろう。

それはさておき、「右傾化している」という認識に立っていると思われる人々の諸発言を見ると、右傾化の説明は、以下の二つに集約できると思われる。

一つ目は、日本の「進歩派勢力」が、右派勢力に取り込まれた、という説明である()。多分、中国・韓国・北朝鮮では、民衆レベルでは、こうした認識をするはずである。この認識はそれほど間違っていないと思うのだが、「誰が右傾化を支持しているか」という問いに対しては、十分な答えにはなっていないように思われる。

二つ目は、日本においては、本音では「大東亜戦争」肯定史観を持ち、戦前の軍国主義勢力とも関わりの深いような右派勢力が非常に強大であり、安部政権崩壊後も、福田政権下でも、麻生政権下でも、こうした勢力が基本的に政治・社会を牛耳っている、とする説明である()。この認識は、必ずしも「国益」論に組しない護憲派の人々にも多いように見える。この立場は、上で挙げた②とは矛盾しているのだが、その辺は無頓着に、②のような見解を持ちつつも同時に、こうした認識を持っている護憲派も多いように思う。

この立場からすれば、田母神発言は氷山の一角であり、自衛隊は文民統制の枠組みからの脱却を図っており、クーデターの機会すら狙っていることになる。また、国家権力は、民衆の一挙手一投足をも監視下に置く「監視国家」の実現を目論んでいることになる。そして、「大東亜戦争」を全面的に擁護し、かつ社会的影響力を広範に持つ小林よしのりのような人物は、何を措いても打倒しなければならない人物となる。

ついでに指摘しておくと、<佐藤優現象>は、その支持者を①②④の立場の人々から得ている。一般読者レベルでは①の立場の人々が中心だが、マスコミレベルにおいては、②と④といった矛盾する認識を同時に持っている人間(編集者やジャーナリスト)が中心的な支持者である。



2  日本の右派勢力をどう認識するか 


上のように述べれば、では、お前は誰が日本の右傾化を進めており、支持していると考えるのか、と当然問われよう。それについて述べる前に、④の「日本においては、本音では「大東亜戦争」肯定史観を持ち、戦前の軍国主義勢力とも関わりの深いような右派勢力が非常に強大であり、安部政権崩壊後も、福田政権下でも、麻生政権下でも、こうした勢力が基本的に政治・社会を牛耳っている」という認識についてコメントしておこう。

簡単に言うと、この認識は、日本の右派勢力の評価を誤っているのではないか、と思う。右派勢力の中でも、復古的な人々の力を、ある点では過大評価しており、ある点では過小評価(この点は後述)しているのではないか。

過大評価というのは、以下の点である。④の認識によれば、日本の右派勢力は、日本の「戦後レジームからの脱却」を目指しており、戦前のような権威主義的統治体制を打ち立てようとしていると認識されている。だが、「<佐藤優現象>批判」でも指摘したが、そうした懸念の多くは取り越し苦労ではないか。侵略国家であるアメリカにしてもイスラエルにしても、日本よりもはるかに議会の論戦や市民運動は活発であり、「リベラル」な社会である。「監視国家」やらクーデターは必要ないのである。クーデターに関して言えば、日本の場合、そもそもアメリカがそれを許すはずはないことは自明であろう。

また、右派勢力の中でも、少なくとも今の大都市中流層~上層の人々の中で、小林のように、日本の対米自立と単独核武装、「大東亜戦争」の全面擁護といった思想を本気で信じている人間が、それほど多いとは思えない(ただし、アメリカがコントロールし得る形でならば、将来、日本の核武装は十分起こり得るだろう)。恐らく小林は自覚していると思われるが(注1)、そうした主張の実行は「国益」に合致しているとは必ずしも言えないからである。小林の思想自体は右翼思想としては正統的なものであろうが、正統的であるからこそ、小林は右派論壇(自体が消滅寸前だが)では、表向き敬意を表されつつも敬して遠ざけられているのである。

「国益」論的に言えば、東京裁判の判決を容認し、アメリカの「ポチ」とならざるを得ないと、大都市中流層~上層の保守派の大多数は考えているはずである。彼らは、そこまで「思想」や「理念」に興味を持っていないだろう。これは、別に日本の保守層が賢明だからということではなく、小林が苛立ちながら指摘するように、保守層が「ニヒリズム」にまみれているからである。要するに、右派勢力の中でも、大都市中流層~上層を中心として、戦後体制を基本的に支持する層がかなり強くなってきているのではないか、と思う。

小林は、日米安保を容認しながら「東京裁判史観」をも容認するメディアや人物を、漢字の「左翼」とは区別して、「サヨク」と呼んでいる。この「サヨク」は、東京裁判の判決は容認しつつも、日本の侵略と植民地支配の過去清算の方向には進もうとせず、安保体制は容認しつつも、日本国憲法の精神を称えている、矛盾だらけの存在である。ヌルい、悪しき意味での「戦後民主主義」的価値観そのものだ。

そして、小林からすれば、朝日や毎日はおろか、読売も産経も『文藝春秋』も「サヨク」である。日本の近代の栄光を誇ろうが中国や韓国に対して強硬論を唱えようが対テロ戦争への参戦を呼号しようが、「東京裁判史観」を容認して戦後体制を容認する連中は、結局は「戦後民主主義」の子供なのであるから、「サヨク」なのである。

要するに、右派勢力の中でも、近年では、戦後体制を基本的に容認した上での右派である「サヨク」が、大都市中流層~上層を中心に広がっているのではないか。佐藤優の右派の支持層もその辺だろう。したがって、④のような認識では、小林や田母神のような「大東亜戦争」肯定史観の右派に対抗するために、「サヨク」的な右派と連携する――もちろんこれこそが<佐藤優現象>である――ことになりがちである。



3 「サヨク」または「ウヨク」の思想①――福田和也 


小林のこの、朝日も産経も文春も一緒にする十把一絡げぶりを見て、笑う人もいるだろう。だが、私はこの認識は的確だと思う。私からすれば、十把一絡げにされた「サヨク」は、そのまま「ウヨク」と言うべき存在である。この「サヨク」であり「ウヨク」である人々の信条の最大公約数は、以下の言説に端的に示されている。


「日本国憲法には、戦争から日本人が得た実感がこめられていることも否定できない。

このことは、日本国憲法を批判的にみて、改めるべきだと考えている改憲派の人たちにこそ、真面目に考えてほしいと思う。

僕も、個人的には、今の憲法を変えるべきだと思っている。だからこそ、このことは深刻に受けとめているよ。

もしも憲法を変えるのならば、そこに一定の内実のごときものを与えてきた、戦後日本人の、平和への意志をどのように受けとめるのか、憲法が担ってきた、祈りのごときものを、どのように自分たちで担えるのか、真剣に考えなければならない。」(福田和也『魂の昭和史』小学館文庫、2002年237頁。単行本初版は1997年。強調は引用者、以下同じ)

「経済成長がすすむにつれて、かつて日本社会を悩ませていたいろいろな問題が解決していった。

農村の貧困、労働者の失業、地方と都会の格差、医療、教育の機会不平等、封建的な家庭の抑圧といった、近代日本がずっとかかえてきた課題が少しずつ解消されていく。

これは、戦後日本のたいへんな達成だ。たしかに日本は、国際的に見ればあいまいな位置にいたし、戦前の日本人がもっていたような理想をなくしてしまったけれど、このようにバランスのとれた社会を実現した民族は世界中どこにもない。その点は誇るべきだと思う。」(同書、264頁)


今の『世界』や『金曜日』に載っていても何の違和感もない文章である。戦後日本は、「憲法9条」(の精神の)下で、平和的な経済発展をとげ、誇るべき豊かな社会を築きあげた「平和国家」であるという認識。

こうした認識が虚偽であることを示すには、前にも引用したが、「日本が本格的な軍隊を保有しなくても「平和体制」を維持できた理由は、アメリカの対アジア戦略に組み込まれ、米軍基地の75パーセントを沖縄に駐屯させ、また韓国が日本の戦闘基地あるいは「バンパー」としての役割を引き受けたからである。言い換えれば、周辺諸国が軍事的リスクを負担することによって、戦後「平和体制」が維持できたのである。わかりやすくいえば、韓国の厳しい「徴兵制」は日本の「軍隊に行かなくともいい若者の当たり前の権利」と関連しあっているということである。」(権赫泰「日韓関係と「連帯」の問題」『現代思想』2005年6月)という言葉だけで十分だろう。ついでに言えば、渡辺治らが言う、1960年代以降の日本の、企業社会的統合に基づいた小国主義路線なるものも、韓国の軍事独裁政権成立(1962年)とワンセットであって、それを再評価するのは馬鹿げている。

上の福田の文章で語られている「平和への意志」「祈りのごときもの」は、日本の加害責任には思いが及ばないものであり、安保体制の一角を占めることによって周辺諸国への軍事的脅威となることや、朝鮮戦争・ベトナム戦争等に荷担したこと、周辺の軍事独裁政権を支援してきたことを問い直す姿勢とも無縁のものである。それら抜きでは「戦後日本のたいへんな達成」はありえなかったのだから。

福田は、上のような文章を一方で書きながら、周知のように、右派の代表的な論者であり、以下のような発言までしている。


「べつにオレは、特別にというか本質的な理由で(注・首相の靖国参拝に関して)八月十五日にこだわっているわけではないですけれどね。でも、○ャンコロがいやがって騒ぐから、大事なわけだ、政治的に。/いずれにせよ、何日にであろうと、日本の総理大臣が、靖国神社に行けば、チャンさんは騒ぐんだから。」(『俺の大東亜代理戦争』ハルキ文庫、2006年8月、65頁。単行本初版は2005年9月)

「この間、サッカーのアジアカップで、日本チームに失礼なことをしたチ○ンコロがだいぶ沸いたけれど、あれも、結局は政府に踊らされているわけだ。」(同書、69頁)


こうした文章は、上のような「サヨク」的認識と「二枚舌」なのではないと思う。共存可能なものなのである。



4 「サヨク」または「ウヨク」の思想②――山口二郎


「ウヨク」の福田に登場してもらったので、今度は、「サヨク」の山口二郎に登場してもらおう。

山口は、ある講演(山口二郎「岐路に立つ戦後日本」山口編『政治を語る言葉、2008年7月、七つ森書館)の中で、60年安保以降、本格的な「戦後レジーム」が完成したのであり、その「戦後レジーム」は、「内における経済的な繁栄と平等、外におけるそれなりの平和国家路線、この二つの柱をもっていた」と述べている。その上で山口は、この「戦後レジーム」を継承すべきであると主張し、「平和国家路線における解釈改憲は護憲である」としている。

そして、この講演の中で山口は、以下のようにも述べている。


「戦後日本は基本的には、平和と豊かさを達成し、かなり平等な社会を築いたという意味では成功したという評価があるわけです。そのなかでもちろん、そのような平和や豊かさは日本人だけで、そこからはじかれたマイノリティー、少数派がいたという問題があります。」(同書、58頁)                 

あまり物事がわかっていない人からすれば、この発言は、「良心的」に見えるだろう(山口も、自分でそう思っていると思う)。現に、同書には別の講演者として辛淑玉が登場しており、辛は司会の山口にエールを送っている(注2)

だがこれは、誇張抜きに、恐るべき発言である。その意味が分からなければ、例えば、山口とは反対に、「日本社会には「在日」に対する差別なんてない」と言い張るネット右翼の例を考えてみればよい。こうしたネット右翼にとっては、日本社会の健全さを示す上で、在日朝鮮人に対する差別が存在している、ということであってはならないのである。その意味では、このネット右翼の場合、在日朝鮮人は、それなりの大きさがあるものとして捉えられているのであって、在日朝鮮人の処遇が、日本社会全体への評価を左右し得るものと見なされている

ところが、山口の場合は、このネット右翼とは逆で、日本社会の健全さを示す上で在日朝鮮人への差別があるかないかは関係ないのである。つまり、山口においては、上のネット右翼とは異なり、在日朝鮮人の存在の大きさが極小化されているのだ。在日朝鮮人の処遇は、日本社会全体への評価とは基本的に無関係なのである。

山口は、「マイノリティー、少数派」について言及するだけマシではないか、という人もいるだろう。マシではないのである。例えば、ネット右翼ではない保守派が、戦後社会を肯定する際に、在日朝鮮人に言及しないということは大いにあり得るだろう。だがそれは大抵の場合、在日朝鮮人の処遇が、戦後社会の肯定という目的にとって都合が悪いからこそ、言及されないのである。山口の場合、都合が悪いという認識すら欠けているのである。それだけ、在日朝鮮人の存在の大きさが、山口にとっては極端に小さいのだ。だから、山口が、朝鮮総連弾圧の扇動者である佐藤優と極めて密接な関係にあるのは、不思議なことではないのである。

「ウヨク」の福田と「サヨク」の山口は、「平和」と「平等」の戦後社会を肯定しながら、同時に、排外主義とも親和的なのである。



5  「戦後社会」の擁護


もうお分かりだと思うが、私が、日本の右傾化を支持している中心的な層として考えているのは、こうした、戦後日本社会を「平和国家」および「平等社会」としての一つの達成として擁護する、「ウヨク」または「サヨク」である(従来型の右派勢力を軽視しているわけではない。これについては後述する)。特にマスコミ関係者はほとんど全員これだ、と私は思っている。もちろん、日本政府は一貫してこの立場であり、外務省官僚たる佐藤優も、このラインからは基本的に外れていない。自らが「ソーシャルなウヨク」であることを否定しないであろう、厚生労働省官僚の濱口桂一郎が、『世界』その他の左派系メディアで活躍したり「連合」と関係を持っていたりすることも、なかなか示唆的である。

こうした戦後社会を擁護する「ウヨク」または「サヨク」の支持を中心とした右傾化は、特に安部政権崩壊以後、顕著になっていると思う。

安部政権は、周知のように、「戦後レジームからの脱却」を唱えた。こうした安部の主張や、「小泉・安部政権の新自由主義」に対して、左派は、「戦後社会の肯定」という形で対抗した(これが<佐藤優現象>の基盤である)。そこにおいては、そうした大義名分の影で、「戦後社会」を肯定したいという欲望がだだ漏れしている、ということは、既に指摘した。大雑把に言えば、左派において対抗戦略上、「戦後社会」の肯定が解禁されたことで、「戦後社会」の肯定に歯止めがかからなくなり、そうした「戦後社会」の肯定は、左派のイデオロギーの「国益」論的再編に当然ながら帰結した、と私は思う。

また、右派においては、安部政権を支持しなければならない手前、従来は「戦後レジーム」に否定的だった論者の一部が、安部政権の「現実主義」外交を支持せざるを得なくなり、「戦後レジーム」に取り込まれてしまったのだと思う。これが、小林を、右派知識人たちの変節として激怒させた事態である。「戦後レジームからの脱却」という虚像の下で、左派と右派のかなりの部分と、「現実主義」外交を進めざるを得なかった当の安部政権が、「戦後レジーム」に取り込まれたのである。

こうした流れは、安部政権とのカラーの違いを出さざるを得ない福田政権下で、さらに進んだと思う。安部政権下あたりから大手紙でも取り上げられるようになった「格差社会論」も、「戦後社会」の擁護に帰結したから、こうした動きをますます強めただろう。

念のために言うが、大多数の左派にも右派にも、少し前までは、戦後社会の肯定はそれほど大っぴらに語られるものではなかったのである。ところが、反対者だった人々が、わずかの期間で、推進者に変わったのだ。要するに、左右の大多数の知識人やマスコミ人は、「戦後」への批判すなわち、押し付け憲法論も沖縄への米軍基地の集中への批判も被害者中心主義史観批判も東京裁判史観批判もアメリカナイゼーション批判も消費社会文化批判も、本気では信じていなかったのである。安部政権以降の言説および政治状況は、左右の知識人やマスコミ人を、戦後批判(というタテマエ)の呪縛から解放した、と言えると思う。

この「戦後レジームの擁護」という枠組みは、左右のかつての反対者すらその擁護者として組み込んでいる。自民党も民主党も、この「戦後レジームの擁護」の枠組みの下でしか物を語れなくなっているはずである。自民党は、「戦後社会」の政権政党としての実績を売り物にして、民主党の統治能力が欠如していると叩いており、民主党は、自民党政治が「戦後社会」の安定性を崩したと批判しているのである。この枠組みにおいては、「改憲」か「護憲」かは、大した問題ではないのだ。「ウヨク」も「サヨク」も、「日本国憲法の精神」を尊重し、「平和国家」として日本を位置づけるという点では一致しており、「豊かな社会」(国民の間での「平等」性を担保し得る富を持った社会)を維持していくためには、対テロ戦争への協力は不可欠という認識でも本音では一致しているのだから。

現在の日本の右傾化の基盤は、こうした「戦後レジーム」または「戦後社会」の擁護という認識によって支えられている。もちろんこれは、一つの開き直りであり、かつて左右が「生活保守主義」とか「「金、物欲、私益」優先主義」とか、さんざん批判した大衆像そのものである。実際にはそうではないと思うのだが、「ウヨク」または「サヨク」は、大衆は「戦後社会」を丸ごと肯定していると決め付けている(吉本隆明のようだ)から、自分たちは大衆的基盤に依拠するようになった、と自信を持っていることだろう。だからこれは1930年代の日本の左翼知識人たちの「転向」過程と似ているのである。



6 左派が右派勢力を封じ込める?①――山口二郎


厄介かつ重要なことは、この「戦後レジームの擁護」という価値観においては、自分たちが右傾化の推進者であるなどとは、恐らく誰も露ほども考えていない、ということである。「ウヨク」や「サヨク」は自分たちは「平和国家」の担い手だと考えているだろうし、右派勢力の中のより右の層は、自らが勢力後退しているとして切歯扼腕しているだろう。そして、特に左派である「サヨク」は、自分たちこそが、小林や田母神のような右派勢力と戦って日本の右傾化を阻止しているのだ、とすら考えているだろう。

ただし、こうした「ウヨク」または「サヨク」は、「大東亜戦争」を擁護するような右派勢力を切り捨てるわけではない。むしろ、左派は、そうした右派勢力を封じ込めるという名目で、それを部分的に取り込む、あるいは妥協することを志向する

例えば、山口二郎は前述の本(山口二郎編『政治を語る言葉、2008年7月、七つ森書館)で、以下のように述べている。加藤典洋の『敗戦後論』の劣化コピー(原本自体がまがいものだが)であり、長い引用で恐縮だが、少し丁寧に見てみよう。


A 「日本は戦争責任について十分な総括ができていないという話は、何十年も繰り返されてきた。小泉純一郎が首相のときには、靖国神社に参拝し、大きな外交問題にもなった。日本は常に正しいと主張する観念的な右翼は論外としても、普通の人々の間にも首相の靖国参拝を支持する声が結構あることを、私たちは直視しなければならないと思う。

もちろん私は、戦後啓蒙知識人の末端に連なるという自己規定をもって今まで政治学を研究し、発言してきた。しかし、戦後啓蒙の社会科学者は、戦後日本の来歴、成り立ちについて、普通の人々にわかるような言葉と論理構成で、説明できていなかったのではないかという不満がわだかまっているのである。

私のとらえ方を単純な図式にすれば、次のようになる。

1 満州事変以後のアジア太平洋戦争は、他国との関係においては日本の侵略であり、誤った戦争であった。

2 戦争に敗北し、戦前の国家体制が瓦解したことによって、民主主義体制が生まれた。その意味で、戦後民主主義は戦争の犠牲者のうえに成立している。

3 戦後民主主義を守り、育て、国民自身が国の運営の主人公となり、再び誤った路線に進まないようにすることこそ、戦争犠牲者に報いる道である。

このような枠組みは、きわめて常識的なものであり、少なくとも認識のうえでは、多くの人々と共有可能であると私は考えている。しかし、とくに2の論点については、認識だけではなく、犠牲者の死をいかに意味づけ、弔うかという感情の問題が入ってくることは避けられない。この点について、敗戦を解放と言祝ぐ側にも、犠牲者に対する一定の敬意や悲しみの共有が必要だと思う。」(32頁)


B 「敗戦を祝福する、敗戦を肯定的に受け入れることと、戦争によって犠牲になった人々を悼むことをどのように聞連づけるかは、なかなか難しい作業です。家族、親しい人を戦争で失った人たちは、侵略戦争に加担して犠牲になったとは思いたくない。もっと崇高な意味づけをしたいという欲求をもつ。それはそれで自然なことなんだろうと思います。この戦争による犠牲者をどのように悼むかという作業を、戦後民主主義を擁護する側が必ずしも十分的確に行ってこなかったという不満が、私にはあります。靖国神社とはもっと違った形で、多くの日本人がこぞって、違和感なく、死者を悼む機会、場所があれば、戦後日本の政治はもっと違った展開になったかもしれないという思いがあるわけです。」(49頁)


山口は何を言おうとしているのだろうか。

まず注目すべきは、Aにおいて、なぜこんなに山口は慎重なもの言いをしているのか、ということである。なにゆえに、「戦後啓蒙知識人の末端に連なるという自己規定」、「きわめて常識的なもの」といった、自己防御の言葉をはりめぐらせているのか。

Aの1~3を見て気づくのは、山口は、1で、「侵略」と明言しておきながら(ただし、朝鮮・台湾の植民地支配、「満州事変」以前の中国への軍事侵攻は視野に入っていない)、「侵略」を意識しているようには思えない点である。「侵略」ならば、被害者としてまず考慮されるべきは、中国で殺された中国人たちである。だが、山口がここで挙げている「戦争犠牲者」は、文脈上明らかに、中国人ではなく日本人(兵士)である。

山口は恐らく、だいたいこういうことを言いたいのだと思われる。首相の靖国参拝を支持する人々を取り込まないと、左派(「サヨク」)は勝てない。だから、日本人の「戦争犠牲者」(兵士)に対して、犬死ではなく、何らかの「崇高な意味づけ」が必要だ。「東亜解放」のために死んだとも言えないから、「戦後日本」の繁栄のために彼らは死んだ、ということにしよう。そのためには、15年戦争については、対外的には「国益」上、仕方がないとしても、少なくとも日本国内では侵略戦争だと見なすのはやめよう。加害の事実を強調(指摘)するのはやめて、(兵士であったとしても)被害者であることの悲劇性を強調すべきだ、と。

そのことを示唆するのは、Aの1における「他国との関係においては」なる意味不明な一節である。Aの1で、山口は恐らく、「他国との関係においては」侵略戦争だと見なされても仕方がないが、日本国内においては、そう見なすべきではない、と言いたいのではないか。ABの引用文全体から考えれば、そう解釈するのが妥当だと思う。

かくして、山口は以下のように述べる。


C 「彼(注・中野重治)は左翼の人ではありましたが、日本は侵略戦争で悪いことをしたから、負けて当然なんだという薄っぺらな歴史観をもっていたわけではないんですね。戦争で倒れた、戦争で苦しんだ普通の人々に対して限りない共感と愛着を持っていた、戦争で倒れた人々とともに戦後民主主義を何とかつくりだしていこう、庶民の感覚に根を下ろした民主主義をつくりだしたいという問題意識を彼はもっていたと、私は理解しています。」(50頁。強調は引用者)


私はこの一節を読んで、驚いてしまった。「日本は侵略戦争で悪いことをしたから、負けて当然なんだ」という認識は、「薄っぺらな歴史観」なんだそうだ。なぜ山口が「左派」ということになっているのだろう?まあ「サヨク」だから仕方がないが。

それはさておき、山口はBで、「敗戦を祝福する、敗戦を肯定的に受け入れることと、戦争によって犠牲になった人々を悼むことをどのように聞連づけるかは、なかなか難しい作業」だとしているが、このCにおいては、山口自らが、「敗戦を祝福する、敗戦を肯定的に受け入れること」を拒否しているわけである。

ここまで見れば、山口がAで、何に警戒していたかが分かるだろう。日本人が、15年戦争を日本の侵略戦争と見なし、日本に侵略されたアジア諸国の民衆と同じように、日本の「敗戦を祝福する、敗戦を肯定的に受け入れること」、そのような歴史観をこそ、山口は警戒しているのである。なぜならば、山口が15年戦争について定見を持っていないというのもあろうが、そのような歴史観があれば、日本の左派が右派勢力と妥協することができないからだ。



7 左派が右派勢力を封じ込める?②――和田春樹


左派による右派勢力の封じ込め、または妥協のもう一例として、和田春樹のケースを取り上げよう。

和田春樹は、周知のように、「国民基金」の主導者であるが、これがこうした妥協策の典型であることは詳述するまでもあるまい(本人も認めている)。ここではもう一つ、和田と佐藤優との提携について考えたい。

和田と佐藤の提携については、既に何度も書いてきたが、これほど珍妙な組み合わせも珍しいだろう。和田と佐藤は、日本政府の対北朝鮮外交や朝鮮総連への処遇についてほとんど180度逆のことを言ってきたのであるから。

この提携の理由はいろいろあろうが(注3)、最も大きな点は、まさに両者が180度逆のことを言っているからだと思われる。

佐藤は、下の文章で、和田と、特定失踪者問題調査会代表の荒木和博を持ち上げている。
http://www.business-i.jp/news/sato-page/rasputin/200806110006o.nwc

荒木は、拉致被害者救出のためには、自衛隊の出動が必要であると主張している人物であり、拉致被害者救出運動の中では最右派の立場にあると言ってよいだろう。
http://araki.way-nifty.com/araki/2008/02/post_989d.html

検索すればいろいろ出てくるが、佐藤は、この荒木と交流している。荒木のような極右とつきあう佐藤と、「良心的知識人」の和田が付き合うのはやはり奇妙に見えるだろう。では、なぜ付き合うのか?その鍵となるのが、下の佐藤の文章であると思われる。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/diplomacy/236475/

ここで佐藤は、今年3月の北朝鮮のロケット発射に対して、以下のように述べている。


「「平壌宣言」を無視するというのは、北朝鮮が日本国家と日本国民をナメているということだ。こういう状況で、自民党、民主党は国家的見地から団結して、毅然(きぜん)たる姿勢で北朝鮮の暴挙を弾劾しなくてはならなのだが、それができていない。

 この機会に「平壌宣言」に反する長距離弾道ミサイルの発射などということをすると、どれだけ面倒になるかということを北朝鮮に教えなくてはならない。」


佐藤の語調は勇ましい。荒木からすれば、佐藤は対北朝鮮強硬論の「同志」に映っているだろう。荒木の場合、「救う会」とのいざこざがあるから、佐藤の人気と、外務省官僚という地位や要人との人脈に頼らざるを得ない構図になっているように思われる。

そして、ここにこそ和田が佐藤と提携する理由がある、と私は思う。事態を和田から眺めてみよう。荒木が佐藤と提携することによって、荒木のような最右派の対北朝鮮強硬論は、外務省のライン、すなわち、和田が支持する平壌宣言のラインに回収される(と和田には映る)ようになるのである。

現に荒木は、上で佐藤が持ち上げている文章(荒木和博「拉致救出活動は政府と一体化すべきではない」『諸君』2008年7月号)の結論部分で、拉致被害者救出には「自衛隊が様々な形で重要な役割を果たすことは必要不可欠であり、すべては政治の決断にかかっている」としながらも、以下のように述べている(強調、下線、斜体は引用者)。


「第一次小泉訪朝以前のように「北朝鮮は拉致をしていない」という勢力が存在していたときと異なり、拉致問題について一定の世論形成ができている現在、拉致被害者を救出すべきという点においては左右を問わず大きな違いはない。強硬に取り返すか、あるいは話し合いで、国交正常化を通じて取り返すかだけの違いである。今「拉致はなかった」とか「拉致被害者は北朝鮮で死んでいくべきだ」などという人間はいないのであって、本音はともかく基本的には方法論の違いの範囲であると言える。
 
 したがって、現在望ましいのは運動の無理な一体化ではなく、多様性をフルに活かすことである。中央集権的な指示によるのではなく、最終的な方向に向かってそれぞれが活動しながら、可能な範囲で横の連携をとり、必要であれば共同行動を呼びかけていくことが望ましい。小泉訪朝のときも、一方に拉致を許さないという世論があり、もう一方で国交正常化を目指した小泉総理・福田官房長官・田中均アジア大洋州局長のラインがあったから結果的にではあるが北朝鮮を欺き拉致を認めさせ五人を取り返すことができた。

 もちろん前述した「宣告」など許せない面は様々あるのだが、国交正常化への動きがなければ北朝鮮は今も拉致を認めていなかったかもしれない。国民が拉致問題の本質をより理解し、その解決が自らの安全を守ることだと認識していればできるだけ様々な方法でアプローチすることにより画一的、硬直化した北朝鮮の体制にくさびを打ち込み拉致被害者救出を実現することができるはずだ。今は自由主義社会の優位性を徹底的に活用するときである。私自身それに向かって行動していくつもりだ。」


この引用箇所の太字部分は、一目瞭然であろうが、荒木が平壌宣言のラインに立ったこと(少なくともそれを容認していること)を示している。興味深いのは、こうした言明と同時に、「本音はともかく」「結果的にではあるが」「かもしれない」などと、留保的な表現も発せられていることである(下線+斜体の部分)。もっと言うと、この下線+斜体の部分こそが、太字部分で示されている平壌宣言のラインの容認の表明が、荒木にとって大きな決断であったことを示しているのである。

和田からすれば、これによって、自身の悲願の日朝国交正常化における、最大の足かせの一つである、「右バネ」のうちの大きな部分を回収できた、ということになるだろう。この「右バネ」の影響力の大きさについては、佐藤が証言している。


「日本の外務官僚には「右バネ」に対する過剰な恐れがある。右翼的潮流に迎合するか、逃げ回るかのいずれかである。外務官僚に右翼の人々と誠実に話をするという腹が欠けているからだ。外務官僚が表面上、勇ましいことを言っているときは、右翼対策であることが多い。 」
http://www.business-i.jp/news/sato-page/rasputin/200809240009o.nwc


私から見れば、「ロシアのスパイ」などと糾弾されてきた佐藤こそが「右翼対策」として、右翼になっているように見えるのだが(もちろんそれが「本気」か「演技」か、「ネタ」か「ベタ」かはどうでもよい)、それはさておき、和田からすれば、佐藤は、右翼に送られたトロイの木馬と映っているのではないか。多分、佐藤も和田にそう思わせているのだと思う。

だが、事態を今度は荒木から眺めてみよう。

和田が佐藤と付き合っているということは、和田は、対北朝鮮外交に関しては、外務省のラインを支持するということである。佐藤は外務省のラインから基本的に出ていないから。そして、和田は、「共同提言 対北政策の転換を」(『世界』2008年7月号。ほぼ間違いなく、中心的な執筆者は和田であろう)において、拉致被害者への「補償」の必要性を謳う一方で、植民地支配の被害者へは、「個別的措置」の実施が必要だと述べている。「個人補償」ではないのである。

だから、荒木からすれば、上記の引用箇所でも示唆されているが、和田ら左派は、佐藤との付き合いを通じて、日朝交渉に関して、恐らく荒木らにとっては最大の懸念事項の植民地支配の清算の問題は曖昧にし、「拉致問題」を最重要課題とするようになった、と映っているだろう(佐藤の影響は多分ないが、この共同提言の性格は、このようなものである)。<佐藤優現象>という右傾化現象に慣らされることで、「左翼」が「反日」を捨てて「サヨク」になったのだ、と。

荒木からすれば、これは大きな勝利であろう。それは、植民地支配に起因する、北朝鮮へのなけなしの日本世論の躊躇を弱めることを意味するから、拉致被害者救出の主張を日本政府がより強硬に北朝鮮政府にぶつけられるようになること、将来の軍事介入へのハードルを下げること(言うまでもないが、国交正常化したとしても、軍事介入は起こりうる)を、荒木にとっては意味するだろうからである。

したがって、荒木からすれば、佐藤は、左派に送られたトロイの木馬と映っていると思われる。佐藤は、右翼の集会では、「右が左を包み込む」と言っているらしいので、似たようなことは、荒木にも言っているだろう。



8 戦後日本国家の二つの性格


では、結局、ここでの勝者は誰なのか?和田か荒木か?和田・佐藤か荒木・佐藤か?和田・佐藤・荒木か?

少なくとも一つだけ言えるのは、佐藤が負けていないということである。逆に言うと、外務省=日本政府の意志は貫徹されているのである(念のために言っておくが、私は佐藤が日本政府の意を受けているなどと言っているのではない。外務省の見解を保持している人物の行動が、このように機能している、と言っているのである)。

和田は、荒木のような極右を包含したつもりになっていると思われる。和田からすれば、外務省は、「平和国家」日本だ。だから、和田と外務省の「平和国家」連合軍は、極右を封じ込め、毒抜きしたことになるわけである。だが、外務省=「平和国家」日本は、同時に、大日本帝国と何ら断絶しておらず、植民地支配の法的責任、戦後補償を一貫して否定している国家である。したがって、客観的に見れば、和田こそが、荒木と外務省の右派勢力連合によって包含された、とも言えるわけである。もちろんこうした事態は、和田だけではなく、民主党の応援団の山口二郎をはじめ、その他の左派知識人にも当てはまる。

植民地支配に関する日本国家の公式見解は、反省する必要があるが、反省する必要はない、というものである。文言上は「お詫び」するが、法的責任は負わない、補償は行わない、という立場なのだから。右派勢力の中の復古的な人々と同様の見解もまた、日本国家の公式の一つの顔なのである。

日本国家は、「平和国家」という顔と、過去清算抜きの大日本帝国の継承者たる顔という、二つの性格を持っている。この二つは矛盾せず、共存している(注4)。この二つの性格があるからこそ、「平和国家」という表象を伴った右傾化が進行するのである。

この辺はややこしいのだが、本論の中では核心的な点である。「平和国家」という顔と、「過去清算抜きの大日本帝国の継承者」という顔は対立するものではないというのは、もっと言えば、前者は、日本国家が後者のような性格を持つからこそ生じている表象だ、ということである。戦後の日本国家が、後者のような性格を払拭し得ていたならば、前者のような欺瞞的な「平和国家」という表象は現れなかったはずである。

比喩的に言えば、和田らは、戦後日本国家の顔について、右側を右翼で、左側を「憲法9条」で覆わせて、全体を指して「平和国家」の顔だ、と言っているわけであるが、これに対して、「平和国家」とまでは言わなくても、顔の右側を右翼で、左側を「平和国家」的性格(自衛隊は海外で人を殺していない、というような主張。山口二郎や和田や『金曜日』や「マガジン9条」までは行かない、護憲派のかなりの部分はこちらである)で覆わせる、というのも図式としては同じだ。もちろん、後者の方がまだマシではあるが、図式としては同じだから、これでは戦後日本を「平和国家」だと描く表象には対抗できないだろう。

こうした理解と異なり、日本の周辺アジア諸国の民衆からすれば、戦後日本国家の顔は、右翼が「平和国家」という小さいお面をかぶっているように見えるだろう(注5)戦後日本国家の二つの性格は、左右の関係ではなく、上下の関係である。「平和国家」という仮面で覆い尽くせない箇所が、復古的な右翼勢力として表象されている、ということである。

この件は、「国民基金」について考えれば、より分かりやすいかもしれない。「国民基金」については後述するが、韓国の民衆や挺対協が「国民基金」を拒絶した(している)のは、戦後日本国家の二つの性格を、上下の関係から捉えており、「国民基金」は単なる仮面に過ぎないと認識していたからである。それに対して、和田ら「国民基金」の推進者は、「国民基金」を、右の右翼と左の良心的な市民(和田ら)から成り立つ、戦後日本国家の「良心」を示す顔として表象していた(している)のである。

中国や韓国の民衆からの日本批判が、日本のリベラル・左派においても「反日」として表象されるようになっているのも、本質的にはこのズレに基因していると思う。首相の靖国参拝や、右翼的な歴史教科書の文科省による認可等は、中韓からすれば、戦後日本国家の、右翼的な顔という本質が顕現したものとして映っているだろう。もちろんこの含意は、日本国民に対して、右翼が仮面をつけているような構図そのものに対して批判的であること、構図そのものを変えることを呼びかける、ということである。

ところが、和田らからすれば、首相の靖国参拝や、右翼的な歴史教科書の文科省による認可といった事態は、戦後日本国家の左右の顔のあくまでも片方しか意味するものではなく、たとえ劣勢であったとしても、もう片方には(自分たちのような)「進歩的」もしくは「良心的」な勢力がいるわけなのだから、中韓による批判は一面的であって、日本国家を正しく認識していない、ということになるだろう。

したがって、和田らからすれば、戦後日本国家の二つの性格を上下の関係性として捉え、その構図自体を批判するあり方は、「日本」を丸ごと否定する「反日」として表象されることになる。そして、「反日」なのは、彼ら・彼女らの過剰な「ナショナリズム」、「民族主義」のせいだ、ということになる。もっと言えば、和田らのような「進歩的」ということになっているリベラル・左派が、中韓の主張を「反日」であると批判することによって、世論一般は、中韓の主張をまともに受けとめなくてよい(せいぜい「国益」論的に考慮するというレベルで)、と切り捨てることができるようになる。



9 戦後補償運動の日本国家への回収――「国民基金」を例として


戦後日本国家の二つの顔を上下の関係性として捉え、その構図自体を批判するあり方に対して、和田らは、「反日」だけではなく、「分裂」主義という名の下でも、切り捨てることを行なう。

和田らは、日本の「右翼」の力の大きさを強調して、自分たちへの左からの批判を「分裂」主義として非難するのである。これは、「<佐藤優現象>批判」でも指摘した、「人民戦線」の意義を強調して佐藤を重用することを正当化することにも似ている。

以下の和田の発言を見てみよう。

「日本で植民地支配への反省と謝罪の公式声明を求めて運動してきた人々のなかに、この基金構想(注・アジア女性基金構想)をめぐっても分裂が生じた。私は政府から求められて基金の呼びかけ人となった。私がその求めに応じた最大の動機は、国会決議(注・戦後五十周年国会決議)をめぐる右翼の結集の強さに心底脅威を感じたからである。(中略)

重要なことは、この人々(注・国民基金に批判的な人々)は右翼の結束、猛烈な巻き返しということを予想していなかったことである。結局、われわれとこの人々との分裂の結果は、右翼の攻撃を許すことになったと言わざるをえない。」(和田春樹「アジア女性基金問題と知識人の責任」小森陽一・崔元植・朴裕河・金哲編著『東アジア歴史認識論争のメタヒストリー』2008年11月、青弓社、141・143頁。強調は引用者、以下同じ)

「日本のなかの謝罪派の分裂、日韓の対立が日本の右翼の台頭を許した。」(同論文、146頁)

では「右翼」であることを誇っている佐藤優と付き合う和田は何なのか、と突っ込みたくなるが、それはさておき、和田からすれば、中韓による国民基金批判に同調する日本の左派は、利敵行為を働いていた(いる)ことになるわけである。

だが、ここで、アメリカの下院をはじめとする、各国の「慰安婦」決議について考えてみよう。これらの決議に対する日本政府のスタンスは、基本的に、「国民基金」による償い金で解決済みなのだから、決議は受け入れない、というものである。「<佐藤優現象>批判」で指摘したように、佐藤は、この立場を支持するだけではなく、アメリカの議会関係者に国民基金についてロビー活動をしなかったとして外務官僚を非難している(実際には、外務省は執拗にロビー活動をしていた)。

和田が各国の「慰安婦」決議に対して、どのような認識を持っているのかは管見の範囲では分からないが、論理的には、上の日本政府(または佐藤)の認識と同一か、極めて近いものになるはずである。

仮に和田が言うように、「慰安婦」問題に関する日本の市民運動や左派の主張が、中韓の「反日」に対して距離を置き、「分裂」を回避するために、「国民基金」でほぼ統一されていたならば、各国の決議を真摯に受け止め、被害者に対して日本政府の謝罪と補償を要求する運動や主張は、現在の日本では(ただでさえ少ないのに)ほぼ存在しなくなっていただろう。それこそ、「国民」規模で、決議に反発していたに違いない。

「国民基金」についてはいずれまた検討するが、自民党がこれを「成功」と位置づけ、党幹事長(2004年当時)が「非常に評価されるべき」、「これからのいろいろな問題を解決していく上で、非常に説得力のある一つの方式」とまで高く「評価」していることも、示唆的であろう。
http://www.awf.or.jp/pdf/k0005.pdf
http://www.jca.apc.org/ianfu_ketsugi/enruete_fukuoka.pdf

このように、客観的に見れば、和田や「国民基金」の役回りは、「右翼の台頭」の危機を強調することを通じて、日本の過去清算への姿勢を批判していた人々を、中韓や諸外国からの対日批判と切り離し、日本政府の主張のラインに回収することにある。

周辺アジア諸国からの対日批判は、まさに和田らのような人々の貢献によって、「反日」として表象され、無効化されることになる。日本の「普通の国」化、右傾化への抑制力であった(はずの)ものが、その促進力に変わっているのである。

言い換えれば、日本の「普通の国」化、右傾化を抑制するはずであった、戦後日本国家の「過去清算抜きの大日本帝国の継承者たる顔」への批判が、逆に、戦後日本国家が「平和国家」であることを示す一つの証として位置づけられるようになった、ということである。

すなわち、これによって、戦後補償運動や諸言説を、日本国家は、自らへの本質的な批判者ではなく、批判的な擁護者として、回収することができるようになったのである。これは、「国民基金」だけではなく、このところの、「中国や韓国の「反日」とは距離を置くことを強調しないと、自分たちの主張は日本社会では受け入れられない」という、一部の戦後補償運動や言説に見られる傾向にも妥当する。

和田らによる「国民基金」の推進や、その後の振る舞いについて、和田らが転向した、という批判をよく見かける。こうした批判は必要であるが、ただ、そうした人々への倫理的な無責任さを批判するだけでは、あまり有効な批判にはならないと思う。むしろ私は、和田らにとって、そもそも「転向」自体が必要ではなかったのかもしれない、と考えている。和田らは、朝鮮への植民地支配への戦後日本国家の居直りを批判してきた、1980年代から、本質的には変わっていないのかもしれない。「国民基金」をめぐる対立というのは、本質的には、戦後日本国家の二つの顔の位置づけ方に関する相違である、と私は思う。

私は、何らかの右翼勢力の「黒幕」を想定して、それが、「平和国家」という表象や担い手を利用している、と言っているのではない。そうした流れも一定程度あるとは思うが、そうした陰謀論的な説明枠組みは必要ではないし、説明としても不十分である。そうではなくて、戦後日本国家を「平和国家」として位置づける「サヨク」の人々が、主観的には右翼勢力と対抗しているという構図とプロセスにおいて、事態はそのまま「右傾化」と表さざるを得ない形になっているのである。誰かが「右傾化」を画策している、ということは重要な問題ではない。

和田らが転向した、魂を売ったということだけで説明できるのであれば、話は簡単なのである。だが、事態が深刻なのは、和田らが少なくとも部分的には真摯に、主観的には右傾化に対して抵抗しようと努めるからこそ、より右傾化が進むという構図であるからのように思われる。



10 「日本人の誇り」論の変質


「8」で、私は、「日本の周辺アジア諸国の民衆からすれば、戦後日本国家の顔は、右翼が「平和国家」という小さいお面をかぶっているように見えるだろう」と述べたが、私自身の認識としては、「いつか日本は、仮面をはがして、本当の姿を晒すはずだ」と考えているわけではない。そもそもはがす必要自体がないのである。仮面と肉体が癒着して、そもそもそれが仮面であるか肉体であるかわからなくなっている、というのが現状だと思う。例えば、和田の以下の発言は、仮面なのか、肉体なのか。

「(注・日韓の)和解のためには、それぞれのナショナリズムを尊重し、二国間の連帯をつうじて、国際主義的なものを求めていくことが必要だ。相手が自らに誇りを持ちたいと願っているということを相互に尊重しなければならない。そのことは日本人が韓国に反省と謝罪を表明する場合でも必要である。」(和田、前掲論文、146頁。強調は引用者、以下同じ)

和田の論理からすれば、当然、「慰安婦」問題や植民地支配に対しても、日本人が「自らに誇りを持ちたいと願っているということ」が尊重された上で、その「誇り」を傷つけない範囲で、「反省と謝罪」が行われるべきだ、ということになろう。これは、戦後補償問題と日本人の「誇り」についての従来の言説からすれば、極めて奇妙な主張なのである

日本人の「誇り」との関係から戦後補償について語られる際には、日本人が「誇り」を回復するために、戦後補償を日本政府に果たさせなければならない、といったものが一般的だったはずである(こうした立場は、現在では、リベラルからも「反日」として切り捨てられる)。「<佐藤優現象>批判」で引用した安江良介のように、他国の「利益のためではなく、日本の私たちが、進んで過ちを正しみずからに正義を回復する、即ち日本の利益のために」歴史の清算を行おうとする姿勢である。

「日本人としての誇り」、「正義」を回復するために、日本人として、過去清算を行うという立場である。多分、日本で、戦後補償運動に関わったり関心を持っていたりする市民の多くは、こうした認識を持っていた(いる)と思う。

前回も触れたが、和田が転向したかどうかを評価するのは難しい問題なのだが、下記の発言を見れば、少なくとも言説レベルでは一定の立場の移行があることは否定できないだろう。和田は、1989年時点では、安江らとの共著において、以下のように述べているのである。

「植民地を領有してきた国家は、その支配を終えるべく強いられた時には、当然ながら清算の手続きをおこなわなければなりません。植民地支配を植民地支配とみとめ、それによってもたらした苦痛にたいして謝罪し、必要な補償をおこない、反省を未来に生かすことを表明することが必要です。それをなさずにきた、あるいはそれをなしとげずにきた日本人は、道義的に恥ずべきものというべきです。

したがって日本が植民地支配の清算をおこなうのは、なによりも日本人の道義の問題なのです。そして日本が植民地支配の清算をおこなうのは、あくまでも全朝鮮民族にたいして、全朝鮮民族との和解をめざしておこなうのでなければなりません。それがなされれば、韓国の人びととの若いを求めることができるし、北朝鮮政府との公式的な交渉を申し出ることができるはずです。在日朝鮮人・韓国人と日本人の関係を抜本的に変える出発点もできるでしょう。」(和田春樹「植民地支配の清算を」朝鮮政策の改善を求める会『提言・日本の朝鮮政策』岩波ブックレット、1989年3月、19頁)

ここで和田が言う「道義」とは、上で引用した安江が言う、回復すべき「正義」とほぼ同じ意味であろう(注6)。一部のリベラル・左派は、こうした認識を「日本人の立ち上げ」などと批判するが、それは馬鹿げているのであって、周辺アジア諸国の対日批判と連帯できるのは、こうした認識以外にはない。

ところが、現在の和田の主張は、こうした認識とは真っ向から対立している。こうした認識が、おおむね、戦後の日本政府が大日本帝国と何ら断絶しておらず、植民地支配の法的責任、戦後補償を一貫して否定していることを前提としているのに対して、現在の和田の主張は、戦後の日本政府はそうした問題は基本的に解決済みであり、そこから漏れる被害者に対しては、国家責任が前提となる個人補償ではなく、償い金でよい、というものなのだから。

現在の和田においては、日本人としての「誇り」は、回復されるべきものではなく、所与として存在しており、「反省」や「謝罪」はそれを傷つけない範囲でしか行えない、と言っているわけである。そして、その範囲の決定権は当然、日本人が持つことになる。こんな身勝手な主張は、右派勢力と本質的にどう違うというのか。

右派勢力を包含した、あるいは毒抜きしたつもりでいて、左派は逆に、右派勢力に包含されたのだと私は思う。左派のかなりの部分は、「サヨク」または「ウヨク」と化すことで、右派勢力=日本国家に回収されたのである。だからこそ私は「1」で、日本の「進歩派勢力」が右派勢力に取り込まれたという認識(「1」の③)は、それほど間違っていないと言ったのである。



11 右傾化を進めるのは「サヨク」と極右の抗争プロセスである


長くなったが、やっと結論部分である。

日本の右傾化は、「5」でも述べたように、「戦後社会」を擁護する「ウヨク」または「サヨク」が中心的な支持層である。特に、メディア上で流される言説はこれに沿うものである。そして、日本国家もまた、この立場である。だが、そもそも保守派の「ウヨク」は、極右をも含む右派勢力の一部であり、日本国家の二つの性格からも明らかなように、この「ウヨク」的な立場は、復古的な極右とも親和的である。

まとめよう。日本国家は、過去清算抜きの大日本帝国の継承者である。その土台の上で、「ウヨク」または「サヨク」は、「平和国家」日本という仮面を、仮面と意識せずに、掲げているわけである。そしてのこの、「戦後レジーム」、「平和国家」日本を擁護する人々は、極右勢力と距離を置くか対抗しようとする。ところがその極右勢力は、まさに日本国家の土台の価値観と親和的である。ところが日本国家の建前は「平和国家」日本である。

このメビウスの輪のような循環における、「ウヨク」または「サヨク」と極右勢力の抗争のプロセスを通じて、従来はこの土台自体に批判的だった市民派や左派勢力、従来は政治的な問題に無関心だった大衆の一定層が、組み込まれていくことになる。

「ウヨク」または「サヨク」は、極右勢力との対抗という構図により、市民派や左派勢力を組み込むことができ、極右勢力は、マスコミが「サヨク」に占領されていることを強調して、マスコミへの侮蔑と敵意を持っている若年層を取り込むことができる。

また、「ウヨク」または「サヨク」対極右勢力、という構図とはズレるが、「戦後社会」の擁護あるいは(それとは逆の)「戦後の既得権の打破」といった主張は、「ウヨク」または「サヨク」と極右勢力の対抗構図を横断しながら、大衆を政治的領域に巻き込んでいくことになる。

ここで重要なのは、「6」の冒頭でも書いたように、自分たちが右傾化の推進者であるなどとは、恐らく誰も露ほども考えていない、ということである。確かに「ウヨク」または「サヨク」は、日本の右傾化を支持している中心的な層ではある。だが、正確に言えば、彼らが主体的に右傾化を進めているということではない。そうではなくて、この抗争プロセスを通して、従来の批判勢力が却って促進力になり、大衆的な基盤が広がる形で、右傾化は進行するのである。

だから、「日本は右傾化しているのか、しているとすれば誰が進めているのか」という問いに対する答えとしては、「右傾化はしているし、今後ますます進むだろうが、特定の主体が進めているわけではない」ということになるだろう。右傾化が進んでいるのは、特定の主体の意図ではなく、むしろ抗争プロセスを通して、である。抗争が活発化しているがゆえに、従来は外にいた多くの人間を、上記のメビウスの輪のような構造に巻き込むことができ、それぞれからこの構造へのより強い帰属意識・参加意識を調達することができる

そして、周辺諸国からの「日本は右傾化している」という指摘に対しては、「ウヨク」も「サヨク」も極右勢力も、一致団結して、そうした認識は「反日感情」の然らしめるもの、とし、反発を強めることになるだろう。日本社会の建前は「ウヨク」または「サヨク」的であり、「ウヨク」または「サヨク」的な人々が社会の実権を握っているという点については、賛否は別にして、すべての主体は認識が一致しているからである。したがって、日本国内の支配的な認識と、周辺諸国の警戒のズレは、ますます大きくなっていくだろう。

私は「2」で、「日本においては、本音では「大東亜戦争」肯定史観を持ち、戦前の軍国主義勢力とも関わりの深いような右派勢力が非常に強大であり、安部政権崩壊後も、福田政権下でも、麻生政権下でも、こうした勢力が基本的に政治・社会を牛耳っている」という認識(「1」の④)が、右派勢力の中の復古的な人々の力についての過大評価であり過小評価でもある、と述べたが、それは、このような理由である。過大評価である理由は既に述べたが、「サヨク」は「平和国家」たる戦後日本国家を擁護することを通じて、客観的には過去清算抜きの大日本帝国の継承者をも擁護することになり、復古的な人々とも地続きになってしまうのだから、「敵」をあまりにも限定しており、過小評価であった、ともいえる。

静態的に言えば、「戦後社会」の擁護というイデオロギーが中軸に置かれることで、右派勢力が従来の左派の大部分を包含し、社会的基盤を拡大したと言える。したがって、今後、日本の右傾化はよりスムーズに進む、と思われる。



12  「東アジア唯一の平和国家」という表象の下での右傾化


「平和国家」という自己認識を持つ「ウヨク」または「サヨク」たちは、一致して、格差社会の惨状を嘆き、村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチに涙し、北朝鮮の核実験に対して「唯一の被爆国」としての怒りを表明し、在特会のあからさまかつ行き過ぎた言動・行動に眉をひそめる。みんな、いい人たちで、「平和」を愛する人々なのだ。「一党独裁支配」の中国や北朝鮮、ナショナリズムが「過剰」で徴兵制のある韓国、軍事的緊張化に置かれている台湾など、周辺諸国は「平和」とはほど遠い状態だ、それに比べてわが日本は・・・と彼ら・彼女らは、「戦後日本」とこれからの日本に誇りと自信を持っていることだろう。

「11」で示したように、日本国家の右傾化は、こうした、日本が「東アジア唯一の平和国家」だという自己認識を持った人々による、日本国内の極右勢力との抗争プロセスを通じて、意図せざる形で、進むことになる。

東アジアの周辺諸国からすれば、これは、かつての自民党右派政権よりもはるかに厄介である。「中東唯一の民主国家」という自己認識を持ったイスラエルのような国が、イスラエルよりもはるかに強大な軍事力・経済力を持って、東アジアに誕生したことになるのだから。ただ、イスラエルほどは、軍事的要素が社会の前面に出てこないとともに、社会の民主化も進まないだろう。

また、仮に「東アジア共同体」といった形で、韓国や中国など周辺の中大国と集団的安全保障を結んだ場合は、より強い脅威を受ける対象が、周辺諸国ではなく、世界レベルに拡大される、というだけの話である。その場合、「対テロ戦争」がますます徹底的に遂行されることになる。

この右傾化の動きは、民主党政権または大連立政権下で、より強くなっていくだろう。

この状況下では、「護憲」も、日本の侵略責任・戦争責任の観点から捉える視点がない限り(そして、近年の「護憲」論は、ほとんどの場合、そうした視点はないのだが)、上記の抗争プロセスに回収されるだろう。そして、<佐藤優現象>や、「1」でも言及した、安部政権崩壊(または2007年参議院選)後の右傾化においては、まさに、「護憲」論の上記の抗争プロセスへの回収が著しく進んだ、と言ってよいだろう。

もう少し言うと、もはやこの段階においては、「護憲」か「改憲」か自体は本質的な政治的争点ではなくなっている、ということである。もちろん私は、どっちでも同じだから改憲してもいいのではないか、と言っているのでは全くなく、改憲または安全保障基本法の制定が、右傾化の大きな前進であることは言うまでもない。だが、「戦後社会」を肯定する護憲論は、民主党の安全保障基本法には多分ほとんど抵抗できないだろうし、彼ら・彼女らの中では有力な代替案である「平和基本法」も、「<佐藤優現象>批判」で書いたように、論理としては安全保障基本法と大して変わらない。

むしろ、本質的な争点は、過去清算をろくに行なわず、また、当面は行なう見込みのない日本が、「普通の国」として軍事活動を行なうことへの、周辺アジア諸国の民衆からの抗議と警戒の声とどう連帯するか、ということになると思う。要するに、日本の右傾化を規制する実体のある勢力は、当面は外部しかないのであって、その外部とどう連帯するか、ということである。

無論、そうした抗議と警戒の声や、連帯しようという行為は、日本社会においては「反日」だと表象されるだろう。だが、「反日」という非難を意に介さず(もちろん「非難に抗して」でもよいが。念のために書いておくと、以前書いたように、文言としての「反日」を掲げるべき、ということではない)、「10」で言及したような、「正義」を回復するために、または(および)、日本国民の政治的責任を果たすために、過去清算を行うという立場で行かない限り、上記の抗争プロセスに回収されるだけだと思う。そうしたことを主張する人々や運動が、現在ではどれほど微力であっても、本質的な政治的争点はそこにしかない、と思う。



(注1)小林が「満州事変」以後の日本の侵略を擁護するのは、「国益」上やむを得なかった、ということではない。「国益」に反した行動を「アジア解放」の理念のためにわざわざとった当時の日本を擁護しているのである。


(注2)それにしても、今のリベラル・左派ジャーナリズムに登場する在日朝鮮人の言論人は、こんなのばかりである。同書には、佐藤優も講演者として登場しているから、リベラル・左派からすれば、佐藤と辛で「バランス」がとれているわけである。これら在日朝鮮人の言論人連中は、リベラル・左派の「国益」中心主義への変質に気づいているからこそ、その「国益」を享受する層から在日朝鮮人を落とさないでほしいとして、もう少し言うと、リベラル・左派のアリバイ役、たいこもちの役割を果たすという形で、尻尾を振っているわけである。「大東亜戦争」の旗を振った朝鮮人みたいなものだ。

彼ら・彼女らは、日本社会批判の役割を演じつつも、「自分たちの日本社会批判は、外国人によるものではなく、沖縄の人々の日本社会批判と同じように、日本人「同胞」によるものとして受け止めてほしい」と思っているはずである。そこでは日本社会批判が同化の一形式になっている。


(注3)和田からすれば、佐藤が自分を褒めれば「北朝鮮の手先」なるレッテルから脱却できるし、佐藤からすれば、和田が自分を褒めれば左派論壇で登場できるのである。私は、『世界』の岡本厚編集長から佐藤を使う理由の一つは「和田さんも付き合っているから」だと言われたことがある。


(注4)戦後日本国家の二つの性格は、和田においては、以下のような認識において矛盾なく共存しているようである。

「空襲と艦砲射撃のなかで、日本国民は車人たちが国外で進めた戦争の結果がいかに恐るべきものであるかを知った。日本車は無敵であると誇っていたが、銃後の国民の家庭さえ守ることができなかった。日本全土が焼け野原となった。東京でも一夜で八万四千人が死亡した。広島における原子爆弾の投下によっては即死した者を含め五ヵ月以内に約十五万人が死亡した。ここから国民の軍隊不信が生まれた。国民がいかに無知であったにせよ、この軍隊不信の感情は実質的であり、強烈であった。

 このおそるべき状態は八月十五日の天皇の玉音放送によって断ち切られた。米軍の空襲と艦砲射撃のもとで恐怖の日々をすごした国民の間には安堵の感情が広がり、それは天皇に対する一定の感謝の気持ちに進んだ。国民の反軍意識は天皇に対する感謝の意識と結びついた。この意識が戦後日本の平和主義の基礎をなしている。

 天皇はその放送のなかで「朕ハ(略)堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為二太平ヲ開カムト欲ス」と述べたが、降伏文書調印の二日後の九月四日、帝国議会開会にさいして勅語を発し、「朕ハ終戦二伴フ幾多ノ艱苦ヲ克服シ、国体ノ精華ヲ発揮シテ、真義ヲ世界二布キ、平和国家ヲ確立シテ、人類ノ文化二寄与セムコトヲ翼ヒ、日夜軫念措カス」と述べ、「平和国家」という目標を提示した国民は「平和国家」というのは非武装の国家であるという解説に納得した。だから、天皇を国民統合の象徴とした新憲法の第一条を受け入れ、戦争放棄、戦力不保持の第九条を受け入れた。まさに自分たちの気分に合致した憲法であった。」(和田春樹「アジア女性基金問題と知識人の責任」小森陽一・崔元植・朴裕河・金哲編著『東アジア歴史認識論争のメタヒストリー』2008年11月、青弓社、136頁。強調は引用者)

最近一部で話題となっている、和田の天皇訪韓案(和田春樹「韓国併合100年と日本 何をなすべきか」『世界』2009年4月号)も、このような、戦後日本の「平和国家」は天皇制によって支えられている、という認識が前提にあると思われる。


(注5)無論、韓国や中国の知識層には、「東アジア共同体」(「東北アジア共同の家」)を推進するために、「和解」論を唱える人々も多いが、これは、仮面を、仮面であることは認識しながら受け入れる、ということである。多分、朴裕河のように、戦後日本を「平和国家」であると額面通り受け取ろうとする(させる)のは、「和解」を志向する人々の間でも少数派だと思う。


(注6)「国民基金」における「道義的責任」とは、日本政府が「法的責任」を負わないことが前提であるから、和田においては、同じ「道義」という言葉が、少なくとも「国民基金」以降は、180度逆の性格のものに変質しているのである。
  • 2009.08.10 00:00 
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> 論文・エッセイ

金玟煥「日本の軍国主義と脱文脈化された平和の間で――沖縄平和祈念公園を通して見た沖縄戦を巡る記憶間の緊張」 

(※管理人注:「現知事」「前知事」などの表現は、発表時(2005年11月)のもの。)


日本の軍国主義と脱文脈化された平和の間で
    ―― 沖縄平和祈念公園を通して見た沖縄戦を巡る記憶間の緊張


【著者:金玟煥(キム ミンファン)
1972年釜山生まれ。ソウル大学社会学科博士課程修了(文化社会学専攻)。韓国のいくつかの大学で非常勤講師。主要論文に「韓国の国家記念日成立に関する研究」、「誰が、何を、どのように記憶するのか」、 「虐殺と内戦、空間的再現と言説的再現の間隙: 居昌事件追慕公園の空間分析」。】

【初出掲載誌:「2003年度~2006年度科学研究費補助金 基盤研究(A)研究成果報告書 変容する戦後東アジアの時空間――戦後/冷戦後の文化と社会」(研究代表者 中野敏男、2007年6月)】


1. はじめに

 一般的に、造成されてからかなりの時間が経過した記念公園や記念館などは、その存在が十分に認識されることで当初それが造られたときの意見の不一致や葛藤などが想起されることは難しくなる。何を記念するのか、どのように記念するのか、当初に記念しようとした人々が一体誰なのかは単純に「沿革」としてだけ伝えられ、記念公園や記念館などが造られる過程で生じた「政治学」は忘れ去られてしまう。そして、記念公園や記念館などは過去に起こった事件を「あるがままに」描写し伝承するので、後世には過去の事件を客観的に教育するための空間として認識されてしまう。

 しかし過去の事件を純粋に、また客観的に描写する記念公園や記念館などは存在しえない。過去には、記念されるものと忘却されなければならないものの間の「選択と排除」の問題が介入していて、特定の描写方法を「選択する」という問題もまた介在してくる。すなわち、過去に存在した歴史的な事件に対する「解釈」の問題が必然的に介入してくるのである。このような観点を確認した場合、記念公園や記念館について重要なことは、その空間で一体何が記念されているのかということよりも、一体何が記念されていないのかという問題であり、記念されることと記念されないことがどのように結合しているのかという問題である。特定の歴史的な事件がどのような社会的な力学の網の目の中でどのような特定の方法で記念されるのかを把握することは、結局その力学が働いた当時の社会のあり方を把握することでもある。記念公園や記念館を巡る「記憶の政治学」(1)を媒介に特定の社会を理解すること、結局これは最近、記念(commemoration)をめぐる多くの研究が目指しているところでもある(2)

 ここでも基本的にはその目的を実践しようとするものである。これにあたり沖縄と平和祈念館は特別に意味がある素材だと思われる。なぜなら、この平和祈念公園は造成されてから、それ程時間が経っておらず、造られた当時の「記憶の政治学」がそのまま表出する空間であり、その争点も比較的明確で沖縄社会の葛藤の様相をも容易に推測することができるからである。それ故にこの問題を扱った研究も既に多く発表されている(3)。しかし、既存の研究は沖縄平和祈念公園をめぐる「記憶の政治学」の問題を日本と沖縄あるいは日本の中の沖縄という観点から扱うのが主流であるのに対して、ここでは、東アジアというより大きな枠組みの中でこの問題を眺めることは一体どのような意味があるのか、ということを念頭に置いてこの問題に接近する。韓国の研究者が沖縄を研究することが持つ唯一の強みはまさにこの地点にあるからである。これについては本論で本格的には扱わないが結論部分で言及する。


2. 沖縄平和祈念公園の現況

okinawa.png
<図1> 沖縄平和祈念公園の配置図(空間分割は筆者による。「沖縄平和祈念公園公式パンフレット」より)

 沖縄平和祈念公園は沖縄本島の南部、糸満市摩文仁(いとまんしまぶに)に位置している。摩文仁は水面から約100m程度の高さの絶壁であるが、ここで太平洋に向かって広がるその青い海と白い波を眺めると誰もがその美しさに息を呑む。しかしここは沖縄戦当時、沖縄の防御線を担当していた日本軍がアメリカ軍の上陸作戦によって後退しながら最後に行き着いた場所であり、当時総指揮官であった牛島満中将と彼の参謀長が1945年6月23日に切腹し、自決したところでもある。このような歴史的な背景の中で沖縄平和祈念公園が位置しているのである。

 沖縄平和祈念公園は大きく二つの領域で構成されている。一つは国立沖縄戦没者墓苑を中心に日本の各県が、その県の出身者として沖縄戦で戦死した人々を追悼するために建てた慰霊塔が「霊域園路」という路に沿って並んでいる領域である(図1の右側部分、以降<領域1>と呼ぶ)。この路の先端の丘陵の上には自決した牛島とその参謀長を追悼するために建てられた「黎明之塔」が聳え立っている。

 他の領域は沖縄県が造成を主導したところである(図1の左側の部分、以降<領域2>と呼ぶ)。そしてまたこの領域は大きく二つの部分で構成されている。一つは「平和の礎」であり、もう一つは「沖縄県の平和祈念資料館」である。「平和の礎」は戦死した人々の名前が刻まれている刻銘碑である。波模様の黒い花崗岩の碑が弧(arc)を描いていて少しずつ扇状に広がっていく様式である。アメリカのワシントンにあるベトナム戦争の参戦記念碑(the Wall)から着想を得たとされているが(4)、それと異なっている点は、ベトナム戦争の参戦記念碑にはベトナムで犠牲になったアメリカ兵の名前だけが刻まれいるのに対して、平和の礎には沖縄戦で犠牲になったすべての人々の名前が国籍に関係なく、また民間人であるか軍人であるかの別や、戦争加害者と被害者の別なく刻まれているという点である(5)。そして新しい犠牲者が発見されれば、いつでもその名前を刻むことができる空間も用意されていて、毎年ここに名前が追加されている。平和の礎は海岸部分の絶壁の頂上付近に建立され、そこから岸壁に砕ける波を眺めることができるが、その波が穏やかな平和の波になるようにという願いが込められている。またその礎の配置は静かに波立つ姿を表現しているのである(6)

 「沖縄県平和祈念資料館」は、1975年に建てられたこの施設が老朽化するに従ってこれを新しく建て直す必要性が提起され、2001年4月に新しく開館した展示空間である(7)。元の大きさの9倍の規模で増築されたこの平和祈念資料館は平和の礎と向かい合っており平和の礎と関連付けられて建築された。平和の礎が追想の場所であり平和の象徴として機能しているならば、祈念資料館は戦争の非合理性と野蛮性が展示され、学びの場所として機能しているのである(8)

 これ以外にも平和祈念公園には「沖縄平和祈念堂」や「韓国人慰霊塔」も存在する。これらは平和祈念公園全体から見れば<領域1>と<領域2>の両側からそれぞれ一定の距離で引き離されている印象を与える(9)

 平和祈念堂は1978年10月に開館した12mの高さの塔様式の建築物であり、内部には美術館があり、平和祈念塔の理念に賛同した日本の美術家たちの作品が展示されている(10)

 韓国人慰霊塔は1975年9月3日に建てられたが、「韓国人慰霊塔」という碑銘は朴正熙が書き、碑文は李殷相が書いたことになっている(11)。この慰霊塔が沖縄平和公園内に存在する他の多くの慰霊塔とどのような関係にあるのか、またその位置にはどのような意味があるのかはまだ十分に明らかにされていない。しかし、Figalはこの慰霊塔の碑文で強調されている(日本軍による)「虐殺」という言葉が「霊域園路」に沿って存在する、各県が建てた慰霊塔の碑文の内容(日本軍戦死者に対する賛美)と葛藤を引き起こす可能性に注目している(12)。また長らく広島平和公園の外部に存在するしかなかった広島原爆被害の韓国人犠牲者の追悼碑の事例と関連して、この慰霊塔の位置が持つ意味を説明している。すなわち、<領域1>の空間は日本人だけの空間であり、韓国人という異質的な存在は<領域1>の外部に存在するしかないということである。しかしこの解釈は推測の域を出ておらず、今後より詳細な検討が要求される。


3. 沖縄平和祈念公園が内包している沖縄戦の記憶の緊張

 これまで沖縄平和祈念公園が空間的にどのように構成されているのかを見てきた。大雑把に見るだけでも沖縄平和祈念公園は異質的な二つの領域が互いに対立しているという事実を確認することができる。明確に区分されるこの二つの領域が各々意味するところは何であろうか。あるいはこれに付与される意味は何であろうか。この問題は沖縄戦をどのように記憶するのかという問題と直接関連している。

 沖縄戦は1945年3月26日のアメリカ軍の慶良間諸島の攻略に始まり、4月1日沖縄本島の上陸、そして6月23日の第32軍牛島司令官の自決で終決した(13)。この戦闘でアメリカ軍は上陸軍18万人余りを投入したが、日本軍の守備隊は7万7千人程度であったという(14)。3ヵ月間の戦闘で日本は敗北を喫することになるが、本来この戦闘は日本に勝算がない戦闘であったと見るのが一般的である。すなわち沖縄は日本本島を守るための防波堤に過ぎなかったのである。アメリカ軍を沖縄に一日でも長く足留めすることが作戦上の最優先事項であり、このために沖縄住民が強制的に戦場に動員された。この過程で日本語ができない沖縄住民はアメリカ軍のスパイと看做され射殺される事態も発生し、日本軍による集団虐殺も頻繁に行われた(15)。また「強制的集団自殺」(16)によって多数の住民が死亡した。沖縄戦と関連した死亡者数は24万人を超えると推定されている。この犠牲者をどのように記憶するのかという問題に対して、相違する回答が沖縄平和祈念公園内に存在するこの二つの領域なのである。

Ⅰ. 日本の軍国主義の緊張

 沖縄平和公園内の<領域1>は明らかに靖国神社と同じ役割を果たしている空間である(17)。ここは基本的に日本人のための空間であり、その中でも日本のために命をささげた「皇軍」のためだけの空間である。これを最もよく現しているのは慰霊塔が存在する方法である。<領域1>の慰霊塔の中では直接的に特定の部隊員のための慰霊塔が多数存在する。主に生き残った「戦友」たちによって建てられたこの慰霊塔は同僚の死を日本的な文脈の中で記憶しようとする意志の現れである。そして前述したように日本の各県がその県の出身者たちの中から沖縄で戦死した人々を追悼する慰霊塔を<領域1>で建てた。沖縄までやって来て戦死した他県出身者の民間人はどれ程いるのだろうか。従ってこの慰霊塔は全面的に当時の日本軍人のための慰霊塔であると認識するべきだ。この慰霊塔の碑文を内容別に調査したある報告書によれば(18)、この記念塔の碑文は大抵「戦争や戦死者たちを肯定賛美して美化」したり、「愛国憂国の心情」を表現する内容を含んでいるという。牛島司令官と彼の参謀長の自決を愛国心と軍人精神の真正な発露として賛美する「黎明の塔」が<領域1>の頂上に聳えていることも同じ文脈で捉えることができる。これと同様に<領域1>は沖縄戦を「祖国守護戦争」という文脈で記憶すべきだとする軍国主義の観点が貫徹される場所として日本軍による被害者たちは徹底して隠蔽されているのである。当然日本軍によって直接間接的に被害を被った人々の視点で見るならば居た堪れない場所でしかあり得ない。

 <領域1>の観点に対抗しているのが<領域2>である。<領域1>の空間が戦争を賞賛する日本の軍国主義に屈することだと批判した大田昌秀(19) 前沖縄県知事は平和公園内の他のどの記念碑とも異なる形式の記念碑を建てることを宣言したが、それがまさに1995年の沖縄戦闘終了50年記念日に合わせて建立された平和の礎である。前述のようにここは日本のために死んだ軍人の他にも、沖縄戦で戦死したアメリカ軍、沖縄の民間人、韓国人、台湾人などすべての犠牲者を追悼する空間として企画されたものである。<領域1>では認識されていなかった人々を可視化しているという点で<領域2>の平和の礎は意味を持つ。

 <領域2>の沖縄平和祈念資料館は基本的に<領域1>の観点に挑戦している空間である。2000年に拡大新築される前の本来の平和祈念資料館は1975年に公式開館された。1975年に初めて開館されたとき、この平和祈念資料館は<領域1>の視点をそのまま受容していたという(20)。入口では日の丸と牛島中将の写真が掲げられ、牛島に献呈された詩も同時に展示されていた。資料館のこのような観点に反発した多様な平和運動団体と研究者たちが県議会と県政府に抗議し、県政府は素早く他の方法で平和祈念資料館を建てることを決定した。結局、2年後の1977年、<領域1>の視点とは完全に異なった形式で建てられた平和祈念資料館が市民に公開された。改装された資料館は軍の文書、宣伝ポスター、戦争経験に関連した生々しい口述資料が展示された巨大で暗い部屋などで評判だったという(21) 。この口述資料などを詳細に読めば「ヤマトンチュ(22)の兵士でさえ死ぬとき、『天皇陛下万歳』を叫ばなかった」(23)という事実を知ることができたと1993年ここを訪れたノーマ・フィールドは記録している。

 本来、祈念資料館はその構造において展示と資料保管能力において深刻な限界があった。故に大田前知事は1995年に沖縄平和祈念資料館を新しく建てる基本計画を発表した。もちろん平和祈念資料館の増築は平和の礎の建立と空間的調和やその志向するところにおいて同一の地平を共有するものであった。増築された平和祈念資料館の基本方針は、過去の資料館の精神を維持しながらも「沖縄戦の真実」が「省略されることなく」描写される施設を作ることがその核心であった(24)。新しい資料館には「戦争に至った歴史的過程」、「アジア太平洋地域の国々の歴史」、「アジアの国々に苦痛を与えた日本の戦争責任に対する考察」なども展示される予定であった(25)。しかし現在計画通りに展示されてはいない。その理由は大田前県知事の後任である自民党系の稲嶺恵一現県知事が本来予定されていた展示計画を変更しようと試み、その一部のみが実現しただけだからだ。

 稲嶺知事が変更を試みたものは、第2次大戦当時日本がアジアで行った役割と関連があるものが中心であった。県当局は「映画を通じて見る日本の侵略」というセクション全体をなくす命令を下した。これには南京大虐殺の場面、731部隊が行った蛮行、シンガポールで日本軍によって殺害された人々の遺骸発掘の姿などが含まれていた。日本に反対する大衆運動と関連した歴史的文献と資料、そして韓国の抵抗運動を記念して発行された記念切手などが撤去されて、「慰安婦」関連資料、領土紛争と関連した資料なども外された(26)

 戦後のアメリカ軍の占領を記述する部分にも多くの変更があった。先ず県当局はアジア-太平洋地域の平和維持のためのアメリカ軍の役割が展示内容に含まれなければならないと主張した。また沖縄で起こった事件・事故の中でアメリカ軍が関係した事故よりもそうでない事故の方が多いという事実を説明する展示の必要性を強調した(27)。故に現在平和祈念資料館の中ではアメリカ軍の存在がまるで背景のように処理され、事実上存在しないかのような印象を与える。

 沖縄住民の反発を最も多く招き、また展示内容が変更されるという事実が広く知られることになった契機は、ガマ(28)で起こった事件を再現する復元模型の変更であった。この復元模型は子供の泣き声のためにアメリカ軍によって壕が発見されることを恐れた日本軍兵士が沖縄人の母親にその子供を殺すことを命令し、銃を突きつける場面を再現することになっていた。しかし、この平和祈念資料館の運営を担っていた委員の一人がある日資料館を訪れたとき、兵士は銃を持っておらず単に洞窟に潜んでその親子を眺めているだけの場面に変わっていることに気が付いた(29)。この事実がマスコミに知られるや、沖縄県民は県当局に強く抗議を行った。その後副知事が謝罪し、記念館の運営委員会は銃を復元することに成功した。しかし銃が直接子供の母親を向かないように銃の角度を若干下げることに同意するしかなかった(30)

 稲嶺知事がこのように展示内容を変更するよう指示した理由は、「事実ではあるが、あまりに反日的になってはならない。沖縄も日本の一県に過ぎないのであり、日本全体の展示に関して考えないのは良くない」(31)ということである。すなわち「靖国化」されている<領域1>の観点と完全に相反する観点を取り入れることはできないというのが彼の立場であったのである。

 現在平和祈念資料館の展示内容の相当部分が本来の計画よりも縮小されることになったが、縮小することができないものも存在する。それは沖縄戦を経験した体験者が直接口述した内容を書き取った資料である。<領域1>でかき消されている戦争被害者の声が流れ出ているこの口述資料は沖縄において沖縄戦の「真実」を伝えてくれる一次資料なのである。そして、この口述資料を収集する過程が沖縄戦の真実を伝える過程であったために、この資料は日本の軍国主義者たちが押さえつけようとしても押さえつけることができないものなのである。また平和祈念資料館の展示内容の変更に関して沖縄の多くの学者と県民が関心を持っているので、県政を担当する勢力が変われば本来の展示計画どおりに展示される可能性も大きい。また現在県政を担当する勢力が継続して権力を維持するとしても今よりも展示内容が縮小される可能性はないと推測される。<領域2>の空間を直接<領域1>の内容、すなわち靖国的に変更させることは不可能であると思われる。戦争の間苦痛を被った人々の声が溢れ出る場所において、直接的に戦争を賛美し美化することは事実上不可能なのである。平和祈念資料館は常に「平和」に関して言及し続け、<領域1>とは明確に区分された場所として残されるだろう。

Ⅱ. 脱文脈化された平和主義との緊張

 しかし、<領域2>が<領域1>とは異なり持続的に「平和」を強調しながら「戦争」の美化を警戒したとしても、この「平和」の内容を強調する方法自体が変化してしまう可能性は常に存在する。すなわち、露骨に靖国化される可能性はないとしても、「広島化」される可能性は大きく、<領域2>を最初に構想し現実化した人々はこの可能性に対して苦しい戦いを強いられることになるだろう。

 多くの研究者たちは、第二次大戦で日本の広島と長崎に原子爆弾が投下された後、日本人たちは自らを戦争の被害者と捉えるようになったという事実を指摘している(32)。特に広島の場合は都市の至るところに残っている原子爆弾による可視的な被害が「平和」に関する言説と結合して日本人たちを犠牲者意識に浸らせ、日本がアジア-太平洋地域で行った侵略者としての姿を批判的に捉えることを不可能にさせる機能を担っていることを認識する必要がある。これが最も端的に現れている場所が広島平和公園内の広島平和博物館である。

 広島平和博物館では日本の侵略の歴史に対する展示内容を、日本国内の大部分の他の博物館と同様、目にすることができない。日本の国公立博物館での「戦争の非展示」(33)という現象に対して、1987年広島地域の平和運動家グループが挑戦したことがあった。彼らは広島平和博物館に日本の侵略の歴史に関する記録を展示するよう請願を行ったが、これは却下された(34)。Burumaが広島平和博物館を訪問した当時平和博物館の館長であった川本義隆は、「侵略者のコーナー」を設置してくれという提案を拒否した理由について次のように述べた。

ここにそんなものを設置することはできません。侵略者たちは東京に座っていましたから。私たちの唯一の目的は1945年8月6日に何が起こったかを見せることにあります 。 (35)

 この発言は歴史的な文脈が除去された「平和」というものがどれ程危ういかということを示唆する発言である(36)。すなわち広島的な「平和」は沖縄戦の犠牲者と広島の原爆被害者を分断する機能を果たすのである。このように美化された平和と、靖国神社や沖縄平和公園内の<領域1>で見られる美化された戦争との距離はどれ程開いていると言えるだろうか(37)

 もちろん、脱文脈化された被害者的な視点から語られる広島的な「平和」と沖縄平和公園内の「平和の礎」が語るそれはその起源において明確に区別されるものである。<領域2>を初めて企画した人々が語る平和は明らかに日本の戦争責任を念頭に置いていたし、沖縄の人々が被った戦争被害も沖縄の人々が日本の戦争行為に同調して他のアジアの人々に被害を与えたことでブーメランのように返ってきたことをしっかり認識していた(38)。しかし前述したように、このような認識は新しい県知事を誕生させた勢力の台頭によって深刻な危機を迎え、「平和」を脱文脈化するこのような試みは今後もより巧妙に行われる可能性が大きい。

 このような状況の中で平和の礎に名前を刻むという行為をもう一度省察する必要がある。なぜなら、平和に対するこのような脱文脈化された美化の可能性は、事実、この名前を刻む行為自体に由来するからである。平和の礎に言及する多くの人々は、礎に名前を刻むことが初めて決まったときに沖縄現地で沸き起こった反発を一様に紹介している(39)。それは、現在、平和の礎に名前が刻まれている方法は、全ての戦争犠牲者を同一視し、日本の戦争責任に関する問題を曖昧にするというものであった。特に沖縄からは日本出身の軍人犠牲者と沖縄の民間人の犠牲者の名前が一緒に刻まれることは適切ではないと指摘された。しかし、このような批判を紹介しながらも現在はこのような論争が収束したと説明されている。保坂広志によれば、

建設当時は、戦争加害者を祀ることは新しい「靖国化」ではないのかとか、敵味方の区別なく名前を刻むことは世界の他の刻銘碑の例に反するのではないかという指摘もあったが、現在はそのような反発や異論は起こっていないようである。それは戦争という過酷な現実の前では、死亡者は全て犠牲者なのであり、人の生命には軽重がないということ、あるいは多数の戦没者の刻銘碑を見ることでどれ程この戦争が惨酷の極みにあったかを一目瞭然にわかる配置になっているためかもしれない 。(40)

 しかし筆者は、平和の礎の建立計画が発表された当時の批判がこれ以上提起されないことは、「平和」を脱文脈化する一助になっていると考える。むしろ現在このような批判を提起すること自体に意味があると考える。

 多くの人命被害をもたらした悲劇的な歴史的事実に対して加害者と被害者を区分せず追悼しようとする試みは、常に論争を巻き起こすことになる。1986年当時西ドイツ首相ヘルムート・コールは西ドイツを訪問した当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンに、ベルゲンベルゼンのユダヤ人強制収容所があった場所に造られた墓地を訪問して、それから何時間も経たないうちに、ナチの親衛隊員たちも埋葬されているビットブルクのドイツ戦没将兵墓地を訪れることを提案した。コールは過去の敵国同士であったアメリカと西ドイツ間の偉大な和解の瞬間に、ナチ親衛隊の墓と他の戦争犠牲者の墓を区別することは洗練された振る舞いではない、いや、全く相応しくない振る舞いだと考えたのかもしれない(41)。しかし、コールのこのような行動によってドイツでは新しい歴史論争が沸騰し、それは現在依然として進行中である。コールが採った過去の被害者と加害者を区別することなく追悼する方法を支持する人もいたが、多数の知識人は過去の世代が犯した加害の事実をより根本的に反省するために新しい歴史認識が必要だという主張を繰り広げた。権力を握った人々だけでなく平凡な当時のドイツの人々の責任も問わなければならないと訴えたのである。そしてその方法として「日常史」が提唱されもした。

 一方韓国でも同じような事例が存在する。新しく造成された光州望月洞(マンウォンルドン)墓地が国立墓地になりながら、加害者と被害者は同列に並べられるようになった。韓国で代表的な国立墓地である銅雀洞(トンジャクドン)の国立墓地の東側29墓域の将校墓地では次のような碑文を目にすることができる。「1980年5月22日光州で戦死」(42)。これが意味することは明確である。1980年5月に光州で市民を虐殺した軍人が、自衛のために武装した光州市民軍との戦闘で死亡し、銅雀洞の国立墓地に埋葬されているのである。また国家権力の被害者であった光州の市民たちが埋葬された望月洞墓地が国立墓地になると、加害者と被害者が一緒に国立墓地に埋葬されるという事態も発生した。加害者と被害者の両者が国家の暴力によって死亡したのであるが、死者を区別する必要はないという論理が広く承認されたのである(43)。だがこれに対して批判的な韓国人たちはかなりの数に達するのである。

 加害者と被害者の間に存在する差異を無化させるこのような論理は、特定の事件をそれが発生した歴史的文脈の中から抜き出して永遠に加害者と被害者の間の差異をなくす効果を発揮する。加害者と被害者の間の差異が消滅したその場所には、つまり過去にどのようなことがあったかが正確に語られない場所では、逆説的に「未来が忘却」(44)されてしまう。もちろん前述したように平和の礎は追悼の空間であり、平和記念資料館は学習の空間であり、その事件の歴史的な文脈を明らかにする義務は平和祈念資料館が担っている。しかし、追悼の空間と学習の空間がその同一の歴史的文脈を明確にすることこそが強く望まれるのである。

 一方、平和の礎の心臓部に位置する「平和の火」は日本国内に存在する平和と関連した四つの火のモニュメントの一つである。残り三つの火のモニュメントは、沖縄戦当時アメリカ軍が最初に上陸した阿嘉島(あきじま)の「沖縄戦の火」と広島の「平和の火」、そして長崎の「誓いの火」であるが(45)、ここでも沖縄が広島に繋がっていく可能性がある。 Figalの指摘によれば(46)、沖縄を広島に繋げることの長所は日本国内の「平和」言説の総本山である広島を経由して沖縄問題をその主流に押し上げることができる点だという。孤立から脱してその主流において沖縄が議論されればそれは明らかに前進だと言えよう。だが、そうすることで沖縄固有の観点が失われるならば、それは沐浴の水と共に赤ん坊を流してしまう結果になるだろう。

 日本では、日本の戦争責任を展示する国公立記念館はほとんど存在しない。大阪の「大阪国立平和センター」、京都の立命館大学付設「国際平和博物館」、長崎の「岡まさはる記念長崎平和資料館」などはその数少ない例である(47)。これらの博物館は基本的に私立であり、過去の戦争における日本人のイメージを被害者のイメージではなく侵略者のイメージとして浮び上がらせている。もちろん、これらの博物館も日本人たちが経験した苦痛に対して沈黙してはいない。大阪国際平和センターのある展示室は大阪が焼夷弾によってどのように破壊されたか、特に子供の視点から都市において爆撃を受けることの意味を極めて詳細に描写している。戦争当時ある子供が描いた絵では、爆弾が落ちて赤ん坊の頭が血を噴出しながら空中を飛来し、人々は恐怖に駆られて橋の上に逃げて行くという姿が描かれている。だがしかし、広島平和博物館とは異なり、ここではこのような惨事が日本が起した戦争の結果であったことを描こうとする努力が見られるのである(48)。沖縄平和祈念公園が歩むべき先は広島ではなく、それがたとえ沖縄のような非主流であっても、まさにそこに存在するのである。


4. 終わりに

 今まで沖縄平和祈念公園を通じて沖縄戦の記憶をめぐってどのような緊張が存在するかを見てきた。沖縄平和祈念公園は靖国化と広島化の間で危うい綱渡りをしていると筆者は考える。もちろん、沖縄平和祈念公園の<領域2>は当初、靖国化や広島化とは全く関係なく企画された空間であった。その空間では日本で唯一地上戦が行われたという沖縄の人々の記憶が中心になければなかった。しかし、稲嶺県知事を誕生させた勢力はこの空間を靖国化することができないまま、次第に広島化するという衝動に駆られたのである。これに口実を与えたのは平和の礎に名前を刻む行為に潜んでいるのではないかということを検証してきたのである。

 沖縄には沖縄平和公園を広島化することに反対する強力な勢力が存在する。しかし同時に彼らは沖縄の平和を広島の平和に変えようとする同様に強力な勢力と争わなければならない。彼らを支援しながら彼らの問題を我々の問題として捉えることのできる方法はないのだろうか。ここで我々は東アジア的な視点の重要性を再び発見する。

 広島と沖縄に関して語られるありふれた言葉の一つに「唯一」というものがある。広島では、広島が世界で「唯一」原子爆弾の被害を被ったと至る場所で聞かされる。沖縄では、沖縄が日本で「唯一」地上戦が行われた場所だと聞かされる。結局この二つの「唯一」の間でどのような立場を重視するかが、日本において過去の太平洋戦争をどのように記憶するのかという立場を決定する。広島で語られる「唯一」に対する感覚はともかく、沖縄で語られる「唯一」なことに対する感覚は東アジアあるいはアジアというより広い文脈の中では唯一なものではないという事実をここで指摘したい。つまり、日本の領土内で「唯一」地上戦が行われた場所が沖縄という観点は、東アジアで「唯一」地上戦が行われなった場所が日本本土だという観点に転換できるなら、沖縄の「唯一性」に対する観念は消失してしまう可能性もある(49)

 言うまでもなく第2次世界大戦においてアメリカが中心となった連合軍と日本が地上戦あるいは海上戦を行った場所のほとんどが中国半島を含めたアジア全域であった。また朝鮮半島は朝鮮戦争を通じて過酷な地上戦を経験し、またベトナム戦争での経験を加えることもできるはずだ。このように見れば、東アジアで地上戦を経験しなかった唯一の場所が日本本土であり、また地上戦を経験せずに、原子爆弾という凄まじい被害を被った場所が唯一日本本土だということもできる。故に沖縄は日本本土の戦争体験と繋がるというよりも地上戦を経験した他のアジア地域の戦争経験と繋がることがより自然なのではないだろうか。もしこのような観点が沖縄内で力を得ることができれば、展示内容を変更させながら稲嶺知事が述べた言葉、つまり「沖縄も日本の一県に過ぎないのであり、日本全体の展示に関して考えないのは良くない」という言葉の代わりに、「沖縄も地上戦を経験した他のアジアに属するので、アジア全体の展示に関して考えないのは良くない」と述べることができるのではないか。そうであるならば、日本国内のもう一つの唯一性の問題である「広島」の苦痛も、唯一性の観点ではなく、また異なった共通の苦痛の記憶に転換することができるだろう。その瞬間まさに広島が語る平和は空虚なものではなく未来に向けた真摯な土台になるのである。

 この観点から、沖縄の問題は韓国に生きる我々の問題でもある。過酷な地上戦を経験した韓国人は自分たちが経験したその戦争をどのように歴史的な文脈で記憶し、それを東アジアの平和とどのように繋げていくことができるかを思考することができる。また我々が参戦したもう一つの戦争であるベトナム戦争に関しても、我々はどのように省察できるのかという問題もまた沖縄を経由して提起される切実で真剣な問題なのである。




<注>
(1) 「記憶の政治学」という用語についてはキム・ミンファン(2003)を参照。
(2)このような研究の例としては、Gillis(1994)やMacdonald(1998)、Neal(1998)などがある。
(3) 保坂廣志(2004)、石原昌家他(2002)、屋嘉比収(2000)、Figal(2003)、Yonetani(2003)
(4)ベトナム戦争の参戦記念碑に関してはWagner-Pacifici & Schwartz(1991)を参照。
(5)名前が刻まれる人を選定することにおいて国籍は重要な基準ではないが、実際には国籍別または出身地別に刻まれている。
(6)沖縄県平和祈念資料館(2001)
(7)保板廣志(2004,213)
(8)Yonetani(2003,192)
(9)そういった意味で沖縄平和祈念公園は大きく三つの区域に構想されたと考えることもできるだろう。<領域3>と呼ぶことのできるこの二つの空間は特別な注目を受けていないように思われ、それ故、残りの二つの領域と比較したときその意味が明示的に表れていない。一方、チョ・ソンユン(2005)は平和祈念堂を<領域1>と同一の空間と看做し、平和祈念館と<領域1>が<領域2>を包囲していると解釈しているが、平和祈念堂にあまりに大きな意味を付与しているのではないかと思われる。むしろ平和祈念堂と韓国人慰霊塔は互いに対立する二つの領域の間で疎外されていると見るのが妥当だろう。
(10)沖縄県平和祈念資料館(2001)
(11)韓国人慰霊塔奉安会(1978)
(12)Figal(2003,79-81)
(13)故に毎年6月23日は、沖縄県の公式記念日である「慰霊の日」になっている。沖縄が日本に復帰した後の1974年に県の条例によって定められた。しかし9月まで非公式的な戦闘は継続され、6月23日以降も多くの人々が戦争に関わる行為によって犠牲になった。平和の礎には9月に死亡した人々の名前も刻まれている。このような観点から、6月23日を「慰霊の日」と制定したことは問題があるように思われる。一方で1989年、この「慰霊の日」の存在に不満を持つ右翼によってこの記念日がなくなる危機もあったが、このとき多数の県民たちが「慰霊の日」の存続のために努力し、その結果として現在もこの日は沖縄県の公式記念日として残ることになったのである。
(14)保板廣志(2004,209)
(15)保板廣志(2004,210)
(16)「強制的集団自殺」という用語はノーマ・フィールドの著作から引いたものである。「強制的集団自殺」の問題を理解するにはField(1995)の第1部を参照。
(17)実際にここを説明するとき「靖国化」という用語で説明されることもある。これに関しては新崎盛暉他(1989)を参照。
(18)靖国神社国営化反対沖縄キリスト者連絡会(1983,17-21)
(19)大田前知事は長らく基地反対、平和運動に尽力してきた大学研究者として、基地がない平和な沖縄を実現することを主張して知事に当選した。1995年のアメリカ軍の少女暴行事件以降、地域住民の圧倒的な支持を受けながら、彼はアメリカ軍の基地使用のための代理署名を拒否するなどの活動を行った。大田前知事の基地使用代理署名拒否とこれと関連した反基地闘争については大田昌秀(2000)を参照。
(20)Yonetani(2003,194)
(21)Yonetani(2003,194)
(22)「ヤマトンチュ(大和人)」は沖縄の人々が日本本土の人々を指すときに使用する言葉である。これに対して沖縄の人々が自身を指す言葉は「ウチナンチュ」である。
(23)Field(1995,101)
(24)沖縄県平和記念資料館(2001)
(25)石原昌家他(2002)、Yonetani(2003) 
(26)石原昌家他(2002)、Yonetani(2003)
(27)Yonetani(2003)
(28)ガマは暗く内側に大きく入り込んだ洞窟で沖縄の自然景観の至るところに点在し、戦時中は防空壕として利用されていた。ガマに避難した沖縄住民たちはここで「強制的集団自決」の犠牲者になった。
(29)石原昌家他(2002)、Yonetani(2003)、保坂廣志(2004)
(30)石原昌家他(2002)、Yonetani(2003)
(31)屋嘉比収(2000,115)から再引用
(32)ブルマ(2002)、Dower(1999)、Hein & Selden(1997)
(33)千野香織(2002,231)
(34)ブルマ(2002,136)
(35)ブルマ(2002,137)から再引用
(36)太平洋戦争の期間に広島が担った軍事的役割を正確に認識する必要がある。当時広島は日本軍第2軍司令部が置かれた場所であり、決して戦争と無関係ではなかった。
(37)日本の徳山市の回天記念館は美化された戦争と美化された平和が一致することを明確に見せてくれる空間である。この記念館には第2次大戦当時、特攻隊に志願した人々を終始美化する方法で展示が構成されているが、その展示の最後には「平和」を願う文句が掲げられている。ここでの「平和」とは一体何を意味するのであろうか(回天基地を保存する会,1999)。
(38)屋嘉比収(2000)は沖縄戦当時、沖縄の住民が避難したヒムクガマとチビチリガマで起こった差を説明しながら、この点を明確にしている。ヒムクガマに非難した村の住民たちの多くが生き残ったのに比べて、チビチリガマに非難した村の住民は「集団自決」で多くが死亡した。ヒムクガマにはハワイに農業移民に行って帰ってきた村の住民がいたが、この人々が洞窟の中の住民を投降するように説得して全員が生き残ることができた。一方、チビチリガマには中国に派遣されて帰ってきた兵士1名と看護士が1名、住民と一緒にいたが、この二人は過去自分たちが中国で民間人の捕虜を全員殺してしまうという経験を持っていた。彼らはもし自分たちがアメリカ軍の捕虜になれば過去自分たちがしたように全員殺されるだろうと話し、アメリカ軍に殺される前に自決するべきだと村の住民の大部分を「集団自決」するように仕向けたのである。チビチリガマの悲劇は結局加害者としてアジアの住民を虐殺した日本の原罪がブーメランのように返ってきたものと解釈することもできる。
(39)石原昌家他(2002)、Yonetani(2003)、保坂廣志(2004)
(40)保坂廣志(2004,212)
(41)ブルマ(2002,265)
(42)キム・ジョンヨップ(1999,203)
(43)キム・ミンファン(2003,414)
(44)キム・ミンファン(2003,414)
(45)沖縄県平和祈念資料館(2001)
(46)Figal(2003)
(47)千野香織(2002)、ブルマ(2002)
(48)ブルマ(2002,279)、千野香織(2002,241)
(49)これは、屋嘉比収が2005年5月14日に行われた学術大会「沖縄と東アジア問題」で言及したことから示唆を受けた。


<参考文献>
김민환(2003), 「누가, 무엇을, 어떻게 기억할 것인가」, 김진균 편, 저항, 연대, 기억의 정치 2, 문화과학사.
김종엽(1999), 「동작동 국립묘지의 형성과 그 문화, 정치적 의미」, 한국정신문화연구원 편, 한국의 근대성과 전통의 변용, 한국정신문화연구원.
부루마, 이언(2002), 정용환 옮김, 아우슈비츠와 히로시마, 한겨레신문사.
조성윤(2005), 「기념공간의 상징성 - 오키나와현 평화기념공원 공간 변화의 의미」, 한국사회사학회 2005년 정기학술대회 발표문집.
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石原昌家他(2002), 『争点 沖縄戦の記憶』 社会評論社, 東京
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屋嘉比収(2000), 「ガマが想起する沖縄戦の記憶」
靖国神社国営化反対冲縄キリスト者連絡会(1983)『戦争賛美に異議あり!――沖縄における慰霊塔碑文調査報告』 靖国神社国営化反対沖縄キリスト者連絡会, 沖縄
沖縄県平和祈念資料館(2001)『沖縄県平和祈念資料館 総合案内』 沖縄県平和祈念資料館, 沖縄
回天(基地)を保存する会(1999)『回天記念館概要․ 所蔵目録』 回天(基地)を保存する会,徳山
Dower, J.(1999), Enbracing Defeat: Japan in the Aftermath of World War II, Penguin Books, New York.
Figal, Gerald(2003), “Waging Peace on Okinawa”, in Hein & Selden ed., Islands of Discontent, Rowman & Littlefield Publishers, New York.
Gillis, J. R. et al,(1994), Commemorations: The Politics of National Idenitity, Princeton University Press, New Jersey.
Hein, L. &Selden, M. ed.(1997), Living with the Bomb: American and Japaese Cultural Conflicts in the Nuclear Age, M. E. Sharpe, New Yokk.
Macdonald, Sharon(1998), The Politics of Display, Routledge, London.
Neal, A. G.(1998), National Trauma & Collective Memory - Major Events in the
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Wagner-Pacifici, Robin & Schwartz, Barry(1991), “The Vietnam Veterans Memorial : Commemorating a Difficult Past”, in AJS, v. 9, n. 2. pp. 376-420.
Yonetani, Julia(2003), “Contested Memories”, in Hook & Siddle ed., Japan and Okinawa, Routledge Curzon, New York.

  • 2009.04.01 00:00 
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> 論文・エッセイ

早尾貴紀「佐藤優氏のイスラエル支持について」 

「佐藤優氏のイスラエル支持について」

                             早尾貴紀(大学講師、パレスチナ情報センター、他)



 佐藤優氏という元外交官の文筆家が、あちこちの雑誌・書籍で、イスラエル擁護論を展開している。
 
 パレスチナ/イスラエル問題についてこれまで発言してきた私としては、ここで一定の立場表明をしておくべきだと思う。


 金光翔さんが展開している「〈佐藤優現象〉批判」には共感するし、あるいは鈴木裕子さんがそれに類比させて〈朴裕河現象〉と呼んだ問題もある。「左右を越えて」とか「和解」とか、そういった問題設定に対して、リベラル派を自任する知識人やメディアは、ここのところとくに弱くなっているように思われる。

 後者の〈朴裕河現象〉については、私自身が、『季刊軍縮地球市民』や『季刊戦争責任研究』といった雑誌で一定の論及をしてきた。どうしてあのような短絡きわまりない乱暴なナショナリズム批判(つまり、韓国のナショナリズムも日本のナショナリズムと鏡写しのように同型だとして、相対的に日本を免罪・擁護する)が、どうしてリベラルを自任する知識人らに称賛されるのか、という問題だ。


 また私は、パレスチナ/イスラエル問題に関して、これまで、ピースナウや労働党が和平派であるとか、あるいはそのイデオローグたるアモス・オズやデヴィッド・グロスマンなどの作家・知識人らがイスラエル内の貴重なリベラル派だとして期待する議論に対して、批判を重ねてきた。ウェブサイトでは以下がある(拙著『ユダヤとイスラエルのあいだ――民族/国民のアポリア』(青土社、2008年)でより詳細に展開している)。


「シオニズムはリベラルになりうるのか――ヤエル・タミール『リベラルなナショナリズムとは』をめぐる勘違い」
 http://palestine-heiwa.org/note2/200705230511.htm

「正戦論の倫理思想家マイケル・ウォルツァーのガザ攻撃正当化について」
 http://palestine-heiwa.org/note2/200901130036.htm


 もちろん問題は、オズやグロスマン(あるいはアイザイア・バーリンやヤエル・タミール)にもあるが、もう一つの問題として、日本の知識人やメディアが、オズやグロスマンを和平派として重用しつづけていることが指摘できる。オズもグロスマンも、その著書が何冊も日本語に訳されており、「イスラエルの良心の声」として消費されている。だが、彼らが、そして彼らの支持するピースナウや労働党が、西岸地区の入植地の全面撤去や、併合した東エルサレムの全面返還や、ユダヤ人国家イスラエルという差別的規定の撤廃を論じたことなどありはしない。お茶を濁したような、入植地の一部整理論と、東エルサレムへの部分的アクセス権の譲歩によって、むしろイスラエル国家のユダヤ性を保持・強化しようとしているのだ。その意味で彼らは断固としてシオニストであるのだが、日本では平和の人として褒めそやされている。

 正直なところ、分析力と倫理観の欠如と言うほかはない。


 この労働党の党首であり国防大臣であるエフード・バラクが、今度のガザ攻撃を指揮した。もちろん、シオニズム堅持の政策の延長線上でのことである。

 そのイスラエルのガザ攻撃を佐藤優氏が全面支持している。

 このことについては、やはり二層の問題を指摘しなければならないだろう。佐藤氏のイスラエル支持の議論そのものの是非についてと、そうした佐藤氏を重用するメディアについてだ。

 前者の問題については、「国益」を隠れ蓑にした暴論で、歴史も人権も国際法も蹂躙して構わないというとんでもない主張だ。もしかすると、佐藤氏がかぎりなく無知であることからくる主張である可能性もあるが、情報分析のエキスパートを自任する人物に「無知」は失礼か。とするなら、これは無知からくるものではなく、彼の強い思い込み・価値観から来ているということになろう。

 どんなにパレスチナ人を殺戮し、自決権を踏みにじってもいいというのが彼の価値観であるというなら、それを表明するのは勝手だ。私は、佐藤氏がそういう人物だとみなすだけである。そもそも彼の著作を面白いとも重要だとも感じたことはないので、関心もない。そういう人物がよくありがちなイスラエル擁護を無責任に展開しているというだけだ。

 ただ、「国益」という点については、オスロ合意以降、日本も含めた国際社会の支援で整備したパレスチナの建造物やインフラをイスラエル軍がいくら繰り返し破壊しても、その復興・再建が日本の税金も含む国際援助金で際限なくまかなわれ、また存分にイスラエルに破壊されるということについて、それがどう「国益」なのかを説明してほしいものだ。


 第二の問題として、その佐藤氏を重用する日本のメディアの問題がある。反動的で差別的な佐藤氏の価値観を共有するメディアが彼を重用するのは当然だろうが、金光翔氏が繰り返し指摘しているように、なぜに佐藤氏が左派・リベラル陣営を自任するメディア(とくに『世界』『週刊金曜日』)にも頻繁に登場するのか。この点については、強い違和感を覚える。

 もちろんメディアを使い分ける佐藤氏が、そうした左派メディアで「パレスチナを占領しその人びとを殺戮するのは正しい」などとは言わないだろうが、よそで言っているだけだからといって執筆させるのは無責任ではないのか。佐藤氏の対メディアの商売戦略は、たんなる「二枚舌」なのであって、「左右の対立を越え」ているのではない。右派メディアと左派メディアに対し、それぞれ聞こえのいいことを振りまいて、執筆の幅を広げているにすぎない。

 左派メディアには、今度佐藤氏が書くときには、ぜひともパレスチナ/イスラエル問題へのスタンスを問うてほしいものだし、それに対する編集部の見解も示してほしいものだ。


 近年の〈佐藤優現象〉と〈朴裕河現象〉は、80年代からの日本社会の「ピースナウ好き」を彷彿とさせる。イスラエルの占領が二度のインティファーダを招き、今度のガザ虐殺を引き起こした。ピースナウなどの和平派は、占領も攻撃も支持してきた。支持どころかオスロ和平派が占領体制をつくりあげ、その破綻が虐殺だったと言える。それこそが、国際的な和平交渉の枠組みのなかにある、日本も含む国際社会による占領支援の実態であり帰結だ。

 それを教訓にするなら、〈佐藤優現象〉と〈朴裕河現象〉が日本社会にどういう帰結をもたらすのかは、重大な問題だと言わざるをえない。
  • 2009.03.01 00:00 
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> 論文・エッセイ

読者より:右翼に(進んで)併呑される人々 

大変遅くなりましたが、新年の御挨拶を申し上げます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

昨年は『論座』の休刊に加え、『ロスジェネ』、『思想地図』、『m9』(これは3号で年内休刊となりましたが)といった新興オピニオン誌の創刊が相次ぐなど、論壇にいくつかの動きが見られた年でありました。しかしながらそうした動きが日本の言論に新たな風を吹き込む要因になりえたかと言えば、答えは否でありましょう。彼ら自称新興勢力は、既に旧来の雑誌がそうであるように、「右でも左でもない」路線ないしは明確な排外・差別主義の新たな一変奏曲として加わったに過ぎず、その表面は変わっても病根は同じくしていると見るべきだと私は考えております。その証拠に、新年早々『週刊金曜日』はその編集委員に、自ら「保守リベラル」を名乗り「左右のバカの壁」なるものの打破を唱える中島岳志を迎えて、金さんがおっしゃるところの「護憲派のポピュリズム化」 (注1)をより一層推進しています。

近年ではこのような一見して従来の右派・左派双方から距離を取りつつ両者を乗り越えようとするような自己規定が大変に流行しているようです(最も明瞭な事例は「超左翼マガジン」と自称する『ロスジェネ』の存在です)。しかし、こうしたことを異口同音に唱える人びとが、本当に言論を新たなステップへと導くことが出来るのかは、非常に疑わしいところです。彼らの言論は相互に驚くほど似通っており、そこに革新的な思考の萌芽や自律性を見出すのは大変難しいからです。また、『金曜日』の編集委員であり、『ロスジェネ』の中心的論客であるところの雨宮処凛などに代表されるように、左派と右派の共闘可能性について熱心に繰り返し語る人もありますが、これも同じく怪しい。なぜならば彼(女)らが近年クローズアップされることの多い貧困の問題を、どこまで歴史的かつ世界的な視点から考えていこうとしているのか、そこがいつまでたっても見えてこないからです(注2) 。いや、むしろ赤木智弘(注3) などがそうであるように、そういった論理的な自己省察を、当事者感覚や現場のアクティヴィズムを偽装することによって、最初から回避(あるいは嘲笑さえ)してみせる態度の方が優勢なのではないでしょうか。本来、問題の理論的な把握は、社会的実践によって退けられるものではなく、むしろ相互に補い合い、さらに止揚が可能となるような関係にあるはずなのですが、現在の社会的な運動には、前者を後者によって切り捨てる傾向が見え隠れしているように思われます (注4)

素朴な生活の論理から運動や思想・言論を立ち上げるのは良いことですが、素朴さゆえの誤謬をも伴うそれを、いつまでも「生の声」として絶対化し、放置し、さらにそれを是正しようとするものに丸呑みさえさせようとするのは困ったものです。一度でも言論人として筆をとったからには、より適切な方向へと自分たちの運動を導いていく責務が生じるはずです。「多少の瑕疵があろうとも問題解決に向けて前進できるのだからよいではないか」という功利主義は、敵対勢力にその瑕疵を突かれたときに、狼狽し居直る見苦しさによって、いずれ必ず自分たちに手痛いしっぺ返しを食わせることでしょう。いずれにせよ、このような自省を欠いた言論が流通する中で『蟹工船』ブームなどと言われても、小林多喜二が単なる一過性の消費財として提供されているだけのように思えます。

ところで金さんは「<佐藤優現象>批判」において、「人民戦線」的な思考の罠についての御指摘をなさっておられましたね。日本のリベラルは、護憲・反ファシズムの旗を掲げつつ、実質的には国益主義的な方向への再編成と集団転向を行いつつある、と。

反ファシズムという一点に限って、左派が右派に対し体験的な共感を覚えるという現象が過去になかったわけではありません。例えば羽仁五郎は、リベラル保守の代表とも言える吉田茂に対して、第二次大戦末期、共に獄中にあったという意味での同朋意識を表明しています(『自伝的戦後史』などを参照)。しかし羽仁は別段、吉田の全ての施策と言動を肯定してはいません。というよりも、そうした個人的な共通体験による共感にもかかわらず、多くの事象においてその意見を異にし、むしろ批判的だったのではないでしょうか。

それでは現在、左右の共闘ないしは超克を唱える勢力はどうでしょう。金さんには改めて申し上げる必要もないほどに答えは明らかですね。佐藤優を重用するような思考の混乱した言論人に代表されるように、彼らは結局のところ国民主義の桎梏を抜け出ることが出来ず、否、抜け出ようとするそぶりすら見せず、むしろそこに居直りつつあります。彼らが試みているのは、左右の言論の止揚などではなく、むしろ右派に対する全面的な譲歩と後退であり、自らの非倫理性を「反ファシズム」という旗を掲げることによって、あたかも良心的であるかのように偽装しつつ、実質的には戦争と差別と全体主義に対してこの上なく寛容な態度を示して、自らの生き残りをはかることでしょう。このようなリベラルを、いったい誰が信頼するというのでしょうか。なんのことはない、リベラルは自己崩壊の道をひた走っているのです。

具体的な事例としては、金さんがあげていた東浩紀の言論がありますね。彼は、差別に対しても寛容な態度をとれる「拡張されたリベラル」こそが求められており、むしろ反差別の議論は、その「不寛容さ」ゆえに支持を失いつつあると言いたいようですが、私の認識は正反対のところにあります。

ここで思い返すべきは、あの忌まわしい『マンガ嫌韓流』における「反差別」のレトリックです。この本ではまず、日本人は差別の主体ではなく、むしろその被害者なのだ、という修辞によって日・朝/韓の立ち位置が反転させられます。そしてその上で、この「差別」を打破した「真の日韓友好」の必要性を日本人(著者)の方が言い出すという形でストーリーが結ばれておりました。

つまり、あくまでこの本の著者の主観的にではありますが、『嫌韓流』は「反差別」のレトリックを伴って描かれていると言えます。そして、このような「人権」概念の乱用こそが現代右翼の武器であることは、反中国ないしは反朝鮮の言論を見ても明白です(注5)

これに対して東のような「拡張されたリベラル」は、「差別主義者に対する寛容さ」を説きます。このとき、「差別の自由を許そう」と言うリベラルと、「差別を許すな!」と言う右翼と、いったいどちらの言論が倫理的に見えるでしょうか。私は後者だと思います。リベラルが支持を失ったのは、東の言う「リベラルがリベラルでない」などというような要因からではなく、むしろ東のような「拡張されたリベラル」が唱える言論の非倫理性が誰の目にも明白であることによるものでしょう。言わば自業自得です。

加えて言うならば、このような事態に直面しても、「差別する自由」を求める大衆が(困ったことではあるが)多々存在しているのだから、それは「寛容に」認めてやろうではないか、というような大衆蔑視の感覚が、その行間から透けて見えるというのもあるでしょう。このような議論を聞かされれば、自分は差別など肯定していないのだから、この論者は非倫理的な上に、自分たち読者を馬鹿にしている鼻持ちならない人間だと考え、反発を抱くのが、極めて自然であり、また理の通ったことであります(注6)

長々と書いてしまいましたが、私は何も、左派は右派の言論と存在を一切無視すべきだと言いたいのではありません。ただ、右派の言論に目を配るということと、それを容認し重用しさえするということとは、全くの別の問題だと言いたいのです。そして左派が右派の言論を有効に用いることができるとすれば、それはその肯定ないしは擦り寄りによってではなく、あくまでそこに現れる排外主義や国益主義などに対して否定の立場を堅持しながら、そうした言論がどのような基盤から出てくるのか、あるいは何故流通してしまうのか、という問題を踏まえて自らの視点を研磨していくという態度をとったときにのみ可能となるだろうと考えています。これこそ現代日本のリベラルに最も欠けた理論的自己省察の姿勢であり、このような状況が続く限り、論壇は淀んだ空気の中、リベラルがどこまでも自壊を示し、支持を失い続ける空間としてのみ機能することでありましょう。それに左翼が付き合う必要性は、もちろん本来全くないのですが。

新年早々、全く明るい展望の見えない話題で申し訳ありません。

それではまた。


(注1) ところでこれらの人々の着地点の一つとして近年、白洲次郎が見出されつつあるように思います。白洲に関する文献の相次ぐ刊行に続き、今年はNHKが特番のドラマを3回に分けて放送するようですが、これに先駆けて、日本国憲法の起源を日本人の憲法学者たちが起草した草案に見るという筋書きの映画『日本の青空』が2007年には公開されています。この映画は全国の「九条の会」などの「護憲派」が製作費への募金から宣伝・発券などに至るまで協力して成功したもので、医療行政と生存権の問題を扱う第二弾が今年から製作されるそうです。一作目の劇中では、敗戦後の憲法学者たちの議論に加え、GHQと丁々発止のやり取りを見せる白洲次郎の姿がクローズアップされます。実際、本作の脚本家は、護憲を訴える映画のシナリオを依頼された際、一度は白洲をメインに据えようかとも考えたようです。こうした筋書きを好んで受けいれる現在の「護憲派」は、おそらく日本国憲法が日本人によって起草され、他国からの圧力に対しても堂々と渡り合った上で制定されていなければ気が済まないのでしょう。どこまでいってもナルシスティックなその態度は、実はGHQによって押し付けられた憲法が日本の国体を破壊してしまったと嘆いてみせる、自己憐憫的な右翼の議論と表裏一体でしかないというのに。

(注2)雨宮自身の出自にもよるのでしょうが、靖国神社などに代表される歴史問題を驚くほど無頓着に切り捨てられる態度には、危惧を覚えざるをえません。たとえば、非正規労働者に対して投げつけられる自己責任論は、経済的変動によって流動化を余儀なくされた人間の選択を、自由意志に基づくものであるとして一顧だにしないという意味で、植民地時代の朝鮮半島からの労働力流入を「好きで日本へやってきたのだから補償の必要などないのに、今になって何を言うか」として、変動をもたらした政治権力の責任追及をあらかじめ回避する右翼の言論と、本来その思想の基盤を完全に同じくしているわけですから、こうした歴史問題を軽視することは出来ないはずなのですが。

(注3)彼は、貧困問題を左派批判の文脈で語ることに存在意義を見出されている論客であると私は捉えています。それは『論座』のみならず、『諸君!』および『m9』のような新旧右派メディアでも重用されていることから明白です。彼の議論はまず、貧困問題を左派が独占的に扱うイシューであるかのように位置づけた上で、それがなされていないことを批判しますが、ここに既に詐術があります。国民主義ないしは自民族中心主義的な福祉政策ならば、右翼政権であっても行ってきた歴史がいくらでもあるからです。だからそのような議論ならばいくらでも右翼は耳を傾けることでしょう。こうした欺瞞に基づく議論は、お決まりの「バカな左翼より話の分かる右翼」という既に古典的ですらある(つまり問題の解決に何の役にも立たなかったばかりか、悪化さえ招いた)レトリックを忠実になぞっていくことになります。論壇における赤木の存在は、それ自体が左派とイデオロギー対立の否定という意味を持っているのです。そして、「あるべき左派」を想定するのではなく、だらしのない現在のリベラル(「左翼」とは申しますまい。彼らはそもそも反差別主義の立場に立って平等性を希求することをしていないからです)のあり方を本質化して「左派批判」を繰り返す限り、そうなるのが必然です。

(注4)これは一つには、たとえば「派遣村」での野党や護憲勢力の活動を「無関係な問題への政治的動員を企んでいる」として攻撃するような右派の存在にもよるものでしょう。これ自体はお話にならない難癖に過ぎませんが(そもそも政党や運動団体は何らかの社会的集団や階層を代表・代弁することに存在意義があるわけですから、集票やオルグに回るのが当然で、そこで主導権を奪われるのが嫌ならば与党や右派も積極的に介入すればいいだけの話です。それをしないのは、貧困層に対する無関心ないしは敵対の表明と考えるべきですね)、しかしそれ以上に、日本の「市民運動」が内在してきた、ある種の反主知主義・経験至上主義によるところが大きいと私は思います。これはベ平連の小田実の受容に顕著です。彼自身は大変なインテリであるはずなのですが、そこは巧妙に見逃され、実践の現場で、しかも特定の政党によらずして(これも重要)活動をし続けたことのみが大きくクローズアップされるからです。

(注5) このような右派による「人権」攻勢に、あろうことか反戦・護憲を唱える市民勢力が、しばしば同調か、よくて沈黙程度の対応しか取れないことは大きな問題です。彼らの理論嫌いの姿勢は、「人権」概念を巡る政治的な闘争の上で自分たちが引き裂かれていることにすら気付けない現状を生み出していると言えるでしょう。

(注6)南京大虐殺についての見解も同様でしょう。右翼が「まぼろし」説を何度論破されても繰り返すのは、彼らが「虐殺などあっても無くてもどうでもいいではないか、それは個人の解釈次第なのだから」などという、いい加減な議論を、根本的に拒否していることを示しています。そしてその直感だけは正しいのです。
  • 2009.01.23 00:00 
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> 論文・エッセイ

金光翔「佐藤優の議員団買春接待報道と<佐藤優現象>のからくり」 



天木直人氏は、「佐藤優のイスラエル擁護に嫌悪感を抱かないリベラル・左派の気持ち悪さ」で紹介した記事の続きとして、自身の有料メールマガジンの中で、佐藤優とイスラエルの関係についてさらに述べている。

詳しくはそちらを直接見てもらいたいが、天木氏はここで、佐藤の能力を一定評価した上で、「しかし、同時にまた私は、早い段階から彼(注・佐藤)のイスラエル、しかもモサド(イスラエル情報機関)、シャバク(治安・警察機関)との結びつき、シオニズム(パレスチナ紛争の根底にあるイスラエルの政治的ナショナリズム)への共感を感じ取っていた」として、「ロシアでの人脈づくりの過程ではユダヤ人脈と繋がりが不可避であること」(佐藤自身も、『国家の罠』で、イスラエルとロシアの深い関係、「イスラエルの持つロシア情報」の重要性について語っている)など、そう感じていた理由をいくつか挙げている。

そして天木氏は、今回の『アサヒ芸能』での佐藤のイスラエル擁護記事を読み、「ここに来て私の推測は確信に変わった。彼は日本におけるイスラエルの代理人であると思う」と述べている。さらに天木氏は、以下のように述べる。

「インテリジェンスの専門と称する佐藤氏の情報源も、彼の言論界における異常なまでの「もてはやされ」ぶりも、そして彼があそこまで外務省批判を繰り返してひるまないのも、何もかもその背後にイスラエルの支援と擁護があるのではないか。資金提供さえも受けているのではないか。」

こうした指摘を念頭において、もう一つ、別の記事を読んでみよう。

それは、藤本順一「驚愕証言「訪ソ議員団売春疑惑」を暴く 佐藤優を参考人招致せよ」(『週刊文春』2007年3月8日号)である。

下のリンク先に、全文が掲載されている。
http://blog.goo.ne.jp/taraoaks624/e/91bdeee042ad990dc13f251fe57f239a

この記事で藤本は、驚くべきことを書いている。引用しよう(強調は引用者。以下同じ)。


<佐藤氏を少なからず知る者として、そして日口外交の内幕を多少なりとも見聞きしてきた筆者は東京スポーツ紙の連載コラム「永田町ワイドショー」(2月3日付)に次のように書いた。

「佐藤被告自らがこれまで主張してきたように検察捜査が国策捜査というのならば、逆転無罪の可能性はゼロに近い。どうしても戦うというのならば、外務省を去ってからにしてもらいたい。今や、佐藤被告は国際情勢を語る評論家として言論界に確たる地歩を固めている。マスコミでさんざん外務省を批判しながら、一方で休職手当を貰っていたのでは国民の不信を招くことになる。この際、ジャーナリズムの側に生きる者としてケジメをつけるべきではないか。そして、日ロ外交に暗躍した自らの過去を含め、自民党政権の恥部を洗いざらい公表して欲しいものだ。それをしない限り、佐藤被告は永遠に元外務省分析官のまま終わってしまうだろう。残念な話である。」自民党政権の恥部と書いたのは、「いかがわしい接待」について以前、佐藤氏本人から直接聞かされていたからである。02年3月、佐藤氏が逮捕される2ヶ月ほど前のことだ。すでに逮捕を覚悟していたのだろう。「福田(康夫。元官房長官)と鈴木(宗男)先生以外はロシアで(オンナを)買っている。オレがみんな世話したんだ。こうなったら全部ぶちまけてやる」対ロ外交への思いを熱く語った約二時間にわたるインタビューの最後に佐藤氏は筆者に対してこうまくしたてた。」

当時、マスコミ世論は鈴木・佐藤コンビを対ロ外交をねじ曲げた売国奴とまで罵った。だが佐藤氏に言わせれば、そう呼ぶにふさわしいのは彼の地に赴いて「いかがわしい接待」を受けた国会議員の方だった。

「その話は聞いている。佐藤君は接待リストを持っているよ。ボクのところに名前を出さないよう頼んでくれ、と電話をかけてきた議員もいる。まったくふざけた話だ」佐藤氏の言葉を裏付けるように鈴木宗男衆院議員もこう証言する。

もし佐藤氏が国会の場でその一部始終をブチまけたなら、政界は激震に見舞われることになるだろう。

<ソ連が崩壊する前年の90年9月、「自民党・安倍晋太郎訪ソ団」がモスクワとレニングラード(現サンクトペテルブルグ)を訪れている。団長は故・小渕恵三元首相である。議員や秘書、関係者を含め総勢百九十名を超える大規模なものだった。日ソの平和条約締結と北方四島返還に政治生命を懸けた安倍首相の父・故晋太郎元外相の肝いりで決まったものだ。

(中略)

訪ソ団には、故晋太郎元外相が率いた清和会に所属する安倍チルドレンと呼ばれた若手議員たちも参加していた。今日の安倍政権につらなる議員たちだ。そのアテンド役を務めたのが佐藤氏だった。

今は非主流派に属するその一人が、匿名を条件に「いかがわしい接待」について証言する。

「ホテルの部屋の前まで、一時間置きに入れ替わり立ち替わりオンナが誘いにくる。ところが、佐藤に街娼は危ないから買うなと注意され、それじゃ夜何もすることがないからどこかに連れて行けと言ったら、バスに乗せられコスモス(ホテル)のディスコに連れて行ってくれた。カジノもあったかなあ。入場料が確か20ドルだった。店は出会いの場所を提供するだけで警察も目を光らせていた。こっちは交渉がまとまってモスクワ大学の女子学生にお持ち帰りされた。ずいぶん昔のことでどんな顔ぶれだったか?今や大臣クラスの人も一緒に遊びにいった。

もう一人、訪ソ団に取材で同行した大手紙のカメラマン(当時)の話だ。

「宿泊したモスクワのロシアホテルの私の部屋にも女性が来ましたよ。夜中の一時か二時ごろや部屋のドアをトントンと叩く人がいたんだよ。夜中だから、私もびっくりしてしまって、誰だろうと思ってドアを開けたら、女性が立っているんです。オーバーを着ていて、胸元が大きく開いていました。うす暗くてよく見えなかったですが、オーバーの下は下着しか着ていませんでした。なにか一言二言、言っていましたけど、私は慌ててドアを閉めました。学生みたいな若い女性でした。廊下にはホテルの従業員女性も座っていましたが、(売春婦と)通じているんでしょう。/山口敏夫〈元労相〉さんは、『私の部屋にも女性が来ましたが、“そういうことをしちゃいけませんよ”と説教してお金を渡して帰した』といっていました。/議員の各部屋にも当然女性が行ったのでしょう。二日目は各部屋に直接、電話がかかってきたみたいです。ソビエト連邦最後のときで、体制が乱れるとそうなるのかなと思いました。」

ちなみに、当時まだ晋太郎元外相の秘書だった安倍首相も昭恵夫人と共にこの訪ソ団に参加している。こうした雰囲気に感づいていたのかどうか。>



この後も、議員のロシアでの買春話が続くわけであるが、この件に関しては、『テーミス』2002年9月号においても、佐藤は同じ藤本によるインタビューで、以下のように語っている。


<佐藤 僕は、在モスクワ大使館当時、自民党の小渕訪ソ団一行のアテンドをしたことがある。彼らは、チャーター機2機を連ねてモスクワに来たが、その中の一部の議員が、「オイッ、夜の観光に連れて行け」といったものだ。/僕は16台の車を用意してその手の女性のアパートに彼らを引き連れていった/とくにひどかったのが、T議員やY議員(実名)だった。多くの日本の政治家は外交というと、夜の女性のことしか興味がない。少なくとも鈴木先生はそんな卑しい政治家じゃなかった。>
http://blog.goo.ne.jp/taraoaks624/e/c9630ab888ff47eef1a9901dfa3d2baa


以上の記事での、佐藤が藤本に語ったという内容が事実であるならば、佐藤は、議員団に対して買春接待をしたということになる。そして、記事によれば、佐藤はその「接待リスト」を持っているらしい。

実際に、佐藤は、『週刊朝日』に寄せた手記で、以下のように書いている。


「私自身がモスクワ勤務時代に飯村豊氏(現フランス大使(注・当時))、原田親仁氏(現欧州局長(注・当時))などの指示に従いマスコミ関係者を篭絡するために偽造領収書を作成したり、国会議員の弱みを握るためにいかがわしい接待をしたことがある。」(佐藤優「独占手記 外務省の腐敗と国民へのお詫び」『週刊朝日』2007年2月16日号)


私が、これら『週刊文春』『テーミス』『週刊朝日』の、佐藤による議員接待に関する記述がある記事を読んだのは、つい最近のことである。佐藤は、『週刊朝日』の手記において、「国会議員の弱みを握るためにいかがわしい接待をしたことがある」と公然と語っている。

また、佐藤は、『週刊文春』および『テーミス』の記事で自身が語ったとする発言内容に関して、また、「接待リスト」を持っているという件に関して、これまで管見の範囲では否定しておらず、また、それらの記事への批判・反論を行っていない。これは、極めて奇妙である。なぜならば、佐藤は、『AERA』の自分を誉め上げる記事に対してすら、不満だとして記者に詳細な「公開質問状」を送りつけているからである。

上記2つの記事での佐藤の発言が、記者の捏造であれば、『AERA』 の記事とは比べ物にならないほど佐藤の名誉を毀損するはずである。なぜ沈黙を守っている(管見の範囲では)のか?上記の記事での発言が、『週刊朝日』の手記での佐藤の発言が強く示唆するように、佐藤がまさに藤本に対して発言した内容だからではないのか?

この『週刊文春』の記事が発表された時期までには、佐藤は既に『世界』の常連執筆者であり、『金曜日』でも連載を持って約1年が経っているから、『世界』『金曜日』の佐藤と昵懇な編集者たちが、この『週刊文春』の記事を知らないはずはあるまい。これは、佐藤と懇意の、斎藤貴男や魚住昭ら言論人たちも同じである。この時期には既に、佐藤ファンクラブのような組織である「フォーラム神保町」も立ち上がっている。

彼ら・彼女らはこの『週刊文春』の記事(そして『テーミス』の記事)に関して、どういう認識を持っているのだろうか?もちろん、『週刊文春』は「言論テロ雑誌」とでも言うべき雑誌であるが、一般人と異なり、佐藤は、記事に対して公的に批判・反論する場所をいくらでも持っているのである。『週刊文春』『週刊新潮』の下劣なデマ記事を往々にして鵜呑みにしているこの連中は、今回ばかりは、公的な反論はなくとも「佐藤さんを信じる」ということなのだろうか?それとも、佐藤の買春接待自体を容認しているのだろうか?

ついでに指摘しておくと、「<佐藤優現象>批判」の注「(17)」でも指摘したが、『金曜日』は、米国下院の「慰安婦」決議に関しての文章である梶村太一郎「これが「慰安婦」についての動かぬ史実 議員立法で補償の実現を」の次に、佐藤優「米「慰安婦」決議と過去の過ちを克服する道」を掲載しており、決議に関して明白な両論併記を行っている(『金曜日』2007年8月10日号)。

『金曜日』は、少なくとも「国会議員の弱みを握るためにいかがわしい接待をしたことがある」ことは認めている佐藤、議員団の買春接待が報道されており、もしその報道が虚偽であれば批判・反論を容易に行える立場にもかかわらず目立った形では全く行っていない佐藤に、他ならぬ「慰安婦」問題についての文章を(依頼して?)書かせているわけである。

さて、上で紹介したように、天木氏は、「ロシアでの人脈づくりの過程ではユダヤ人脈と繋がりが不可避」であり、佐藤が「イスラエルの代理人」であり、佐藤に対するイスラエルの「支援と擁護」、「資金提供」の可能性を指摘している。

とすると、この記事の内容が事実であり、天木氏の指摘が正しいならば、佐藤は、イスラエルの(資金的なものも含めた)支援と擁護のもと、議員団の買春接待を行い、数多くの政治家の弱みを握っている、という可能性が生じる。弱みを握られた政治家が、要人を佐藤に紹介して機嫌をとる、ということは容易に考えられるだろう。もし佐藤が数多くの政治家の弱みを握っているならば、要人との人脈は簡単に増えていくことになる。

佐藤は、対談相手や発言を見る限り、政治家や各界の著名人など、幅広い人脈を持っているように見える。上記の藤本の『週刊文春』の記事によれば、佐藤は安倍晋三とすら昵懇の間柄のようである。


<佐藤氏は87年8月にモスクワに赴任、95年4月に帰国するまでの7年8カ月あまりをモスクワで過ごしている。帰国した際、当時すでに国会議員になっていた安倍首相のところへ出向き、そんな日本の外交のふがいなさを嘆いている。

一時は辞職を決意した佐藤氏を慰留したのも安倍首相だった。

「佐藤さんは優秀な人材だから引き留めました。僕が首相だったら内調(内閣情報調査室〉に引っ張るんだけどね」

安倍首相は幹事長時代、筆者の問いかけにこう答えている。

あるいは外務省の体質批判を執勤に繰り返す佐藤氏が、休職中といえどもいまだ職員の身分を保障されているのは、その能力を高く評価する安倍首相の意向が働いているのかもしれない。>



なお、佐藤は自身を「国策捜査」の被害者だと主張し、『金曜日』等のリベラル・左派もそのように描いている。佐藤は、『国家の罠』(新潮社、2005年3月)では、以下のように書いている。

「現在の日本では、内政におけるケインズ型公平配分路線からハイエク型傾斜配分路線への転換、外交における地政学的国際協調主義から排外主義的ナショナリズムへの転換という二つの線で「時代のけじめ」をつける必要があり、その線が交錯するところに鈴木宗男氏がいるので、どうも国策捜査の対象になったのではないかという構図が見えてきた。」(292~293頁)

だが、『地球を斬る』(扶桑社、2007年6月)の「あとがき」からは、佐藤の逮捕に関しては、イスラエルと佐藤との関係が背景になっているように読める。以下、関連箇所を引用しよう。

「5年前、2002年に鈴木宗男氏に対するバッシングが起きた背景には、イランに対する鈴木氏の慎重な姿勢に不満を持つ一部政治家と外務官僚の動きがあった。当時まかれた怪文書の中に筆者や鈴木氏を「ユダヤ人の手先」、「イスラエルへの情報提供者」というものがあったことがそれを裏付けている。/2000年4月にイスラエルのテルアビブ大学で行われたロシア問題を巡る国際学会に袴田茂樹青山学院大学教授、田中明彦東京大学教授達を派遣するための費用などを外務省関係の国際機関「支援機関」から支出したことが背任にあたるとして、鈴木宗男バッシングの嵐の中、2002年5月に筆者は東京地方検察庁特別捜査部に逮捕され、その後、東京拘置所の独房に512日間拘留された。(中略)/このようなイスラエルを舞台とする事件が作られたこと自体に、外務省内部でイランに共感を持つ反ユダヤ主義的な官僚の関与があったと筆者は見ている。また、特に反ユダヤ主義的意識がないと思っている外務官僚でも、鈴木宗男氏や筆者がイスラエルとのインテリジェンス面での提携を強め、正確な情報をつかむことが、鈴木氏の政治力を強めることになるので外務官僚の個別利益にとっては不都合だと考えたのであろう。筆者を巡る事件の最大の後遺症は、日本政府がイスラエルの情報を十分に活用できなくなってしまったことである。」(275~276頁)

また、『国家の自縛』(産経新聞社、2005年9月)でも、以下のように述べている。

「実は小泉政権の初期は非常にイランとの関係が進みました。アザデガンの油田開発で。しかし、これに鈴木宗男さんはストップをかけてましたからね。ここも実は石油利権、一部のイランロビー、それからイスラエルやユダヤ人に対して偏見を持つ日本外務省の一部の人たちや一部の政治家がいました。鈴木さんや私については、こういった人たちの力にやられた要素があるのですよ。これ、今まで言わなかった話なんですけどね。もう言っても大丈夫でしょう。」(115頁)

前回佐藤の発言を引用したように、佐藤はイスラエル全面擁護の方向に、日本の対パレスチナ政策、対中東政策を変えようとしており、しかも、藤本の記事の内容が事実であれば、買春という、多くの政治家の弱みを握っている。外務省内の権力闘争や佐藤の逮捕に大して興味はないが、佐藤の逮捕に関しては、「国策捜査」であることは変わらないとしても、むしろ佐藤とイスラエルとの関係が問題になっているのではないか、と思われる。

少なくとも、権力闘争の一方の側に過ぎない佐藤を、「国策捜査」の一方的な被害者と描こうとする、『金曜日』等のリベラル・左派はおかしい。現に、佐藤は以下のようにすら語っているのである。

田中(注・森一)氏も私も、国策捜査そのものに批判をしているわけではありません。国策捜査には国家や体制にとって必要な部分もあるのです結局、いつの時代にも、どの国にも政治犯罪というものはあります。ところが現代日本には治安維持法のような政治犯罪を取り締まるような法体系がないため、経済事件に一度無理やり転換することになります。だからどうしても無理な捜査になってしまうのです。/そして、こうした無理な国策捜査が行われているということは、やはり日本が国家として弱体化している証だと考えます。本当に強い国家というものは、無理な捜査というのはしないものなのです。その意味では今の日本は司法の危機的状況にあると言えます。」(佐藤優「「検察の正義」の正体」『月刊日本』2008年5月号)

『金曜日』は佐藤優とともに「国策捜査」批判キャンペーンを行っているが、治安維持法を制定すべきだ、と言いたいのだろうか?

なお、下のリンク先によれば、佐藤はこんな発言もしているようである(ただし、この『軍事研究別冊』2007年9月号の原典は未確認)。
http://outlaws.air-nifty.com/news/2008/12/post-78bc.html

「たとえば、『国家の罠』という本で、私は『国策捜査』という言葉を使ったけれども、じつは『国策捜査がいけない』とは一言も書いていません」、「国策捜査が必要な時は、否応なく来ます。たとえば北朝鮮と対峙する場合、これは当然、国策捜査で行くべきでしょう。緒方元公安調査庁長官の事件でも、結局は朝鮮総連が被害者になるような筋立てになってしまっていますが、そんな体たらくでどうするんだといいたいですよね。ああいう事件は当然、政治的に利用すべきですし、ここはしっかり国策捜査すべき局面でしょう。総連に対して圧力をかければ、拉致問題を巡る交渉も有利になるからです。それは先の段階で総連に対する圧力を緩めるということが、外交カードになるからです」

それでいて佐藤は、以前指摘したように、恐らく私の「<佐藤優現象>批判」への対応として、

「いま重要なのは、JR総連のような労働組合、部落解放同盟、そして在日外国人の運動――これは朝鮮総聯(在日本朝鮮人総聯合会)も含みます――です。このような、国家に頼らずに、お互いで助け合っていける団体がある。国家に対する異議申し立て運動をして、国家に圧力を加えられたとしても、自分たちの中で充足して、生き延びていくことができる。そのようなネットワークが複数ないといけません。これが国家の暴走を阻止し、民主主義を担保するのです」(『国家論』NHK出版、2007年12月26日発売、136~137頁)

などと言っているのである。呆れざるを得ない。




さて、私はこれまで、「<佐藤優現象>批判」をはじめとして、リベラル・左派が佐藤優に入れ込む理由について考察してきたが、こうした佐藤の幅広い要人との人脈も、リベラル・左派が佐藤に入れ込む大きな要因ではないか、と考える。

その背景には、リベラル・左派の「絶望」があると思われる。「<佐藤優現象>批判」の注の「(24)」で、以下のように述べた。

「佐藤が『金曜日』で連載「佐藤優の飛耳長目」を開始したのは二〇〇六年三月一〇号からであるが、興味深いことに、ほぼ同時期の二月一七日号で、国民投票法案に関する『金曜日』のスタンスが制定阻止から変化している(同号「編集後記」糟谷廣一郎執筆箇所参照)。(中略)/また、何か事件があった際に、専門家ではない有名人や文化人にコメントを求める傾向も、この頃から顕著になりはじめるように思われる。便宜上、この傾向を「護憲派のポピュリズム化」と呼んでおこう。例えば、この時期にライブドア事件が起こっているが、そこで「二人の識者」としてコメントが求められているのは、高村薫と香山リカである(「ライブドア事件をどう読み解くか」『金曜日』二〇〇六年二月三日号)。この後、香山リカは、『金曜日』誌面に頻繁に登場するようになる。こうした「護憲派のポピュリズム化」の中に、「護憲」や「平和」について有名人や文化人のメッセージを求める傾向、広告的なキャッチコピーによる「わかりやすい」護憲のメッセージを打ち出していこうという傾向を加えてもいいだろう。こうした傾向が相まって、現在の『金曜日』の、誰に読まれたいのか分からない、ぬるい誌面が構成されていると思われる。/なお、二〇〇六年二月前後にある程度まとまった、こうした動きは、二〇〇五年九月一一日の衆議院選挙における自民党圧勝への驚愕・絶望から生じていると、ここでは仮説を立てておきたい。」

『金曜日』が佐藤に入れ込む動機について、ここでは、「二〇〇五年九月一一日の衆議院選挙における自民党圧勝への驚愕・絶望」を仮説として立てた。ここでの「絶望」とは、万人が基本的に同等の「理性」または「良識」を持つことを前提とした上で、市民が各人の「理性」または「良識」を働かせた上で市民運動・社会運動に参加し、そうした運動の力により社会をより良い方向へ変えることは不可能だという認識、と言い換えてもよい。

『金曜日』にとって、その絶望感がどれほど深いかは、『金曜日』が9・11陰謀論にまで手を出すようになっていることから読み取れると思われる。このことを考える材料として、『金曜日』編集部員の成澤宗男の発言を取り上げよう。ただし、引用は、msq氏のサイトからの孫引きである(立読みして確認した限りでは、原典との大きな違いはないようである)。http://www.nbbk.sakura.ne.jp/911/zn/009.html

「(アメリカのテロとの戦いや、それへの日本の協力)に反対を表明する側においても、「テロは戦争では解決できない」という類のスローガンに象徴されるように、「テロとの戦い」があたかも政治的立場を超えて突き付けられた自明の「国際的課題」であるかのような認識が存在する。そうなると「テロとの戦い」をめぐっては、その「課題」の解決が軍事的手段で可能か否かという論争の次元に留まる。そこでは「否」と考える側であっても、「9.11」=「テロリストによる攻撃」という受け止め方は変らない。」(成澤宗男『続・9.11の謎 ―「アルカイダ」は米国がつくった幻だった!』(金曜日刊、2008年9月、9頁)

「・・・ブッシュ政権が開始した対テロ戦争(War on Terror)が、究極的には「9.11」を正当化の根拠としている以上、日本だけに留まらないが、「9.11」=「テロリストによる攻撃」という認識に立ちつつ、「戦争では解決できない」式のスローガンで対峙するのが有効なのだろうか。」(同上、9~10頁)

成澤のこの文章は、まわりくどくて今ひとつ分かりにくいが、私には、以下のリンク先のコメント欄の「樹々の緑」なる人物による要約と指摘が、その言わんとするところを示唆してくれているように思われる。

「一昨日、成澤宗男『続9.11の謎』を買って今読み進めているところなのですが、冒頭で非常に気になったのは、「テロは戦争では解決できない」という主張は、「9.11の謎」に比べれば“次元が低い”と断定しているところです。
 言い換えれば、「テロ対策として〈戦争〉は有効か」という“次元の低い”議論よりも、「テロ」そのものが存在しないことを突く方が一気に「戦争」を正当化する根拠を崩すことになって、より根源的である、という論理です。」

http://blog.goo.ne.jp/dabamyroad/e/0a01ba38470f68bd9d4bf277ae870f98#comment-list

9・11陰謀論に手を出すことが、左派にとって自滅行為であることは詳述するまでもあるまいが、9・11陰謀論への傾倒が、単に愚かさが理由であれば、まだ笑って(嘲笑して)済ませられるのである。だが、事態はより深刻なのではないか、と私は思う。

成澤は恐らく、9・11テロへの対応としてのアフガン戦争・イラク戦争に対して、「人道上許されない」または「国際法違反である」または「テロ対策として非合理的である」といった、聞き手に「理性」または「良識」があることを前提とした反対理由では、ポピュラリティを得ることはできない、したがって、戦争の流れを止めることはできない、と考えているように思われる。だからこそ成澤は、「理性」または「良識」を持ち合わせない(と成澤が考える)大衆も、アフガン戦争・イラク戦争に反対するように、9・11がブッシュらの「陰謀」であることを「論証」しようと懸命に努力しているのだ、と私は思う。

「<佐藤優現象>批判」でその認識の問題点を指摘したが、9・11(2005年)の衆議院選挙の選挙結果について、リベラル・左派は、大衆が愚かにもプロパガンダに惑わされて、自らの利害に反する小泉自民党に大量投票した、と認識したのである。リベラル・左派は、大衆が「理性」または「良識」を持ち合わせていることを前提とした言論活動を展開することに絶望したのだ。だからこそ、「護憲派のポピュリズム化」、<佐藤優現象>、『金曜日』の9・11陰謀論への加担、といった現象が起こっていると私は思う。

こうした絶望状態の下に、佐藤は降臨したわけである。佐藤は、政界をはじめ、幅広い人脈を持ち、積極的に『金曜日』とつながりを持とうとするのだ。さて、『金曜日』はどう考えただろうか。

私は、『金曜日』は、市民運動・社会運動によって社会を変えるよりも、佐藤とのつながりによって、佐藤の社会的上層部とのつながりを通じて、社会に影響力を行使する側に回ることを選択(というほど自覚的なものではないと思うが)したのだと思う。自己弁明としては、佐藤へ『金曜日』が働きかけて、佐藤が政治家ら要人や保守派(読者)に対して『金曜日』の主張を代弁することによって、『金曜日』の主張が社会的に広がる、という論理である。または、佐藤が媒介者となって、政治家ら要人と『金曜日』関係者が会合し、『金曜日』が直接影響を与える、ということもあるかもしれない。もちろん、佐藤と関わることによる、人脈の拡大(マスコミ人は大好きである)等の個人的な利益もあろう。

市民運動、社会運動の力によって下から社会を変えることは無理であるから、佐藤優(の諸活動や人脈)を通じて上の中で、上から社会を指導する、あるいは、社会をいじくりまわすことを志向した、と言い換えてもよい。体制側(の一部派閥)に自分を売り込むことによって政治的影響力を行使(あるいは、行使したつもりになる)する道を選ぶ志向になりつつあるのではないか。ここでは『金曜日』は「市民の週刊誌」というよりも、胡散臭い政治集団のようなものになっている。

この論理であれば、佐藤がどんな右翼政治家と結託していようが、胡散臭い団体と関わっていようが、全く問題ないことになる。むしろ、それは却って望ましいとすら言える。『金曜日』は、佐藤を通じて、そうした人々にすら影響を与えられる(ように見える)からだ。かくして、絶望し、無力感に浸っていた『金曜日』は、佐藤という魔法使いによって、瞬時に強大な社会的影響力を行使できるようになった!・・・と考えた(考えている)のではないかと思われる。

『金曜日』は、このところの保守論壇において、格差社会批判、グローバリゼーション批判の論調が強まっているのは佐藤の言論活動のお陰である、または、佐藤を通じて『金曜日』が与えている影響のためである、と考えているのかもしれない。佐藤からすれば、そう思わせることは朝飯前だろう。だが私見によれば、それは佐藤の保守派への影響力の過大評価であって、グローバリゼーションによる貧困層の増大、地方経済の空洞化に直面した際に、「格差是正」を主張する保守派が台頭することは、恐らく先進国一般に見られることである。キャメロン党首以後のイギリスの保守党が典型であり、日本でも、小林よしのりらは早くからこうした主張をしている。佐藤はこの趨勢に自覚的に乗っているに過ぎない。

保守派論壇内で、佐藤の力によって生じた変化と言えば、せいぜいが『金曜日』の常連執筆人(青木理、魚住昭、山口二郎といった佐藤の取巻きたち)が、『SAPIO』でしばしば登場するようになったこと(まさにこのことから、『金曜日』関係者には、「佐藤さんの力で、右派がまともになりつつある」と映っているのではないか)くらいのように見える。それは、彼・彼女らが保守派にとって何ら脅威にならないということを意味しているだけであって、事実、『SAPIO』でも大したことは言っていない。右派論壇誌の編集者が自分たちの雑誌の単調さに辟易していることは、よく言われることであって、佐藤が紹介してくる、毒を持たないリベラル・左派は、右派論壇誌の編集者にとってはかえって大歓迎だろう。

そして、言うまでもないが、仮に佐藤の力でどれだけ保守派の論調が大幅に変容するということがあったとしても(ただし、小林との「戦争」での佐藤の醜態により、その可能性はほぼなくなったと言える)、それが「国益」中心主義的なものを超えることはあり得ない。「佐藤優のイスラエル擁護に嫌悪感を抱かないリベラル・左派の気持ち悪さ」でも書いたが、佐藤と結託するリベラル・左派は、「国益」とはその諸権利の擁護が必ずしも合致しない人々のことはほとんど眼中にないからこそ、佐藤と簡単に結託できるのである。そして、佐藤と結託することで『金曜日』は、自らの拠って立つ理念、信頼性、盲目的ではない熱心な読者(私は違う。念のため)といった財産を、どぶに捨てていっているように見える。

『金曜日』が佐藤と最も顕著に結託している(注)から、ここでは『金曜日』を例に挙げたが、原理的には他の雑誌、団体、個人でも同じである。苦境に陥っている団体は、佐藤から声がかかれば、喜んで飛び込むだろう。左右を超えた佐藤優の人脈を構成する一員となり、佐藤の広範な人脈を利用することが、存続を有利にすると考えるだろうからである。

例えば、「フォーラム神保町」の事務所は二つあるようであるが、それぞれ、部落解放同盟系の解放出版社の東京営業所と同じ建物(http://www.forum-j.com/map.html) 、元解放出版社の小林健治が社長を務める「にんげん出版」と同じ建物であり(http://www.forum-j.com/agreement.html  この会員規約の「第8条」参照)、「世話人」のうち、小林は元解放出版社、多井みゆきは解放出版社社員である(会員規約「第4条」)。このように、佐藤は要人との広範な人脈を背景に、行き詰っている団体や、絶望している左派メディア・言論人を簡単に回収することができる。

私は、「<佐藤優現象>批判」で、佐藤を、近衛新体制における近衛になぞらえたが、まさにここで起こっていることは、状況に絶望し、上からの現状打破志向を持った左派知識人や、同じく絶望した上で「バスに乗り遅れるな」と切迫感を持っていた諸団体が、近衛新体制に飛び込んで行ったことと同じだ。論文で指摘したように、まさに集団転向現象である。




まとめよう。<佐藤優現象>の要因として、「<佐藤優現象>批判」では、リベラル・左派の人民戦線的志向、改憲後に備えた保身願望、「国益」中心主義的なものへの変質を挙げた。また、これらに加えて、リベラル・左派の中心的人物たちによる、保守派に対抗するナショナリズムを醸成したいという欲望(「岩波書店社長・山口昭男氏と佐藤優」)、出版社・書店の商業上の要請(「辺見庸の警告と<佐藤優現象>の2つの側面」)、佐藤が自分たちを宣伝・応援してくれることへのリベラル・左派の期待(「佐藤優のイスラエル擁護に嫌悪感を抱かないリベラル・左派の気持ち悪さ」)、といったものも要因として挙げてきた。

今回、それらの要因に、「2」で指摘したように、2005年の9・11選挙の結果へのリベラル・左派の驚愕・絶望に由来する志向、すなわち、佐藤の要人との広範な人脈に依拠して、佐藤優(の諸活動)を通じて上の中で、上から社会を指導する、あるいは、社会をいじくりまわすことへの志向を追加したい。

そして、その佐藤の要人との広範な人脈は、「1」で取り上げたように、『週刊文春』の藤本の記事での佐藤の発言と記事内容が事実であれば、「議員や秘書、関係者を含め総勢百九十名を超える」規模の訪ソ団の団員たちに対し、佐藤がアテンドとして買春接待を行い、その際の「接待リスト」という爆弾を佐藤が保持しているというところから、生じていると言える。

そして、佐藤がイスラエルと密接な関係を持ち、佐藤がイスラエルのエージェントとすら見える言論活動、政治活動を行っているところから、佐藤がイスラエルから、資金提供を含めた支援を受けているのではないか、という疑問が生じる。もちろん、佐藤の資金源としては、イスラエル以外の組織、団体、勢力も考えられるだろう。

したがって、『週刊文春』の藤本の記事での佐藤の発言と記事内容が事実であれば、「2」で挙げた要因およびこれまでに挙げた要因から、<佐藤優現象>の基本的なからくりは、ほぼ合理的に説明できると思われる。もちろん、藤本の記事は、現時点ではあくまでも参考資料とのみ見るほかはないが、『AERA』の好意的な記事にすら詳細な「公開質問状」を送りつけた佐藤が、藤本の記事には目立った形での批判・反論を行っていないことも付記しておかなければなるまい。


(注)『金曜日』が自身の集会のポスターで「日の丸」を掲げたことに関して、北村肇編集長は、下のリンク先で弁明している。北村編集長は、ほぼ同時期に、『金曜日』本誌でも同趣旨の弁明を行っている。
http://www.kinyobi.co.jp/blog/?p=81#more-81

なぜこれが弁明たりえると北村編集長が考えたのか自体が、理解に苦しむ弁明なのだが、北村編集長が「読者の方から疑問の声が届いた」ことに応じて弁明したというこの事実は、『金曜日』の佐藤の起用が、『金曜日』読者の声によるものではなく、また、佐藤を使うことによって新しい読者層を開拓できているからでもなく、編集部主導で行われていることを示唆している。佐藤ファンが「日の丸」に違和感を覚えるとは考えにくいからである。

かつて私は、「<佐藤優現象>批判」の注「(24)」で、「『金曜日』は定期購読者が支えているらしいから、本気で「平和」「人権」を守りたいと考えている人間は、編集部の体制が変わるまで同誌の購読・購買を「ボイコット」すべきではないか」と提起したが、これはもはや無駄だと思われる。仮にボイコットの結果、採算的に危険なレベルに達したとしても、佐高ら上層部は「下から社会を変える」ことができるとはもう思っていないだろうから、編集部の体制を変えて、佐藤を切るなど編集方針を改めて、失った読者層の回復に努めるのではなく、廃刊するまで佐藤を使い続けて<佐藤優現象>を継続させようとするだろう。

仮に、佐藤を使い続けることが部数減につながっているとしても、廃刊しても別に生活には困らない佐高ら編集委員だけではなく、『金曜日』社員も佐藤を使い続けることには異を唱えないだろう。『金曜日』は経営が思わしくないらしいから、佐藤を切って既存の読者層をつなぎとめて雑誌を生き延びさせることよりも、佐藤と近づきになり、森達也や香山リカといった売れっ子を紹介してもらうなど、「人脈」を拡大させた方が、編集者としての転職には有利に働くと考えるだろうからである。したがって、今後、『金曜日』が佐藤を切ることは、恐らくないと思われる。
  • 2009.01.18 00:00 
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> 論文・エッセイ

姜徳相「日本の植民地支配の未清算と「在日」韓国・朝鮮人」 

(管理人注:以下は、「日韓の女性と歴史を考える会」の第1回総会(2008年4月6日)に行われた、姜徳相氏(在日韓人歴史資料館館長・元滋賀県立大学教授)の講演記録であり、「日韓の女性と歴史を考える会」会報第3号(2008年7月発行)に掲載されたものである(このブログでのアップにあたっては、必要最小限の若干の修正を行っている)。転載を許可された、姜氏、「日韓の女性と歴史を考える会」の方々に、御礼申し上げる。)



私には名前が四つある

 私は1932年生まれである。1934年に家族とともに日本へ渡ってきた。東京・渋谷で生活を始めることになるが、朝鮮人は、屑屋、うんこ屋(屎尿汲み取り業)、飴屋(朝鮮飴売り)をやっていた。貧しかったが、当時としては珍しく幼稚園に入園することができた。1938年に小学校に入学した。戦争中だったので、戦争ごっこではいつも「支那軍」になり、そのことが心の傷として残った。喧嘩があっても最後は「朝鮮人野郎」で終わった。同じ学年にいた、金玉子ちゃんはいつも名前のことでいじめられていた。しかし、その時は金玉子さんのことを助けてあげられなくて、私はそのことを今でも後悔している。

 私には、名前が四つある。日本に来て屑屋をしていた父は「中村」を名乗ることになったので、幼稚園の時には私の名字は「中村」であった。小学校に入ると本名の姜徳相となったが、読み方は「キョウ・トクソウ」であった。小学校3年生の時に、創氏改名で担任の先生から「神農」という名前をつけられ、大学4年まで「シンノウ」と呼ばれた。大学卒業後にやっと本名の姜徳相の「カン・ドクサン」を名乗り、現在にいたる。したがって四つの名前がある私は、今でもその時々によって「中村」「キョウ・トクソウ」「神農」「カン・ドクサン」と呼ばれている。

 母は協和会(朝鮮人同化政策のための組織)に参加することになったが、日本人が正座するのに驚いたそうだ。朝鮮では、正座をするのは罰せられる時だったからである。私も中学1年の時に協和会に参加し、白服を着て「禊ぎ」をやらされた。1943年になると、父は屑屋から運送屋になった。生活苦から、当時朝鮮人はマンホールを持ってきてしまうことがあった。どぶろく(韓国の濁り酒)を警官に振る舞い、仲良くなったという。またこの頃に、関東大震災の虐殺の話を聞いた。朝鮮人には明日がないので、酒と博打を繰り返し喧嘩の毎日だったようだ。代々木と原宿の間に「お召し列車」(天皇が特別に乗る列車をこう呼ぶ)の駅があったが、「お召し列車」が来るときは運送屋にいた朝鮮人は警察に一晩泊まらされた。予備検束というもので、朝鮮人は治安対象であったのである。私たちは朝鮮人差別に小さく縮こまっていた。その一方で、私は皇国少年になった。つまり天皇制に近づくことによって差別から逃れようとしていたのである。

 小学5年のときに祖父が死亡した。物心ついて初めて朝鮮半島に渡った。関釜連絡船で釜山に着くと、その当時の釜山の印象は、ハンセン病患者が多かったということであった。もうひとつは、釜山で日本へ連行される朝鮮人の一群を見たことが鮮烈な思い出となっている。朝鮮での米の供出が始まり、役人が米の供出探しを始めていた。日本に帰るときに私が鎮海(日本海軍の基地があったところ)の駅で待っていると憲兵隊に連行されてしまった。治安第一主義で、朝鮮人の子どもまで治安対象となっていた。小学校から軍の学校に合格するために、担任の先生は私の戸籍を朝鮮戸籍から日本戸籍に勝手に変えてしまったことがあった。

 1945年3月10日の東京大空襲の時、B29(米軍の爆撃機)が低空で現れた。4月23日の空襲では、青山で黒こげになった死体を見た。死者の油がシミとなって残り、人の影となっていた。8月15日は、疎開先の宮城県で開墾作業をしていた。同時に蛸壺掘りもやらされていた。正午に最敬礼のままでラジオ放送を聞く。「作業は中止。流言蜚語に惑わされるな」と教員の話があった。しかし朝鮮人の私は、日本人の慟哭の場に入っていけない傍観者であった。すきま風が自分の体のなかを通り抜けた。自分は日本人ではないと実感した。しばらくすると朝鮮人は飲めや歌えやの騒ぎとなった。しかし私は日章旗を太極旗に作り替える場にも入っていけなかった。

 1950年、早稲田大学に入学した。朝鮮戦争が勃発する。その頃山辺健太郎さん(著書に『日本統治下の朝鮮』岩波新書、等がある)と出会う。当時、私は東洋史学科で中国史を勉強していたが、卒業論文のテーマを決めるときに山辺さんに「君は朝鮮人なのになぜ中国史を勉強するのか」と問われた。そして「朝鮮史を研究することが日本と朝鮮の架け橋になる」と言われた。その後の朝鮮近現代史研究で、朝鮮史は日本の鏡であることがわかった。


日本の対韓ナショナリズム

 最近5、6年の日本の対韓(朝鮮)ナショナリズムの一大昂揚に言及したうえでその歴史的背景を検証することにしたい。

 2002年9月小泉首相の平壌訪問以後、日本の世論はいわゆる拉致問題を軸に、急速に右傾化した。自称評論家、芸能人らがコメンテーターとなって拉致を非難、朝鮮の「悪」をあぶりだす井戸端会議が連日テレビや新聞、雑誌にみられるようになった。カラスの鳴かない日はあっても「救う会」のメンバーの動静が伝えられない日はないほどであった。誰かが声高に何かいうとすぐ一緒になって相対的に多数となり、さらにみんなが集まっていつの間にか絶対多数になってしまうようだった。排外主義を煽動された民衆は砂嵐のように舞いあがった。こうした論調のいきすぎに対して、良心的な人は暴力の報復を受けるおそれもあって沈黙を強いられた。良識ある言論は封殺された。

 忘れてはならないことは国家の犯罪である拉致が在日同胞にはね返ったことである。民族団体の建物が放火されたり、民族服の学校、生徒が危害を加えられることが続出し、民族服で登校しない学校も出現した。些細な問題で在日企業や組織が「法令違反」とされ大規模な捜索、弾圧を受ける事件も頻発したがマスコミはほとんど批判しなかった。

 個人的体験をいえば自宅近くのコピー屋の駐輪の仕方を注意したところ「ダマレ、朝鮮ヤロー」と反撃された。50余年ぶりに聞く「懐かしい」罵声であったが、その「ヤロー」は今まで黙っていたが、今やもうこの「朝鮮人奴」といえるのだという日本人の屈折した心境をみることができた。ある拉致家族のひとりはそれをようやく日本は「過去の植民地支配の贖罪という呪縛から放たれ拉致問題解決に本気で臨むことができる」と書いた。この一文と先述のコピー屋の「朝鮮ヤロー」は重なった心情である。つまり戦後、日本人を苦しませた植民地支配の「負の歴史」はこれで相殺できるということである。並行して「拉致」は現在進行形の国家犯罪であるが、「従軍慰安婦」も「強制連行」、「強制労働」も別の歴史的要因、すなわち「帝国臣民の戦時動員」にすぎない。または「時効」だという者も出現した。「『韓国併合』を韓国人の要請によったもの」とする出版物も出現した。「朝鮮人民の奴隷状態に留意」といったカイロ宣言を否定しようというのである。それは、大日本帝国の生成、発展、滅亡、再興の過程での対韓侵略、植民地支配無謬論の公然復活を意味する。

 ドイツとポーランドは歴史的に日韓の関係とよく似ているが、かりにポーランドでドイツ人を拉致する事件があったとすればドイツでも被拉致者救出のデモが起こるのは民族感情として当然である。しかし一方ドイツではドイツ、ポーランドの過去を直視し、憎しみや報復がエスカレートしていく行為に反対する世論が必ずある筈だ。そこに日本とドイツの過去をみる視線の違いを発見する人も多い。1945年8月は日本がその過去を直視する一番良い機会であったが、折からのアジア冷戦構造の最前線に立ったことを奇貨とする天皇制国体維持派が近隣アジア諸民族との関係を負の歴史として切り捨て、アメリカはその「国体維持派」の庇護者として影響力を強め、その分だけ対米従属の強い国となった。それがいわゆる戦後の「にわか民主主義」である。のちに再論するが、在日韓国人はその時代のいわゆる民主主義の虚妄性を知り尽くしている。戦後民主主義を謳歌していた時代の体験談を例にあげよう。

 25、6年前、私はあるテレビで日本の文部省検定教科書の隣国関係史の問題点を指摘した。するとこのような手紙が届いた。

「あなたはなぜ今更そのような昔のことをほじくっているのか、貴方のいうことが事実としても朝鮮人はもっと悪いでないか、チョンコ―〔朝高〕、つっぱり、ろくなことしてないでないか、そんなにいやだったら、さっさと帰ってくれ」という内容であった。「日本から朝鮮人をなくす会」なる団体を名乗るS・H(九州)から送られた手紙である。この人の文字はまだ幼くて、おそらく高校生か、高校卒業後まもない若者と思われる。手紙はいろんな意味で胸に突きささるものがあった。一つは日本民衆がかかえている朝鮮無知の深刻さを問い詰められた時のいらだちを読みとったことである。若者は個人としてそのいらだちを手紙や電話に託したわけだが、これが集団になったとき車内や駅で“朝鮮人学生”はいないかとさがし廻り、「朝高狩り」を敢行する日本の若者のエネルギーと同根のいらだちと思われた。世間を騒がしたパチンコ疑惑を含めてである。

 むろんS・H君の行動が普遍性を持っているとは思われない。むしろ逆の事実が数限りなくあることを知っているが、いわゆる戦後民主主義教育のなかで育った世代に属していることに朝鮮否定観の根の深さに戸惑いを感じた。歴史は繰り返さない、過去が同じ姿でおとずれることは決してありえない。にもかかわらず、このようにしばしば過去の足音そのものを聞くのはやりきれない。作家の金石範氏は飲み屋で酔っぱらってきたとき若者と肩がふれあったことから若者にいきなり、「この朝鮮ヤロー気をつけろ」といわれた。金さんはその時なぜこの若者が金さんを朝鮮人だと知っているのかギクリと驚いた。しかし考えてみると若者が金さんを朝鮮人と知っているわけでなくて、「朝鮮人」がバカヤローと同じことばの悪口であることに気がついて愕然としたそうである。どうしてそうなのか、答えは簡単である。

 日本も、朝鮮も民族の立場で過去の植民地時代の決着をつけていないからである。あれから60年余になろうとしている。過去はその過去そのものが存在した40年よりはるかに長い時間の経過した今も依然として未決のまま再び鎌首をもたげ、ポピュリストたちは日本民衆の心の底に澱のように沈む対韓ナショナリズムを激発させている。この10年間朝鮮有事に備えてのさまざまな戦時法体制の整備、「ガイドライン法」、国旗・国歌法、盗聴法、国民保護法、子どもに「愛国心」を注入するための教科書改訂、靖国参拝等々、再び国のために殉ずる国民づくりは急ピッチである。バブル経済が弾け日本の内向的閉息のなかで戦争になると平等になるというつくられた戦争の美しい絵本を前提に、いくさを望む声があるのが現実である。

 これから述べようとすることはなぜこのような動きになったのか、それはすべて過去の無知に起因する。今の危険な方向の再検討のたたき台として日本と朝鮮が過去どんな歴史を持ったのかどんなふれあいをもっていたのか、事実を確認しておこうということである。

 その意図は拉致問題が日本のナショナリズムの求心力として利用され、急速に右傾化が進んだことを見据え、それには日本の民衆の韓国の歴史、日韓関係史への無知という“共犯”があるということに尽きる。本来、日本の研究者の発言が望ましいのかもしれないし、方法論など違いがあるが、論議の前提にある事実の重さ、からみの複雑さをあらゆる議論の前提として知っていただきたい。前提にある事実の重さを知ることからすべて始まると確信する。


身勝手な「征韓論」

 「明治」維新以来百年の歴史の話をする。全体をこまかく論ずるわけにはいかない。日本史のまがり角、結節点をとりだし朝鮮史からみてみる。

 大雑把にいって、江戸時代までの日本と朝鮮は東アジアの中国文化圏にあって、本来、双子のような民族発展をとげてきたと思われる。発展段階論からいえばそれほど発展度には段差はなかった。江戸時代の儒教文化からいえば、日本は東アジアの辺境であり朝鮮に対して「庶子」意識をもっていたとさえいえる。イギリスとフランス、フランスとイタリアのような関係に比することができる。江戸時代の双方の関係は基本的には互恵平等の友好関係であった。

 この友好関係が破れ、逆転するのは天皇制排外ナショナリズムが掌握した権力、明治政府が文明と武力をふりかざし朝鮮を下敷きにした侵略政策を展開してからである。日本の「明治」時代はそのまがり角に必ず朝鮮問題が介在していた。

 例をあげてみれば、「明治」初年の大事件は、いわゆる「征韓論」である。明治政府はその成立とともに、「征韓論」を吹聴している。明治の元老の一人、木戸孝允は慶応4年12月14日の日記に「明朝岩倉〔具視〕御出立に付、前途之事件御下間あり。依て数件を言上す、尤其大なる事件二あり。一は速に天下の方向を一定し、使節を朝鮮に遣し、彼の無礼を問ひ、彼、若不服のときは鳴罪攻撃、其土大に神州の威を伸張せんことを願う、然るときは天下の陋習忽ち一変して速かに海外へ目的を定め随て百芸器機等、真に実事に相進み各内部を窺ひ人の短を誹り人の非を責め、各自不顧不省之悪弊一洗に至るは必定国地大益不可言ものあらん」(原文、句読点なし。以下の引用文も、読みやすくするため、適宜句読点を付す)。これは有名な日記である。

 つまり何の非もない朝鮮にいいがかりをつけ対外緊張をおこし、明治国家の危機をのりきり、内部統一をする目的で朝鮮との戦争を提起している。「内乱の憂いを外に転ずる」といった人もいる。余計なことだが、日本史はこの身勝手な侵略論を「征韓論」といっている。「征韓論」はないだろう。辞書を引くとよくわかるが、行きて正すが「征」で是が非を討つという論理観がある。われわれからいわせるといまもってこの用語が生きていることに憤慨にたえない。括弧づきにさえしない。ともあれこの侵略論が1873年、西郷隆盛・板垣退助らの下野、すなわち明治政府で誰が指導権をにぎるかでの争いを生んだ「征韓論」となることはあきらかである。明治政府がまっ二つにわれたのである。  

 これは日本史のまがり角で朝鮮問題が出てきた最初の事件である。より重要なのは「征韓」を“する”“しない”で分裂したのではない。政権内の誰が指導権を掌握して、いつ「征韓」を実践するかの問題であった。従って権力から西郷、板垣などを追いだした2年後に木戸、大久保政権が敢行した「征韓論」実践、すなわち1875年の雲揚号による朝鮮江華島砲撃事件と続いた。その「問罪」の形で「砲艦外交」で強要したのが、両国の近代的な外交関係の出発点となった江華条約である。

 江華条約が生みだした江華体制とはなにか。それは20年前に日本が欧米に強要された安政の不平等条約すなわ領事裁判権、関税従価5%、紙幣交換による日本産金の大量流出といった、屈辱的体制をそのまま再現拡大して朝鮮に強要したものであることはあまりによく知られている事実である。

 日本の幕末から「明治」初年にかけては、不平等体制打破は「内なる痛み」という言葉で表現される、国民的課題であった。それは対欧米との不平等条約是正ということであった。

 鹿鳴館文化というのはその涙ぐましい形である。しかし日本はその内なる痛みを朝鮮に転嫁することで、自分の矛盾を解消したのである。日本の新聞は次のようにも書いている。「演舞スル役者ノ面ニコソ黄白ノ差アレ、艦船ト云ヒ軍装ト云ヒ兵器ト云ヒ皆ナアメリカ製ニ類似シテ、而シテ朝鮮ノ人民亦タ当時ノ日本人民ニ類似セサル非ズ。日本政府ハ既ニ相役ヲ朝鮮人民ニ托シ、江華湾裏ニ舞シ日本人民ノ得意ナル模倣ノ妙技ヲ世界ニ米人ニモ公示シ」と得意がっている。安政条約が拡大強要されたことは、この新聞記事で読み取れるだろう。いわば、江華体制は「明治」日本が具体的に脱亜入欧をし、アジアに対する圧迫国に転化したものであった。そして、朝鮮の近代は日本によって不平等条約を強制されたことで手かせ足かせをはめられ、条約締結後30年にして、植民地へ転落してしまったのである。

 江華体制は被圧迫国であった日本が圧迫国に転じて平衡感覚をとりもどす作用をもったといいたい。


民権運動にとっての朝鮮問題

 さて次に、江華体制に反撥する朝鮮の反日暴動、1882年の壬午軍人運動がおこる。これは朝鮮民衆が略奪貿易に反撥し、反封建反侵略すなわち、日本公使館の撤去要求にむかった事件である。事件は1882年7月31日に日本に伝わるが、すると日本国内は朝鮮に獲得した日本の国権が侵害されたとして、朝鮮討つべしの排外論が沸きに沸く。つまり、日の丸が焼かれた、国権を侮辱されたと言い募る。そこには江華体制下の朝鮮民衆の呻吟はまるでみえない。朝鮮膺懲論はきわめて激しいものである。一例をあげると、『東京日日新聞』は8月1日、10月中旬まで63もの排外論説、社説を書きまくる。毎日書きまくるのである。「東京日日」だけではない。当時の新聞の一般的傾向である。福沢の『時事新報』などは急先鋒である。

 そこで朝鮮を“鶏頭”とか、“アメヤのデク助”とか“頑虎”とか、軽蔑の口調で表現する。

 そして例えば「武内〔宿禰〕、加藤〔清正〕の両君、まあ聞き給え、昔、先生達が奮発でカブトではない笠を脱がしたので鹿の肉だの飴だのべっ甲だの種々の品を貢ぐことになってもう安心と思っていたところ近頃は」……など、神功皇后[神話上の人物]や加藤清正の侵略の歴史を持ちだして、朝鮮は昔、日本の属国であった。その属国になめられてたまるかという形で“征伐”を煽動したのである。そして朝鮮など考えたこともない民衆を煽動し、いわゆる大衆的排外ナショナリズムをつくっていくのである。朝鮮飴を「この飴は頑固糖を以て製せしものにて口当り悪く味なく、只、上あご下あごについてねばり、恥もさらしあめの類なり」などの口上はその典型である。その証拠に当時の小学生の次のような歌を紹介しておこう。戦争の危機に際し、「しきしまの日本心を世に示すときにあふこそいともうれしき」「えびすらにやまと刀のきれ味をいざ知らしめんときぞ来れり」といさみにいさむわけである。政府や新聞の排外煽動にのせられたる子どもである。明治政府が民衆を自分たちの政策にまきこむのに成功を収めた例だと思われる。

 もう一つ壬午軍人運動で日本史がわすれてならないことは、民権論との関係である。1882年というと民権論は大衆的闘争のさなかにあって、秩父、加波山、福島、名古屋と、いわゆる「激化事件」が起こり、民衆は血を流して闘っている。しかし、朝鮮での軍人運動がおきると、高揚した民権論がこの排外ナショナリズムにまきこまれ、国権論に収れんしていくのである。例えば『自由新聞』をみてみよう。8月1日、2日付の社説で「朝鮮の政変」をのせる。論旨は朝鮮政府が排外的立場の大院君一派の行動を自由にしたこと、日本公使館員の王宮入りを拒否したことなどをあげ、朝鮮政府の責任を追及する形である。ところがもう一つ8月2日、4日に論説がのる。これは社説よりラジカルな排外を主張して即時出兵論となる。「事件は国民を恥かしむる如き不詳の日であり、事件は朝鮮人が日本を軽視するからであり、日本はこれに武威を示せ」「日本人の愛国心の高揚」をこの機会にせよと説く。戦争による国権伸張、そして愛国心を高揚せよというのである。この執筆者はなんと奥宮健之である。彼は自由党左派のラジカルな行動派である。1884年の名古屋事件で無期刑となる。その後、1910年大逆事件で辛徳秋水とともに死刑(刑執行は1911年)となる。つまり自由党の左派をわたり歩いた人物である。

 この人たちがどうして政府のいう排外論に直線的にまきこまれていくのか、そこに民権論のもつ落とし穴があったと思う。つまり内に民権、外に国権ということである。秩父事件の井上伝蔵も排外思想の持主だったという。むろん民選議員設立建白書に署名した板垣退助、江藤新平は右手に民権、左手に朝鮮侵略をいう人で、論外である。20数年前、民権百年が日本の歴史学者たちの間で話題になった。研究者のなかには憲法第9条をもつ日本国憲法は占領軍の押しつけ憲法ではない、自由民権の内発的系統があるという人もいた。「民権」をつぶしたのは「朝鮮排外論」であった。このとき、なぜ「壬午百年」、「反日暴動百年」の視点で民権がみられなかったのか、残念だと思う。日本史が民権を失敗の歴史として教訓化するには朝鮮差別がつまづきの石であったことを知らねばならぬ。そして『自由新聞』は84年9月に社説「国権拡張論」を発表し「彼の紛々擾々として官民相あつれきする事は逆に容易ならざるの害を我国に及ぼす、彼の壮年有志の熱心をして内事より外事に向はしめ、政府は之を利用して大いに国権拡張の方法を計画するを得ば内に以て、社会の安寧を固うし外に以て国権を海外に博する」と主張して解党するのである。

 民権派とは別に「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」といった「明治」のオピニオンリーダー福沢諭吉の朝鮮観を寸描すると、彼は「朝鮮は小野蛮国」「支那朝鮮等は愚鈍にして」「力を込めてその進歩を脅迫するのも可」を持論とし、金玉均ら開化派を利用し、支配を強めようとしたが、開化派のクーデター、甲申政変が失敗に終わると、足場を失ったと錯覚。「隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず……西洋人が之に接するの風に従って処分」すべしの脱亜論を発表、次いで「朝鮮人民の為にその国の滅亡を賀す」と極言するまでに至る。

 脱亜論を引きだしたのは甲申政変である。ここにも日本史のまがり角に朝鮮問題があったことをもう一つ確認できる。「明治」初年の民権、国権、立憲などの日本の近代のいくつかの対応が、国権論に統一して侵略への精神的準備と武装を急ピッチに急いでいくのは、この頃である。例えば、1881年、日本最初の紙幣1円、5円、10円札が発行されるが、この肖像は神功皇后であった。絵を書いたのはイタリア人キヨソネである。

 神功皇后がお札になるのはいったい何を意味するかという問題がある。神功皇后は昔、朝鮮を征服したという日本の架空の「英雄」である。通常一国の紙幣の肖像は国家の顔であり、その国のイメージを担っている。従ってその人がお札になることに朝鮮侵略という日本の国家目的が凝固していると思わざるをえない。ついでにいえば神功の参謀として新羅「征伐」に偉功があったという武内宿彌は、韓国併合後の朝鮮銀行券のすべての肖像画となっている。なぜ日韓会談(予備会談は1951年に始まる)直前に伊藤博文の千円札が登場したのかが歴史的な視点で再検討してみる必要があるのではないか。脱亜論の福沢諭吉がお札になったのは「日韓同伴時代」といわれたときである。

 他意はないと思いたいが、歴史をかえりみると日本の対韓ナショナリズムの影がちらつくのもまた事実である。日本近代史学が、学問の分野で昔、朝鮮は日本の属国であったとして、古代の虚像を「実証」しだしたのもこの頃である。1883年の秋、高句麗の広開土王の碑文が日本にもちかえられ、日本古代史の一級史料として、作為的に解読され、「任那日本府」領有説の根拠になる。その成果をもとに、文部省が88年に東京帝国大学国史科に2年間の委託研究をすることになる。その成果が「任那日本府」を史実とする『国史眼』である(重野安繹、久米那武、星野恒)。これが文部省のお墨つきをもらって、国史教科書となって登場する。1887年教科書検定制度、89年大日本帝国憲法制定、90年教育勅語の発布という天皇制確定の筋みちと朝鮮蔑視排外思想を連動させると、まさにパラレルであることが明らかである。日清戦争はこの日本の侵略の精神的軍事的武装のうえにこそ理解できる。

 82年壬午、84年甲申と保守、開化両派の近代への胎動が失敗に終わった朝鮮では、直接民衆が、歴史に登場する、1894年の甲午農民戦争(日韓戦争)がおきる。この年は日清戦争がおこった年であり、この日清戦争と深く連動している。甲午農民戦争は農民が民族の内部矛盾を自らの力で解決しようとし、反侵略、反封建を明確にうちだし、反封建という意味で半ば勝利した戦争であった。しかし、朝鮮に近代国家が出現するのを恐れた日清両国が出兵介入したのである。外国の介入の危機に直面し、朝鮮農民は民族的英知をもって、ここに英知が輝いているが、農民軍と政府との間の妥協を協議する。身分制の撤廃、土地改革、対日強腰外交を中心とする、十二条の内政改革を具体化することを条件に、歴史はじまって以来政治に参加する。こうして内乱を収めた朝鮮政府は両国に撤兵を要求すると清国は撤兵に同調する。

 しかしあくまで干渉政策に固執し戦争を挑発し、朝鮮革命を挫折せしめたのは日本であった。というのは革命が進行して近代国家ができれば、その政府は必ず反日に向かうだろうし、また清国が介入して内乱を鎮圧しても、日本の国益を損なう。どっちにしてもこの際、干渉しておかねばならぬという判断があってからで、そこでいいだしたのが、朝鮮に内政改革の能力はない、日本が出兵して力を背景に朝鮮の内政改革を日本が実行するという、まことに途方もない要求であった。清国は、当然それは朝鮮の内政問題である、そんなことをするなと反対し、対立が激化する。そうすると日本軍は7月23日にまず、朝鮮王宮の包囲、朝鮮軍の武装解除、撤兵を要求する朝鮮政府の打倒を断行する。いわば朝鮮王朝打倒の日韓戦争である。日清戦争はこうしてはじまったことを知らなければならない。

 清国への宣戦布告は8月1日。一週間前に朝鮮との間に戦争がはじまっている。当時の日本人のなかにはこれを「日清韓戦争」と呼ぶ人もいた。戦線は清国軍を追って北に延びたが、再起した農民軍をねじふせようとして南にも拡大する。この戦争が第二次日韓戦争であることを知らねばならぬ。農民軍の戦死者3万とも5万ともいわれた大戦争である。日本軍につかまった、革命の指導者全琫準は“国を思う赤い心を誰が知ろう”と辞世を残して断頭台の露と消えた。朝鮮の農民は、失った革命を「鳥よ鳥よ青い鳥よ、緑豆の畑におりたつな、緑豆の花がホロホロ散れば、チョンボ売り婆さん泣いてゆく」と歌って逸した革命を悲しんだ。緑豆は全琫準のことである。

 日本ではどうであろうか。内村鑑三はこの闘いを正義の闘いといってはばからなかった。福沢諭吉は「日清戦争など官民一致の勝利愉快とも難有とも云いようがない。命あればこそこんなことを見聞するのだ。前に死んだ同志の朋友が不幸だ。あゝ見せてやりたいと毎度私は泣きました」と自伝に書いている。日清戦争は日本側に唯一反戦論のない闘いであった。福沢にも内村にも全琫準の「赤い思い」などまるでみえない、ここに脱亜論的日本と朝鮮の決定的な断絶がある。日本は勝利に酔い国威発揚、アジア最初の植民地国家になり天皇制の基礎はいっそう強くなった。朝鮮はこの失敗により一路植民地へ転落の道をまっしぐらであった。奴隷と貧困の近代となる。玄界灘断絶は深く険しくなるばかりである。

 そして他民族を圧迫したことが自分たちの歴史にどのようにはねかえるのか、咬竜雲を得たる日本にアジアが見えなくなる(中島利一郎『日本地名学辞典』参照。日本の渡来人名や地名が消える。たとえば朴が東郷になる〔のちの外相東郷茂徳のもともとの姓が朴であったように〕)。差別語、チャンコロ、豚尾、鮮人、ヨボ。ヨボとは朝鮮語のよびかけの言葉にひっかけ、老耄に、ヨボヨボにみえる、国の倒れそうな状態のきたない服装を蔑視した言葉である。“バカでもチョンでも”の“チョン”等々と思いを同じくする、相手が見えなくなった日本語である。その典型的な例として1896年10月8日には、日本公使の三浦梧楼(観樹)がこともあろうに駐在国の王妃閔妃(明成皇后)殺害をおこしているが、省略する。


興国日本の踏み台となって

 日露戦争(1904~5年)は朝鮮支配のための日露両国の戦争であった。しかしわれわれからみて日本がより悪質である。なぜかというと、両国の雲行きがあやしいとみて朝鮮は1月22日に永世中立を宣言するが、その朝鮮の中立を敵視した日本はまず2月8日ロシアの機先を制して、大軍を朝鮮に送り、仁川、ソウルを強制占領した。錦絵には1月にすでに朝鮮占領を描いた絵がある。これが戦争のはじまりであった。宣戦布告は2月10日である。戦争の目的は「韓国の存亡は実に帝国の安危の繋がる所なり。然るに満州に対して露国の領有に帰せんか韓国の保全は支持する由なく極東の平和素より望む可からず」とある、宣戦布告文の内容につきていると思われる。

 朝鮮強占後、日本政府は百万の大軍を派遣、占領の合法化のため朝鮮政府に、条約で占領の事後追認を求めた。これが2月23日の日韓議定書である。第一条は「大日本帝国ハ大韓帝国ノ独立及ビ領土保全ヲ確実ニ保証スルコト」と書いている。そのために朝鮮の領域内で軍事的目的ならどんなことでもできることになった。これは日本が「或ル程度ニ於テ保護権ヲ収ムルヲ得タ」ものであった。つまり軍事占領下におかれたことを意味する。日露戦争はそういう日本のつくった占領の既成事実に対しロシアが反対したものであり、その反対を日本が戦争でたたき引っこめたのが日露戦争である。そして事実、2月から8月までの間に日本が朝鮮に戦争遂行を理由に強要した各種条約協定をみれば植民地化の事実は一目瞭然である。

  一、電信電話郵便通信機関の日本への委譲
  一、京義線、京元線の敷設権の協定
  一、内海及び河川の日本船舶の自由航行権
  一、港湾の自由使用権
  一、日本人沿岸漁業権の拡張
  一、森林伐採権
  一、荒蕪地開懇権

等々。政治軍事のみならず通信、交通、産業、経済など条約によって国権を奪い、朝鮮を丸裸にし、植民地化するものである。8月21日には第一次日韓協定を結び、日本人顧問を政府に入れ、政治の実権まで掌握したことをみればその意図はより明確になる。

 貨幣整理を実施し、まきあげた財産を日露戦争に投入する、軍票は乱発され、軍用賦役を命令する、軍律にそむくものは処断する。朝鮮人の血と汗と財産をこの戦争に徴発したのである。百万近い日本人が朝鮮を体験する。日本人は朝鮮人と接すれば接するほど朝鮮の文化風俗を蔑視し、思いあがり・差別観を強める。「ヨボ、鮮人、賤人」と蔑称、現在の差別意識の原型が完成するのはこの頃である。

 ロシアが朝鮮における日本の優越権を認めた、ポーツマス条約は、こうした軍事占領下での植民地状態の既成事実を国際的に追認したにすぎない。ロシアは条約の第一条で日本の朝鮮での優越権を認め、次にイギリスは揚子江流域の権益を交換条件に、アメリカはフィリピンの独占権と交換に日本の朝鮮支配を支持した。この国際的な帝国主義の大合唱の日韓間の法的確認が1905年11月、伊藤博文の恫喝のもとになされた乙巳保護条約(第2次日韓協約)である。これで日本は世界五大強国の一つになるのである。その後、数万の犠牲者をだして血戦をいどんだ朝鮮人の抗日義兵戦争や啓蒙活動は省略するが、その弾圧後に韓国併合がある。伊藤博文が殺されるのは、この闘いの最中である。

 さて司馬(司馬遼太郎)史観など、「明治の栄光」「明治人の気骨」など、日本では輝かしい歴史のように見る人が多いが、それは朝鮮を欠落させた議論であることがわかる。「征韓論」にはじまり、脱亜論、自由党大阪事件、大東合邦論、日韓戦争、日露朝鮮植民地戦争、「おくれた国の文明・開化に関心をもつより進歩した民族の採用すべき最良の政策、“朝鮮併合”」と形は変わっても侵略方式は詐欺と暴力の一貫した一本線につながっているのが、明治時代である。そして、民権論しかり、福沢のブルジョア民主主義、内村鑑三のキリスト教主義、司馬の栄光史観等日本の内なる「進歩」の側面として、必ず朝鮮がみえないのである。これは法則といえるほどである。

 日本の明治時代は朝鮮との関連なしでは語れない。朝鮮からみた「明治」の45年は、その「栄光」に対極した「悲惨」であり、興国日本の踏み台となった「亡国朝鮮」であり、痛史の時代である。最近の日本で一番よく読まれている人気作家は先の司馬遼太郎であるが、その著作のひとつ『坂の上の雲』が描くのは日露戦争で勇名を馳せた秋山好古、眞之兄弟で、そういう人物を生みだした明治は栄光時代であった。だからその後、「君側の奸」となった軍閥、政治家が国を誤らせたという史観である。確かに日清、日露戦争に勝利した日本民衆の躍動する心を捉えた歴史物語であろう。しかし、その戦争で独立を失った朝鮮はどうなのか、『坂の上の雲』には秋山兄弟のみならず、義兵や啓蒙運動家を容赦なく弾圧するための憲兵警察制度を朝鮮に導入した朝鮮憲兵隊司令官明石元二郎が栄光の人として描かれている。この栄光史観を韓国人はどうみるのか、ギャップは大である。われわれから見れば、文明の基準を西欧に設定し、西欧化しない朝鮮を「野蛮」「頑迷」「固陋」と罵倒し、侵略を合理化し、文明を自認したのが「明治」の栄光である。西欧文化とりわけ軍事技術をいちはやくとり入れ「自己文化圏の自虐的な加害犯」にみえるのである。


韓国併合の意味

 さて次の段階に移ろう。韓国併合は、日本帝国主義の包括的形成を意味する。天皇制・大日本帝国は四つの島でなく大陸の一角を含む68万平方キロの面積と体制内に4千万の異民族をかかえこみ、一面で階級矛盾、一面で民族矛盾をもつ、複合民族国家に転身したこと、日本史の枠組みの拡大を意味する。

 朝鮮は国を失って内在的歴史営為を否定され、日本帝国主義の重要な構成員という仮面をもたされて生きる時代をむかえた。これは「明治期」とは決定的に違う点である。いわばコインの表裏のように歴史を差別的に共有する時代に入ったのである。仮に「大正期」としよう。この時代の特徴は、日本はまず第一に思想的には近似した文化をもち、歴史的影響力を受けた民族の独自性を近親憎悪に近い形で否定した、そこには西欧に対する、劣等感をうらがえした優越感がのぞいていた。「朝鮮の歴史は停滞している」「劣等民族」「事大主義」「平安時代」「他律性」「自立不能」「列強角逐史論」「日鮮同祖」「地勢論」「地理的宿命論」等々あらゆる否定論が妍を競った。それは「駄目な朝鮮」を指導する日本人には、その侵略性を消去する意味を持ったし、朝鮮人には自己が駄目だと思わせ、民族独立をあきらめさせたり、従順さを引き出し、民族の牙をぬいたりする作用をもった。今なお、日本人は朝鮮で良いことをしたと考える日本人が多いのはそのためである。

 第二は天皇に直属し軍事統帥権をもち、司法、立法、行政の三権をもつ総督が、差別と専横を柱にした植民地権力として登場したのである。憲兵支配にみられる極端な弾圧主義がはじまった。憲兵は武力を背景に官治主義、監督主義、干渉主義、暴圧主義を強要して朝鮮人の生活に介入した。例えば「憲兵ハ地方検事正ノ要求アルトキハ其ノ地方法院支所ノ検事ノ職ヲ取扱ヒ」「拘留叉ハ科料ノ罪、三ヶ月以下ノ懲役、百円以下ノ罰金ニ処シ」犯罪即決令によって判事でもあった。「其ノ職務ヲ執行シ得サルトキハ兵器ヲ用フル」ことも可能であった。いってみれば朝鮮の法と秩序が一憲兵の品格と同価の支配であった。これは封建時代の代官となんらかわらなかった。朝鮮総督寺内正毅は集会、結社言論の自由を奪ったのち、朝鮮人は「わが法規に服するか死か」、いずれかであるといった。こうして手も足も出ないようにしたところで、土地調査、森林調査の土地をとりあげ、会社令による企業抑圧、鉄道道路の建設等、日帝の物質的土台が築かれた。

 時あたかも「大正デモクラシー」の時代である。日本国内の世論はこの寺内の暴虐な軍政統治に無関心であった。3・1独立運動以後ごく一部の人がもっとよい待遇をといい、軍閥支配への批判はあったが、当初は皆無に近かった。

 併合まではあしきにつけ「朝鮮論議」は、さかんであったが、植民地直轄支配となった「奴隷の朝鮮」には無関心であった。たとえば全国一の部数を誇り、藩閥支配批判の強かった『大阪朝日新聞』の社説の例にとると朝鮮論は1913年(2回)、15年(1回)、16年(2回)、18年(1回)の計6回にすぎない。逆に中国問題は13年(41回)、14年(29回)、15年(63回)、17年(85回)、18年(31回)となっている。これは日本の中国侵略が朝鮮との重層的関係につながっていることを示す。

 しかし一方、この時代こそ朝鮮敵視論、否定論の極致であった。なぜなら対外問題でなく国内問題としての朝鮮の問題は、政策論としてではなく、治安問題としてのみ登場するからである。日本の朝鮮支配の優越性が架空のものであり、なんら内実に支えられたものでないことは支配者自身がよく知っていた。ハリネズミのように武装した総督府権力は2000万民衆の怨嗟の目に包囲された孤立した権力であることを十二分に承知していた。その弱さのゆえに武断軍政であった。その彼らは朝鮮人を劣等とはばからなかったが、どんな意味でも朝鮮人がそれを受容したことはなかった。


徹底した敵視迫害政策

 独立運動は光復会、国民会のように国内国外で武力闘争の形でつづけられていたし、これに対する敵視、迫害、圧殺が、日本の基本的対応であった。異民族を体制内に引きずりこんだおかげで、日本権力はつねに反抗におびえていた。「大正期」の日本語で最大の頻度でくりかえされた、朝鮮関係の用語は、支配の不安を反映した監視、敵視、圧殺の言葉であった。すなわち、暴戻・不穏・不逞の形容詞である。暴徒・忘恩の徒・背信者・陰謀集団・帝国の版図をうかがう「不逞鮮人」、という具合である。不穏文書・不穏印刷物・不穏思想・不穏言動・不穏唱歌・不穏事実・不穏書類・不穏言辞・不穏詩文・不穏請願文・不穏通告文・不穏演説・不穏企画・不穏教科書等、憲兵監視下の朝鮮人の生活は不穏にみちているものだった。単純な小作問題でも朝鮮人は「性貪欲にして常に小作人を苦しめ金銭問題に関し、絶えず訴訟或は紛争を惹起し為に官民一般の信用なき」人間となって描かれる。日本商人とのトラブルを排日思想とし、学校が下駄を廃止すれば排日学校となる。

 そしてその不穏、不逞の被害者は日本人であり日本国家である。朝鮮は陰険でけしからぬ敵国の地となる。子どもが泣くと朝鮮人がくるという母親が出てきた。民族対立のうむ慢性不安症におちたのである。この頃から増大する在日朝鮮人は治安の対象でしかなかった。

 朝鮮人が奴隷にあまんじていれば「劣等」といい、一面劇的な生きざまを歴史にぶつければ「忘恩の徒」であり、否定したものがみなおしを迫られたときには、うろたえと特別な狂気があらわれるのが、この特徴であった。3・1運動や間島事件、関東大震災の惹き起した民族対立と虐殺のパターンはまさにこうした否定と肯定の谷間におこった排外主義の「狂気」である。私はそれを「宣戦布告なき戦争」とネーミングしようと思っている。

 1919年3月1日ソウルおよび朝鮮北部の23の都市に集まった人々が独立宣言文を読み、熱烈な演説をし、独立の意志をあきらかにした。ある者は旧韓国旗をうちふり、ある者は韓国軍の制服でおどりだした。愛国歌が流れた。そしてまたたくまに全国津々浦々をまきこんでいった。一部の地域では、つみあげられた憎悪が石やこん棒で武装した暴動に突入していった。総督府は仰天し狼狽した。彼らの権力が他人の秩序を横領したよこしまな権力であるがため、また常に敵意ある多数者の中の少数者を代弁した植民地権力であるため、なおさらそうせざるをえなかったのであるが、彼らが頼るものは暴力以外になかった。自分たちの朝鮮での合法性の支えは暴力以外に見いだせなかった。

 総督府の反応はどうだろうか。これはおそろしい。「必ズ鎮圧ノ目的ヲ遂ケ得ル確固タル決心ノ下ニ兵器殊ニ小銃ヲ使用スルヲ最良トスル」という激しい敵意の対決であった。女子どもを含め身に寸鉄をおびない朝鮮民衆に対し、支配転覆の不安におののく「断固タル決心」の対応がどんな惨状になったかを示すために、3・1運動の一つの記録を示してみよう。


3・1運動の弾圧(植民地戦争)

 これは平安南道の孟山という所の例である。日本の憲兵隊が陸軍省に宛てた報告は次のとおりである。「平〔安〕南〔道〕孟山ニ再ビ天道教徒100、憲兵分遣所ニ突入暴民約50死傷ス」。非常に簡単な電報である。そして次に詳報がある。それによると、「暴徒ノ死傷ハ事務室ノ内之其ノ前ニ於テ銃弾ニ命中シ即死シタルモノ51名ニシテ負傷及逃走シ途中ニ於テ死亡セル者3名死者数54名、負傷者13名ニテ負傷者ハ受傷後逃走セリ」とある。朝鮮側の記録は「一気に60余人が射殺された、命ある者も銃剣でとどめを刺された」としている。わずか100名の示威行進、そのうち67名の死傷者を出した。即死が54名に及んだ、この弾圧は憲兵が射撃の名人ばかりだとしても異常に高い死傷率といわざるをえない。憲兵が戦場と同じ敵意をもたぬかぎり、ありえないことは明確である。

 この必殺の敵意とは、では何か。それはすでに述べたように自己の権力が転覆される恐怖である。これはなにも孟山だけの特例でなく朝鮮全土で頻発したのである。日本官憲自身も、のちに「軍隊ノ行為ハ遺憾ナガラ暴戻ニ渡リ且ツ放火ノ如キハ明ラカニ刑事上ノ犯罪ヲ構成ス」とのべている。暴力、殺人、放火は全土に広がった。この日本の対応が何を意味するかといえば、被支配者朝鮮人が従順で奴隷である限り、朝鮮支配は「平和」であるが、しかし、ひとたび自己主張した、独立を主張した、それに対応する論理は戦場の論理である。それしかない。ただちに抹殺の場となる。植民地体制というのは、いわば休止した戦争の側面をもつ。それが植民地支配の本質であるという姿が見えてくる。植民地というのはそういうものだということがよくみえてくる。

 3・1運動の過程でどれだけ多くの犠牲が出たのか二、三の数字をあげてみる。1919年3月1日から20年3月までの一年間、死者7646名、負傷者4万5552名、被逮捕者4万9811名、放火785棟に及んでいる。負傷者のなかに不幸にして目や四肢を失い不具者になった者も多い。また被検束者への苛酷な拷問も忘れてはならない。縛りあげ天上につるし、焼火箸のおしつけ、爪の下への釘さし、鼻からの水の注入、女性への性的拷問など人間を家畜視しない限り出来ない拷問であった。安城で負傷者の写真をみた。

 1918、19年には東アジア三国に、同じような国家権力に対する民衆の闘いがあった。一つは日本の米騒動、一つは中国の5・4運動である。ところが日本の米騒動は戒厳令も出ない。日本人は軍隊の馬にけとばされたことはあるが、死者はいない。5・4運動、これは半植民地中国だが、権力は学生を多数逮捕するが、人殺しはしていない。これを朝鮮人民の受けた犠牲と比べてほしいと思う。単純に犠牲が多いことを強調するつもりではないが、同じ時期、同じ権力に対決した闘争でも、本国民衆、半植民地民衆ともちがった膨大な犠牲者に植民地の特質があった。鋭い民族問題が露呈していると思われる。そしてそこから暴力以外に支配のすべてをもたない日本帝国主義権力の弱さがよくみえてくる。

 虐殺は続く。1920年、隣国中国の主権を犯して、旧満州に流出した朝鮮農民に対する大虐殺、いわゆる間島虐殺は3・1の「満州」版である。事件は日本史にはほとんど無視されている。この時、5000人近い農民が日本軍の軍事作戦によって殺されている。惨状の実態を一つだけ紹介しておこう。「十月二九日、日本軍数百名ハ、突如トシテ延吉県細鱗河方面ニ至リ、韓人家屋数百戸ヲ焼キ韓人ニテ銃殺セラレタル者夥シ。又翌三十日午前八時三十分延吉県街ヲ距ル約二里帽山東南青溝付近韓人部落七十余戸ハ日軍ノ為ニ一炬ニ付セラレ、併セテ五百余発ノ銃弾ヲ発射シ、同村ヲ包囲攻撃炬炬セリ。同村居住韓人三百余名ノ中、辛シテ遁レタルモノ僅カニ四、五名ノミ。其ノ他ノ老若男女ハ火ニ死セスハ銃ニ傷ツキ、鶏、犬タリトモ遺ル所ナク、屍体累々トシテ横リ、地ニ滿チ、血ハ流レテ川ト成シ、見ル者涙下ラザルハナシ」(『震壇』第2号)で、4000人の死者がでた。ちなみに1914年8月23日、日本の対独宣戦布告以降の植民地民衆の反乱を基本矛盾とした戦争を、朝鮮派遣軍は「大正三年及至九年戦役(西伯利出兵、第一、第二次朝鮮騒擾事件)間島事件」と把握している。一派遣軍とはいえ、このネーミングの内実は重く深い。

 さらに1923年7000名に近い朝鮮人の命を奪った、関東大震災の白色テロルはこうした民族対立の日本版である。3・1と間島の違いは日本民衆が直接虐殺に加担したことである。その理由を作家中西伊之助は次のように述べている。「試みに、朝鮮及日本に於いて発行せられている日刊新聞の朝鮮に関する記事をごらんなさい。そこにはどんなことが報道せられていますか。私は寡分にして未だ朝鮮国土の秀麗、芸術の善美、民情の優雅を紹介報道した記事を見た事は殆んどないといっていいのであります。そして爆弾、短銃、襲撃、殺傷――あらゆる戦慄すべき文字を羅列して所謂不逞鮮人――の不法行為を報道しています。それも新聞記者のあれこれの誇張的な筆法をもって……この日本の記事を読んだならば朝鮮とは山賊の住む国であって朝鮮人とは猛虎のたぐいの如く考えられる」(『婦人公論』1923年11・12月号)といった、日本社会の先入観があったため日本民衆の積極的な虐殺加担をうみだしたのである。官民一体の民族犯罪といえよう。この三つを連動して考えたとき、まさに植民地支配のコンクリートうちの時代とは、日本の中の民族対立、「15円50銭」の詩にみられるように朝鮮人が朝鮮人であるということだけで、生命が奪われる惨劇の時代であった。


内なる民主主義、外なる排外侵略主義

 さて、3・1運動、間島侵略、関東大震災といった一方的民族迫害が「大正期」の短い間に集中したのは、日本史にとって何を意味するのか。これこそ朝鮮領有後の日本が民族矛盾をかかえ、民族対立におびえている帝国主義国家であることを示している。時あたかも日本は「大正デモクラシー」を謳歌していたが、日本の知識人では民本主義者吉野作造や民芸家柳宗悦など、若干の人が民族迫害の野蛮な風潮に鋭い批判をなげかけ、反省と理解を訴えているが、大部分の人はこの大日本帝国の「異法地域朝鮮」で吹き荒れた暴虐な嵐に首をすくめ、目をつぶり、デモクラシ―のあだ花に陶酔したのである。「15円50銭」と言えといって殺した関東大震災でも、社会主義者の追悼はしたが、朝鮮人は除外した。内なる平等、民主主義、外なる差別、排外侵略主義の図式が問うものこそ日本近代史の特質である。「大正デモクラシー」を考えるなら、この問題をきちんととらえる必要がある。内村鑑三は何一つ発言していない。独立要求の正当性を言う人はただの一人もいない。 

 一方、3・1運動の体験から武力のみで民族運動を押さえ切れない教訓を引きだした日本は、その支配政策をいわゆる「文化政治」の意味する老獪な懐柔的な方向で調整してきた。言論、集会、結社の抑圧はみせかけ程度であるが、緩和してきた。朝鮮自治論、民族改良論、大日本帝国内での朝鮮人の地位向上、などが一視同仁という天皇の言葉と結びつき、幻想をばらまきはじめる。民族主義者の一部は当然この軌道修正の罠にかかり、民族主義に分裂をもちこむものがあらわれ日帝の防波堤となった。その意味である程度成功した。朝鮮の民族運動はこうした現実をふまえ、ブルジョア民主主義から次第に社会主義労農大衆のなかに移り、数次にわたる共産党事件や労働争議、小作争議、光州学生運動、元山ストなど大衆運動を昂揚させ、やがて旧満州での抗日パルチザンの形態に発展していく。

 大事なことは、植民地支配が朝鮮に朝鮮人が住めないという状況をつくりだし、多くの朝鮮人が日本や「満州」に流れていくことである。流移民という言葉がふさわしい。この頃から南部の農民が労働力として日本にいく。一方、「満州」国境に近い農民は田畑を求めて旧満州に流れ、その人口は200万を越え抗日パルチザンにも参加する。当然、「満州」の治安は乱れ、朝鮮の国境線を侵すようになる。こうした独立運動の昂揚は日本の朝鮮支配をあやうくしていく。こうした矛盾に悩まされる日帝はより安全な植民地支配をめざし、その緩衝地帯として「満州」の直接支配をねらい、15年戦争へのめりこんでいく。

 これを仮に昭和初期としておく。1931年の中国侵略戦争は、中国革命、日貨排斥など、中国の民族運動と日帝の野望という対抗関係だけでなく、もう一つ重要なことは、朝鮮支配の矛盾が旧満州に拡大した側面にある。200万の朝鮮人が「満州」に流れ出し、中国との間にさまざまな紛争をおこし、また朝鮮独立運動を刺戟したことが背景にある。

 「満州」侵略戦争の一つの契機は「万宝山事件」である。朝鮮農民の土地商租問題の処理がいかに重大であったかは当時の国際連盟のリットン報告書を一つ読めば一目瞭然である。リットン報告書の半分は「満州」での朝鮮人土地問題を扱っており、それが中国との紛争であると書いてある。またそうした観点に立たなければ、「満州」で朝鮮人の抗日パルチザンが、独立運動がなぜあのように執拗に闘われたかの意味もつかめない。朝鮮総督府の統計によると抗日パルチザンは1931年9月の15年戦争勃発以来、36年6月まで「対岸地方」つまり「満州」」の「匪賊」出没回数2万3926回、パルチザンの延人員136万9027人に達している。これはもう水準の高いゲリラ戦争である。そしてこの戦争が、日本との複雑なからみあいをもった朝鮮のもうひとつの建国の歴史でもあったことを忘れてはならない。


治安維持法と朝鮮人

 さて、またこの時代の日本は、暗い谷間に入る。ファシズムの暴圧の例として、治安維持法をあげる人が多い。治安維持法は、国体の変革と私有財産制の否認とを目的とする結社やそれへの参加を処罰する法律で、もっぱら共産主義者取締のためと説明されているが、のちに自由主義や平和を主張する者も圧迫迫害された。

 しかし、この法律適用の最大の目的は国体の変革を意図したとして、朝鮮独立運動に適用することだったことを指摘しておきたい。朝鮮独立の企図はイデオロギーとは無関係に天皇の領土を望む「不逞」であり、国体の変革そのものと規定されていた。朝鮮人の民族主義者は、この法律によって武器所持等の罪が複合され民族的偏見が加重され、死刑が続出した。悪法であるが死刑は出さなかった、日本的なよい法律だったと弁護したのは風見鶏学者の故・清水幾太郎氏であるが、朝鮮独立運動家は複合罪で多数の死刑者を出している。清水氏はここでも内と外をつかいわけているのである。つまり、法律適用の最大の犠牲者が朝鮮人であったことは、一面当時の日本国家が何を一番危険だと考えていたかを反証しているといえよう。それは決して階級問題ではなく、民族問題なのである。


戦時下「皇国臣民」に

 次に37年の中日戦争下の状況について述べておきたい。

 中国との泥沼戦争が世界大戦になっていく状況で、日本国民は「国家総動員法により戦争に協力させられ、多くの被害を出した」。これは日本史の本が書いているとおりである。しかしより重要なのは、何ら戦争に責任のない朝鮮が大陸兵站基地にされ、朝鮮民衆が日本の戦争のため協力を強制されたことである。日本の鉱山や土木現場、軍需工場で朝鮮人のいないところはひとつもなかった。そして地獄の苦しみをなめたのは、まさに戦争に責任のない朝鮮民衆だったのである。70万とも100万ともいわれるがよくわからないのが実状である。

 昔の日本地図を思い出していただきたい。戦争でうちたてた日本の勢力範囲を色別している。見た人も多いと思う。朝鮮は日本と同じ赤色でそめられている。中国が黄色、旧満州国がピンク、というのが多い筈だ。この日本と朝鮮が同じ赤色で書かれたことの意味するものこそ、大陸兵站基地のもう一つの側面である、人的資源まで動員対象とする範囲をあらわしたものであった。

 日帝は朝鮮の人的動員をはかるため、徹底的な同化政策を強行した。先程述べた3・1以後、民族主義者の、左右分裂の助長をテコに一方で弾圧と一方で忠良従順な準日本人づくりをはじめる。とりわけ1936年関東軍司令官南太郎大将が総督に赴任してから、あらゆる政策に「皇国臣民化」をにじませてきた。1937年の「皇国臣民の誓詞(誓い)」はまさに日帝下、朝鮮人の精神のあり方を規定した踏絵である。

 至誠一貫次ノ三ヶ条ヲ順守シ皇民タルノ道ヲ実践スベシ。これではじまるのである。

  一 私共ハ日本帝国ノ臣民デアリマス。
  一 私共ハ心ヲ合セテ天皇陛下ニ忠誠ヲ尽シマス。
  一 私共ハ忍苦鍛練シテ立派ナ強イ国民ニナリマス。

 このようなことを毎日斉唱させる。そして日本式氏名、創氏改名である。日本語の常用と朝鮮語の使用禁止、朝鮮の民族服の排除、朝鮮服は白い服だが、それを排斥し、色衣が奨励される。神棚が配給され神社参拝、東方(宮城)遙拝が義務づけられた。大和魂注入のため、みそぎも奨励された。寒い冬、水のなかに入ってふるえるのである。まさにこのうごきは狂信的、神がかったものだった。そして一視同仁、内鮮一体、内鮮通婚(朝鮮人と日本人の婚姻だが)などのスローガンが氾濫した。

 皇民化運動は長期的には差別と支配の永久化を、短期的には朝鮮の人的資源の戦力化をめざしたものであった。こうした諸政策と連動して1938年2月陸軍志願兵制の施行、同年、国民精神総動員朝鮮聯盟の発足、国民徴用令の施行、徴兵制の適用とエスカレートしていった。これがいかに総督府の役人たちのお気に召したかは、参考までに朝鮮総督府が1941年に制定した6学年用の『初等国史』から引用しておこう。

「とりわけ陸軍では特別志願兵の制度ができて、朝鮮の人々も国防のつとめをにない、すでに戦争に出て勇ましい戦死をとげ靖国神社にまつられて護国の神となったものもあり、氏を称えることがゆるされ、内地と同じ家の名前をつけるようになりました。今日では朝鮮地方二千三百万の住民は国民総力朝鮮聯盟を組織し、一斉に皇国臣民の誓詞をとなえて、信愛協力し内鮮一体のまごころをあらわし、忠君愛国の志気に燃えて、みなひとすじに皇国の目あてに向かって進んでいます。とりわけ支那事変がおこってから、朝鮮地方の地位がきわめて重くなり、大陸前進の基地として東亜共栄圏を建設するもとになり、わが国発展の上に大きな役割をになって内鮮一体のまごころはますますみがきあげられて、日に月に光をそえてゆきます」

 植民地権力がおくめんもなく、このような歴史を朝鮮の子どもに教えこんだことは、一面ではそれだけ支配が深まったことを意味する。そしてねじふせられ、傷ついた一部少年が醜の御楯を志願し、「みずくかばね(屍)、草むすかばね(屍)」になったものもでてきた。ちなみに、アジア太平洋戦争下の朝鮮人軍人21万、軍属16万に達し、うち、戦死行方不明は15万名にのぼっている。「従軍慰安婦」も膨大な数であった。女子挺身隊とか看護婦の名目で連行された朝鮮人女性は日本軍のどんな前線にもいた。作家がいろいろ書いている。軍人で朝鮮女性に世話にならなかったものはいないだろうといわれている。このことは、日帝の朝鮮支配は精神の面まで踏みこんできたことを意味する。中国は朝鮮の二の舞とならないために、抗戦した。闘いのある限り犠牲は大きいが、精神的には健康であった。朝鮮はねじふせられ、それに精神の面にまでふみこまれてもなお生きなければならなったところに、日本と朝鮮の間の歴史の溝の深さがある。中国よりきびしい。なかなか清算できない、日本と中国との関係はカラッとしているところがあるが、なかなかカラッとしない問題がある。

 しかし皇民化政策で三文字の名が四文字になったからといって、日本化したのは少数であった。大部分の人は面従腹背で嵐のすぎるのを待ち、生きるために意にそまぬ協力をしたにすぎなかったのである。それは1945年8月、日本敗戦直後の歓喜の状況をみていただければよくわかる。決して心から協力したわけではなかった。

 その証拠に、数十万の朝鮮人を動員した軍部は決して朝鮮人部隊を編成しなかったし、適当に分散配置させ、朝鮮人兵士を孤立の状態においた。それでも朝鮮人兵士のたえざる脱走にくやしがった。これはイギリスが、グルカ兵を一つにしたり、アメリカが日系442部隊をつくったりしたのとはまったくちがう。海軍は1944年までに朝鮮人兵士の乗艦を拒否した。なぜかというと、一人の不始末のために艦もろとも沈む。その「不心得」とはなにか、朝鮮人の民族主義であり、それへの警戒心である。海軍は陸軍より合理的といわれているが、その点では先が見えていたわけである。1945年になると乗艦を許した。だが、このときはのるべき船がなくなるのである。

 日本への強制連行も同じである。手続きをして納得づくで渡来したというよりは、炭鉱の労務係が憲兵と共に来て、トラックをもって町を歩いている者、あるいは田畑で仕事をしている者を手当たり次第、役に立ちそうな人を片はしからそのままトラックにのせ船で日本に送った。「徴用というが人さらいですよ」と語る人がいる。強制連行である。

 これらの人は、日本の鉱山をはじめ各種の軍事施設の建設など「銃後の戦士」として、肉体をすりへらしたことはいうまでもない。1945年当時、日本にいる朝鮮人は、250万を数えた。このうち170万は1938年以降の渡航であった。

 それもほとんど若者である。いかに大量の人口移動があったかがわかる。当時の朝鮮の人口が2300万人であったことを考えればなおよくわかる。

 もう一つ付言しておくことがある。戦時経済のうえからいっても朝鮮の役割は巨大であった。例えば貿易が断絶した状況で、1943年の朝鮮の鉱物資源が日本の全生産高で占める比重をあげると、黒鉛、雲母、重硝石、マグネサイトは100%、重石88%、モリブデン85%、螢石95%、鉛60%というおどろくべき数字である。このほか、鉄、金、石炭、タングステンなど、日本の地下資源の総量に対するパーセンテージは巨大であった。

 食糧もきわめて重要であった。1941年は朝鮮の米の生産量の41%、42年は45.2%、43年は55.7%、44年は63%ももちだされた。その間は朝鮮人はくうのもくわず、「満州」からの豆カスなどを代用した。朝鮮や「満州」の食糧がストップした戦後の深刻な食糧事情を考えるだけで、朝鮮米の日本の食糧事情に占めた役割の大きさはわかるであろう。


日本人に植民地支配への反省はあるのだろうか

 こうして日本の敗戦、朝鮮の解放をむかえるが、以上のような両民族の歴史的なからまり、それは相互に葛藤し、規制しあってきたが、主として近代では日本が一方的にしむけたものである。朝鮮史はその圧力に抗しながら盆栽の松のように歪曲された歴史へと発展した部分も多い。日本史もまた植民地を領有したためにねじまがり、矛盾を拡大したことも多いのである。

 このからまりの歴史が戦後完全に一方的にバラバラに解体され無視され、ある日突然に在日朝鮮人は「第三国人」となり、外国人とみなされ、サンフランシスコ講和条約後は外国人という理由で差別をうけるようになる。

 日本は70余の戦時補償法を日本「国民」に対してつくるが、ともに戦時を闘いともに戦災にあった朝鮮人は、外国人という一方的な理由で外された。国籍選択の自由はなかった。犬の鑑札のような外国人登録証をもたされ、日本列島の囚人のような扱いを受けてきたのだ。ここにも内と外の使い分けの日本史の特質が生きているといわなければならないであろう。

 そういうことで、いろいろ考えてみると日本は、日帝下植民地人がなめた精神的、物質的苦痛は、本国の民衆の苦痛とも質的に違うことを少しもわかっていないのである。特別にしろとはいわないが、少なくとも平等であってほしい。いつも考えることがある。かつてグアム島やルバング島で日本の敗戦を知らずに戦争を継続した小野田寛郎少尉、横井庄一伍長の生還に対し、日本国民は熱狂的に歓迎をした。生命力の偉大さ忠誠心をたたえたことがある。

 私はその同じころ、同様にインドネシアで30年闘って帰った、台湾人原住民の中村輝夫(創氏名)一等兵への日本人の対応を思いだし、台湾出身の皇軍兵士の赤誠に対する日本世論のあまりに差別的な対応に怒りを覚えた。植民地支配の何たるかがわかっていないのであった。この人はわずかな戦時中の軍人給料をもらった。あまりだというので、時の三木武夫首相ら関係者がポケットマネーをだしたそうである。台湾に帰ったら、おくさんは再婚して帰る家もない。台湾政府は対日協力者ということで冷たい。死んだそうである。日本には植民地支配の反省がないことの好例である。フランスとかイギリスなど植民地をもった国が、みんなこうしているのか調査してみる必要があろう。

 中国へ残した戦争孤児への暖かい目をもつ心やさしい日本に心うたれるものがある。しかし同じ頃朝鮮、台湾出身日本兵の戦時補償要求に対して平気でNOという神経がわからない。彼らは日帝時代同じく日本人であり、そのため兵士になった。「満州」に行ったのは武装移民であり、日本人である。台湾の人は裁判の道があったからまだよい。朝鮮の北半分にいる人たちのことは目にも入らない、同じく植民地支配をうけた。そこにもかつて日本人にされて、国債や郵便貯金や労働報酬やらをかかえて未解決のままでいる、大勢の人たちがいるのである。日本と朝鮮のこのような関係は事実である。そして歴史的に形成されたものである。この事実を大多数の人が知らないことからこのようなことが未解決のまま放置されるのである。もし知っていたら、このようなことは許される筈がない。

 例えばある一時期、14歳の子供に指紋を強制することがあった(注・1982年まで)が、それは犯罪である。試みに思え、日本のみなさんが、自分の子どもがもし14歳になったら指紋を押さなければならぬとしたらどう思われるか。

 朝鮮人の子はみなさんの教え子であったり、自分の子どもの友だちであったりするわけである。そういう子が指紋を押さなければならない。どうしてそういう法律があったか知るべきである。そういう法律をつくっていた日本政府にもっとものをいうべきである。われわれはものがいえない。選挙権がないのである。やはりこれは不公平である。なんで朝鮮の子が14歳になると犯罪予備軍のように指紋をとられ、傷つかねばならぬか。外国人全部というが、この当時は90%が朝鮮人である。これはあきらかに朝鮮人を治安対象にしたものである。

 最後に、こうしてみると戦後日本社会は他者を差別、排除することで成り立つ「身内」の世界である。身内同士には優しく、人々はこの「以非同類価値観」に浸っているようで、この底には戦後破産しかけた日本は他国と違うという皇国史観があり、その日本の流れのまがり角に、必ずある時はつまづきの石となり、ある時は覚醒の石ともなるべき朝鮮問題があった。それは法則的といってもよいことが再確認できる。


おわりに

 さて現代日本の拉致騒動、朝鮮バッシング、愛国心の昂揚ではじめた小論をどう締めくくるか、今の日本ではすでに述べてきた流れとは逆にいわゆる韓流ブームなるものが中年の女性たちを中心に広がっているではないかと問われることが多い。朝鮮人のニンニクは臭いがイタリア人のニンニクは香気?と言われた時代を知っている在日二世の体験からいえば、韓国人俳優がテレビのコマーシャルに登場、キムチがブームとなることは歓迎すべき現象である。韓国の民主化、経済発展、大衆文化の開放が背景にあり、双方の往来が何百万人単位になったことの所産である。

 しかし韓流の中味を検証してみると視覚、聴覚、味覚に限定されているようである。

 綺麗だ、リズムが良い、美味しいの世界である。欠けているのは知的な理解である。若い人の中には韓半島が日本の植民地であったことを知らない人も少なくない。韓国と朝鮮(北)が一つの国家、一つの民族であることを知る人はもっと少ないのが現実である。

 教えられないからである。したがって美しい、美味しいの範囲から離れ、独島(竹島)問題、「慰安婦」問題、強制連行問題、靖国問題、教科書問題などになると韓国はなぜ文句をいうのか、何回謝ればよいのかという反発となる。「嫌韓論」がベストセラー本なのも、もう一つの現実である。

 これこそ日本社会が過去を直視しないことから生ずるいらざる摩擦である。無知が過去を温存させ、恥を知らない人が過去の「栄光」再現に加担しない保証はない。 

 知ることが心の問題に帰結することを考えれば、今の韓流ブームを喜んでばかりはいられない。韓流ブームを支える民衆が「嫌韓論」、朝鮮バッシングをしているねじれがあるからである。

 いまひとつ最近、日韓双方に昂揚するナショナリズムは「非」と主張する人がいるがナショナリズムはその民族の歴史発展に従ってその性格を異にする。

 日本のナショナリズムは幕末、明治以降、常に攻撃的であった。韓国は反対に防衛的であった。「両非論」の一般化は歴史の事実をねじ曲げてはじめて成立する。こうした主張が、日本人某が韓国名で書いた『醜い韓国人』や金完燮『親日派のための弁明』(草思社。日本語翻訳者は、拉致キャンペーンを張っている会のリーダーである荒木和博ほか一名)、呉善花の各種「文化論」が、韓国人がこういうことを言ったとして歓迎されたのと同じ意味で、日本社会から歓迎されていることを知らねばならない。              
  • 2008.12.01 00:00 
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> 論文・エッセイ

金光翔「小林よしのりと佐藤優の「戦争」について」 



「辺見庸の警告と<佐藤優現象>の2つの側面」(以下、前回記事と略)でも少し触れたが、佐藤優と小林よしのりの間でこのところ、激しいやりあいが行われており、双方が連載を持っている『SAPIO』の最新号(2008年11月26日号。11月12日売。小学館発行)では、小林が自身の連載「ゴーマニズム宣言」で佐藤を「言論封殺魔」として攻撃し、佐藤が自身の連載「SAPIO intelligence datebace」の欄外で小林とのやりとりについて言及している。

ところで、そこでの佐藤の記述から、面白いことが導き出せるので、取り上げておこう。

佐藤は、小林とのやりとりに関する事実経過を以下のようなものだと主張している。

「①「わしズム」2008年春号(4月発売)の「ゴーマニズム宣言extra」の25頁に私の写真を2か所にわたって掲げた上でそれぞれ「本土の知識人には馬鹿な奴がいて」、「猫なで声で沖縄マスコミに擦り寄る、偽善的な本土の知識人」という記述がなされた。②これについて7月12日付琉球新報朝刊で私が言及した。③7月31日、飯田昌広編集長より①の「記載については、配慮が足りなかった。以後気をつける」との遺憾の意が表明された。④本誌8月20日・9月3日号の「ゴーマニズム宣言」に私に関する言及があった。」

ここの③で挙げられている飯田昌広とは、『SAPIO』編集長であり、前回記事で取り上げた佐藤の、『SPA!』の文章(「佐藤優のインテリジェンス職業相談 第1回 第2回」『SPA!』2008年9月23日号)で、批判されていた人物である。

『わしズム』の件でなぜ飯田が「遺憾の意」を表明しているかの検討は、後で述べるが、ここで注目したいのは、前回記事で書いた私の疑問、すなわち、佐藤は、自分が『SAPIO』編集長へ攻撃していることを、あえて可視化させるために、『SPA!』で書いたのではないか、という疑問について、ここでの佐藤の記述が、裏付けしてくれる材料になっていることである。

佐藤が、小林の「デタラメ」な佐藤批判を載せた(上の記述では、④のこと)として『SPA!』で飯田を攻撃する前に、同様のケース(①)で、飯田が佐藤に「遺憾の意」を表する、という事態を経験していることからすれば、同様のケースで飯田が佐藤に謝ってきた前例があるのであるから、仮に④について佐藤が飯田に謝罪を要求した場合、ましてや今回は飯田が直接に責任を持つ『SAPIO』誌上のことでもあるのだから、飯田がより容易に佐藤に折れてくることは佐藤には分かっていたはずである。

また、③の記述は、佐藤自身が、自分が裏で飯田に圧力をかけていたことを認めているに等しい。私は前回記事で、「佐藤が『SAPIO』の編集長に圧力をかけたければ、本来ならば別に『SPA!』に書く必要はなく、裏で直接やればいいのである。公開でやれば、宮崎のような反発が出るのは自明であろう。佐藤が出版社と裏で手を打つことに何ら躊躇しないことは、以前このブログで書いた、『インパクション』編集長と佐藤の手打ちが何よりも雄弁に語っている」と書いたが、何のことはない、『わしズム』の記述に関しては、既に「裏で直接」やっていたわけである。小林も、『SAPIO』の上記最新号の「ゴーマニズム宣言 第36章」で、

「『わしズム』はわしが責任編集長なのに、「言論封殺魔」(注・佐藤のこと)は、発売されると直ちに「SAPIO」編集長に電話をかけてくる。こんなデタラメな話が許されるのか?」

「「言論封殺魔」(注・佐藤のこと)は「SPA!」9月23日号で書いた通りに、「事実関係で相手をぎりぎり締め上げ」たり、「ねちねちと何度も質問状を出す」手口で、版権引き上げや出版計画の撤回など、あらゆる圧力を小学館にかけている」

と書いている(注)

『わしズム』『SAPIO』または他誌で反論すべき件にもかかわらず、こんな形で「言論封殺」を行う佐藤の卑劣さには、改めて呆れるほかないが、ではなぜ、佐藤は『SAPIO』編集長への批判をあえて可視化させたのだろうか。その理由として、前回記事で私は、佐藤の自身の本の売上部数低下への焦りによる、<出版社に圧力を加えることができるほど佐藤の本は売れている>という表象を作り出そうという意図を挙げた。

私は、今回、『SAPIO』最新号を読み、もう一つの理由が考えられることに気づいた。すなわち、佐藤は、『SAPIO』編集長への恫喝を可視化させることによって、仮に今後自分への批判を載せれば、同じような目にあわせるぞと、他誌の編集長や出版社に警告しているのではないか。『SAPIO』編集長への恫喝は、そのための見せしめなのではないか。

これには前例がある。佐藤による、『AERA』 記者への「公開質問状」が、どんなに控えめに見ても佐藤の過剰反応であることは明らかである。だがそれは、むしろ、「過剰反応」と思わせるところに狙いがあるように、私には思われる。『AERA』 記者への「公開質問状」や、『SAPIO』編集長への恫喝を見れば、雑誌の編集長は、佐藤への批判的見解を誌面に掲載することを躊躇するだろう。言いがかりをつけているとしか思えない佐藤のこれらの反応自体は馬鹿げたものであり、これ自体が単なるハッタリである可能性が高いのだが(後で触れる、佐藤の岩波書店への恫喝とその後を参照)、いずれにせよ、ほとんどが単にサラリーマンであるに過ぎない雑誌の編集長が、佐藤とトラブルになることによって、会社に迷惑を及ぼすことを避けることは明らかであるし、出版社が佐藤の本を刊行している場合は、ますますそうである。そして、大手誌のほとんどは、佐藤の本を刊行している。

何度も書いてきているが、佐藤優バブルは、「佐藤さんはすごい」といった類の共同幻想によって支えられている。小林のような知名度のある人間から公然と批判を受けたことで、
佐藤批判が大っぴらに行なわれるようになってしまえば、佐藤優バブルははじけてしまう公算が高くなるわけである。だからこそ、佐藤は、自分への批判を事前に防がなければならない。『SAPIO』編集長への公開的な恫喝は、売上低下への佐藤の焦りと相まって、こうした焦りから行なわれたのではないか
、と思われる。ここでは佐藤は、「言論人」というより、「佐藤優」というブランドを維持させることに必死な製品の品質管理者のようである。

佐藤が、自分への批判を事前に防ごうと必死なのは、佐藤の文体にも起因しているように思われる。これについて私は以前、「佐藤優・安田好弘弁護士・『インパクション』編集長による会合の内容について②:コメント(4)」の「注2」で書いたので、引用しておこう。

「佐藤が岩波書店での執筆にこだわるのは、<佐藤優現象>を成立させる基盤に関係があると思われる。佐藤の文章には、(柄谷行人のように)根拠を示さない、または、(落合信彦のように)情報の出所が不明確な断定が非常に多い。佐藤の言明が事実であるかどうかは、佐藤を<信>じるしかないのである。では、佐藤の言明のもっともらしさは何によって担保されているか?佐藤が<一流の思想家>だという表象によって、である。論文でも指摘したが、佐藤は、「左」で執筆しているからこそ、「<左右の図式>を超えて活躍する一流の思想家」なる表象が生まれる。岩波書店が使っているからこそ、他の護憲派ジャーナリズムも安心して佐藤を使えるわけである。また、岩波書店がいまだに保持しているらしい、「学術性」なる表象も、佐藤が<一流の思想家>であることを担保する上で不可欠だろう。佐藤の文章は、読者が佐藤を<信>じるか否かの一点にかかっている。私は前に、佐藤が、もはや熱心な佐藤信者すら追いかけるのが難しいほど多くの媒体で書きまくるのは、自分が「超売れっ子」であるという表象を不断に作るためであることを指摘したが、それと同様に、読者の<信>を失ってしまえばバブルが崩壊するという危険性を、恐らく誰よりも認識しているからこそ、佐藤は岩波書店での執筆にこだわらざるを得ない。」

同様に、佐藤が、くだらない読書量自慢を延々と各誌でやっているのも、自身の<一流の思想家>というブランドづくりの一環であろう。教養俗物ほど騙されやすい人種はいない。

今回の佐藤と小林の争いは、佐藤の焦りがいろいろな面で垣間見られるものであり、各人の注目を呼びかけたい。


(注)ちなみに、この回の「ゴーマニズム宣言」では、私に関する言及があるので、挙げておく。

「さて、沖縄で、すっかり若者からその偏向振りを見抜かれている新聞を、懸命にヨイショする「言論封殺魔」(注・佐藤のこと)は、本土ではあちこちの出版社に圧力をかけて自分への反論を封殺している。ミニコミの編集部にまで弁護士と共に押しかけ、岩波書店の一社員の批判まで封じ込め、『AERA』に書かれた自分の評伝も、気にくわなかったらしく、執筆者を吊るし上げ、やりたい放題!」

また、欄外では、小林のスタッフが、以下のように書いている。

「「実話ナックルズRARE」によると、言論封殺魔は「AERA」に評伝を書いた朝日の記者を、マスコミ関係者が集まる勉強会で参加者の面前で30分以上つるし上げ、その後さらに公開質問状をつきつけ、記者は社内で干されてしまったという。また、ミニコミ誌での批判まで封じ込まれた岩波社員は、「首都圏労働組合特設ブログ」において岩波書店内部で行われている恐るべき言論封殺・弾圧を詳細に報告している。」





さて、佐藤は「1」で挙げた『SAPIO』最新号の自身の文章の③で、『わしズム』での小林の記述に関して、『SAPIO』編集長が自分に「遺憾の意」を表明したことを述べている。

『わしズム』は小林が責任編集長だ。ところが佐藤は、「1」で挙げた『SPA!』の記事では、以下のように述べている(なお、『SPA』のこの記事は、明らかに佐藤自身のことである「ラスプーチンさん(ペンネーム)男性 48歳」が、自分が連載している雑誌で、「政治漫画を長期連載している作家」から「人格的な誹謗中傷」を受けたことについて、「この出版社からは既に本を2冊上梓し、実売で10万部を超えています。私自身の利害と相反する雑誌の編集部とどのように付き合っていけばよいのでしょうか。教えてください」と、佐藤に相談するという形式で書かれている)。

「雑誌は編集長のものです。ラスプーチンさん(注・佐藤のこと)は、担当編集者や、この出版社の執行役員などの幹部とではなく、編集長ときちんと対峙する必要があります」

これでは、③はわけがわからない。佐藤自身の主張に従えば、佐藤が①の『わしズム』の記事が問題だと言うのならば、『わしズム』責任編集長である小林に「きちんと対峙」すればよいではないか。なぜ他誌である『SAPIO』編集長に抗議するのだろうか?

『わしズム』28号(2008年11月売)の背表紙には、飯田は、「編集人」として記載されているので、『わしズム』には編集長が二人いるのかな?だが、佐藤は「雑誌は編集長のものです」とまで言っており、そうした権限を『わしズム』で持っているのが飯田ではなく、「責任編集長」たる小林であることは誰の目にも明らかだろう。また、仮に飯田が『わしズム』の編集長で、③での「飯田編集長」という記述の「編集長」が、『わしズム』編集長としてのものであるとするならば、飯田は佐藤に上記の「遺憾の意」を表明する際、共同の編集長たる小林の同意を得ていることになろうが、小林が同意するようには「ゴーマニズム宣言」の記述を読む限り思えない。だからここでの飯田の肩書きは、やはり、『SAPIO』編集長としてのものだと思われる。だとすれば、小林が『SAPIO』の同号の「ゴーマニズム宣言 第36章」で、

「『わしズム』はわしが責任編集長なのに、「言論封殺魔」(注・佐藤のこと)は、発売されると直ちに「SAPIO」編集長に電話をかけてくる。こんなデタラメな話が許されるのか?」

と書いているように、佐藤の行動はわけがわからないことになってしまう。

飯田は、あっさり佐藤に「遺憾の意」を表明しているから、飯田の行動もわけがわからないのだが、『わしズム』の編集人という肩書きが、編集長とは別個ではあるが、何らかの形で『わしズム』の記述内容に責任を持つ肩書きであるならば、飯田が「責任編集長」より上位の役職(だが、これは佐藤が言うところの「出版社の執行役員などの幹部」である)として、佐藤に謝罪するのは分からない話ではない。ただ、そうすると、佐藤は③で、飯田について、編集長としてではなく、「『わしズム』の編集責任を有する飯田昌広編集人」といった形で記述すべきだろう。ところがそれならば、『SPA!』で述べた「雑誌は編集長のもの」云々という佐藤の原則と整合性が取れなくなる。だから、佐藤が『わしズム』の記述で飯田に抗議したというのは支離滅裂である。

ただ、実は、佐藤は『SPA!』の上記の記事で、『わしズム』の記述に関して、『SAPIO』編集長としての飯田に抗議する理屈を、これが『わしズム』の記述をも意図しているかは不明なのだが、提示しているのである。これはこれで笑えるので、以下、見てみよう。上記の「雑誌は編集長のものです。ラスプーチンさん(注・佐藤のこと)は、担当編集者や、この出版社の執行役員などの幹部とではなく、編集長ときちんと対峙する必要があります。」という発言にそのまま続く箇所である。

「雑誌において、長期連載者というのは特別の意味をもちます。筆者の言説のラインが、編集部の考えに一致しているから長期連載を依頼しているのです。仮にデタラメなことを書く筆者ならば、そのような筆者を排除するのが編集部としての読者に対する責任です。この点について、読者に対する説明責任をどう考えているのか、編集長に釈明を求めるといいでしょう。」(強調は引用者)

佐藤は、この『SPA!』の文章において、「論理だった批判ならば、対応の仕方もあるのですが、私には、この漫画家(注・小林のこと)のやり方は人格的な誹謗中傷としか思えません。」と書いた上で、上記の「雑誌において・・・」云々の発言をしているから、ここでの佐藤の理屈としては、小林の言っていることは「デタラメ」であるから、その小林が「長期連載」を持っている『SAPIO』の編集長は、小林を排除する「編集部としての読者に対する責任」がある、ということになろう。この論理は、この『SPA!』の文章で念頭に置かれていると思われる、小林の『SAPIO』8月20日・9月3日号の文章(上記の④)だけではなく、『わしズム』2008年春号の文章(上記の①)にも適用可能であるから、佐藤が『わしズム』の小林の文章に関して、佐藤が『SAPIO』編集長の飯田に抗議したことは、この理屈ならば一応説明はつくのである。

だが、この理屈であれば、③における飯田の、「記載については、配慮が足りなかった。以後気をつける」という佐藤への回答は、トンチンカンなことを言っていることになるだろう。この理屈の下で佐藤が飯田に要求すべきなのは、飯田が小林を排除すること、または、小林を排除しないならば、小林を排除しないことに関する「読者に対する説明責任」を果たすこと、である。この理屈で行けば、飯田の回答は回答になっていないのだから、佐藤は『わしズム』の件に関して飯田を継続して追及しなければならないが、佐藤の③の記述を読む限り、『わしズム』の件に関しては飯田の「遺憾の意」の表明で解決した、と言いたげに見える。わけがわからない。

佐藤は、『SPA!』では、「雑誌は編集長のものです。ラスプーチンさん(注・佐藤のこと)は、担当編集者や、この出版社の執行役員などの幹部とではなく、編集長ときちんと対峙する必要があります」などと高らかに宣言しておきながら、結局、『わしズム』の件で佐藤がやったことは、「この出版社の執行役員などの幹部」を通じて、小林の自分へのさらなる批判を封じ込ませようと圧力をかけたことではないのか。

実際に小林は、「ゴーマニズム宣言」の上記の回で、「「言論封殺魔」(注・佐藤のこと)は「SPA!」9月23日号で書いた通りに、「事実関係で相手をぎりぎり締め上げ」たり、「ねちねちと何度も質問状を出す」手口で、版権引き上げや出版計画の撤回など、あらゆる圧力を小学館にかけている」と書いている。佐藤は、『SPA!』の上記の記事でも、前回記事で取り上げたように、「既に刊行した書籍の重版を中止し、他の版元から文庫本を出す」、「現在、刊行中の書籍は一切引き揚げ、この会社で行っている雑誌連載や出版計画などもすべて白紙撤回す」る、そして、「今回の内幕について、どこかの雑誌に手記を寄稿するか、新書本を書き下ろす」ことを示唆しているから、この小林の発言内容は信憑性が高い。

いずれにせよ、佐藤は、「仮にデタラメなことを書く筆者ならば、そのような筆者を排除するのが編集部としての読者に対する責任」とまで述べているわけだから、『SAPIO』から小林が排除されなかった場合、小学館での著書の出版や『SAPIO』での連載を継続することを、小学館幹部や『SAPIO』編集長が謝罪したとか適当な理屈で自己正当化せずに、上記の示唆を実行に移すよう期待したい。というのも、佐藤は、以前、佐藤と親しいらしい『週刊新潮』の荻原信也記者に教唆して書かせたと思われる、私を攻撃した記事(「佐藤優批判論文の筆者は「岩波書店」社員だった」『週刊新潮』2007年12月7日号)の中で、岩波書店をも攻撃しているが、その舌の根も乾かないうちに岩波書店に対して擦り寄っていったような、簡単に妥協する前例があるからである。以前書いたものを改めて引用しておこう。

「「佐藤は、『週刊新潮』の記事で、「『IMPACTION』のみならず、岩波にも責任があります。社外秘の文書がこんなに簡単に漏れてしまう所とは安心して仕事が出来ない。今後の対応によっては、訴訟に出ることも辞しません」と述べている。

が、佐藤は、『世界』2008年3月号に、「『プーチン20年王朝』シナリオの綻び」という文章を執筆しており、また、『世界』2008年5月号の巻末に掲載されている、岩波書店の「5月刊行予定の本」欄によれば、佐藤と柄谷行人との共著で『国家の臨界――世界のシステムを読み解く――』という本が、5月28日に刊行されるとのことである。これは一体どういうことなのか?

佐藤の言う「社外秘の文書」とは、岩波書店労働組合の文書であって、この件で岩波書店労働組合から受けた抗議に対して私が何ら配慮する気がないことは、すでに「『週刊新潮』の記事について④:「岩波書店の社内問題」への矮小化」「『週刊新潮』の記事について⑦:記事の尻馬に乗る岩波書店労働組合」で書いている。そのことを佐藤が知らないはずはない。また、『週刊新潮』の記事の後で、岩波書店労働組合が「壁新聞」の掲載をやめたという事実もなく、株式会社岩波書店が岩波書店労働組合に対して、「壁新聞」を廃止するという措置を執った事実もない。要するに、『週刊新潮』の記事の後でも、状況は全く変わっていないのである。にもかかわらず、佐藤はなぜ岩波書店の雑誌で文章を書き、単行本を刊行するのだろうか?「安心して仕事が出来ない」「訴訟も辞さない」のではなかったのか?

誰にでも浮かぶ疑問であろう。やはり、「『週刊新潮』の記事について⑤:「<佐藤優現象>批判」の「「佐藤優」批判」へのすりかえ」で述べたように、岩波書店が、佐藤を使うのに躊躇するようになることを防ぐことと、岩波書店に私に圧力をかけさせて、私を黙らせたかったことを理由として、佐藤の岩波書店への(求愛的)恫喝は行われたのではないのか。これまた「言論を超えた個人への攻撃」である。佐藤は、『週刊新潮』の記事であれだけの非難を岩波書店に行なったにもかかわらず、岩波書店の雑誌で文章を書き、単行本を刊行することにした理由を、公的に明らかにすべきである。」

なお、佐藤は、『金曜日』2008年4月11日号の自身の連載「佐藤優の飛耳長目」では、こんなことまで述べている。

「今次訴訟(注・沖縄集団自決訴訟の第一審)の原告団が、『沖縄ノート』の内容に異議があるならば、版元の岩波書店を訪ね、議論をすればよい。筆者も岩波書店とは付き合いがあるが、岩波側は誠実に対応すると思う。」

「訴訟に出ることも辞」さないのではなかったのか?ここからは、佐藤は岩波書店を一旦恫喝しておきながら、佐藤が攻撃した件は何も解決されていないにもかかわらず、岩波書店に擦り寄っていっている姿が読み取れよう。上でも述べたように、これでは『週刊新潮』での攻撃は、岩波書店に私に圧力をかけさせて、私を黙らせて自分への批判を封殺させようとしたに過ぎない、と思われても仕方がないだろう。

今回の佐藤と小学館のやりとりの件も、小林が『SAPIO』で連載を継続しているにもかかわらず、佐藤が小学館での著書の出版や『SAPIO』での連載を継続することをやめない場合、結局佐藤の『SAPIO』編集長攻撃は、私の時と同じように、自分への批判を封殺しようとしたものだった、ということになる。佐藤が自身の主張どおり、『SAPIO』編集長に小林を排除させるよう徹底した行動を取るか、注目すべきである。というのも、佐藤は早速妥協の兆候を見せているのである。

佐藤は、『SAPIO』最新号で、小林とのやりとりに関する「私の基本認識」として、インターネットサイト『日刊サイゾー』でのインタビュー(「よしりんと戦争勃発!」佐藤優ロングインタビュー(前編・後編)を参照することを読者に要請している。
http://www.cyzo.com/2008/10/post_1093.html
http://www.cyzo.com/2008/10/post_1094.html

そのインタビューで、佐藤が『SPA!』の上記の記事について、『SAPIO』編集長の責任に言及している箇所を全て挙げると、以下の通りである。

「私が「週刊SPA!」で書いたことの一つは、編集権の問題です。雑誌にはいろいろな長期連載があります。Aという長期連載者が、Bという別の長期連載者が書いているものはデタラメだと論評している。Aさんの言うとおりだとすれば、Bさんというデタラメな人に長期連載を書かせている雑誌編集部の責任はどうなるのか。こういう問題です。」

「最初から論戦になっていないわけですから、小林さんが問題なのではない。編集権はいったいどうなっているのか、ということについて私は問うているわけです。」

「繰り返しになりますが、私が「週刊SPA!」で訴えているのは編集部の姿勢、編集権の問題はどうなっているのか、ということです。小林さんは、私に関してデタラメなことを言っている。そういう記事を、何ゆえに編集部が読者に見せる必要があると考え、掲載する価値があると考えたのかということです。

「『ゴーマニズム宣言』は『SAPIO』誌上において治外法権化しています」と編集部が認めるのであれば、私だって編集権云々とは言わないわけですよ。「ゴーマニズム宣言」が治外法権化しているのであれば、「SAPIO」は編集権のない2ちゃんねると一緒だということになりますからね。

 小林さんは「SAPIO」誌上で、私の言説を「デタラメ」だと言っている。その私は、「SAPIO」に長期連載をもっている。ウソ記事を書くような人間の連載を放置しておくようであれば、「SAPIO」編集部の責任が問われます。しかも私が「SAPIO」で書いている連載は、デタラメやウソが混じっていてはいけない国際情勢分析です。「SAPIO」編集部は、読者との関係においてどう説明責任を取るのか。」

インタビュー上での佐藤の勇ましい口振りとは裏腹に、このインタビューで真に注目すべきなのは、『SPA!』の記事には明記されていた、「仮にデタラメなことを書く筆者ならば、そのような筆者を排除するのが編集部としての読者に対する責任です」という一節と同趣旨の発言が見いだせない点である。小林を排除せよという主張が消えているのだ。このインタビューの論理からすれば、『SAPIO』編集長は、小林を排除せずとも、小林を排除しないことに関する「読者に対する説明責任」を果たさずとも、佐藤に釈明・謝罪するだけで済むようである。佐藤は、上記の岩波書店に対する姿勢の前例のように、『SAPIO』編集長および小学館との妥協の道を早速準備し始めているように見える。

佐藤が『SAPIO』編集長に対して、自分を取るか小林を取るかの二者択一を迫るという、当初の姿勢で臨むか、注目すべきである。佐藤が切られれば、佐藤にとっては大きな打撃になるだろうし、小林が切られれば、それは小学館上層部が『SAPIO』廃刊を決意したこととほぼ同義であろうから、大変慶賀すべきことである。どちらに転んでも結構なことではないか。


(追記)この文章を書き終わった後、11月18日発売の『FLASH』 2008年12月2日号の「「ゴー宣」バトルを誌上検証だ! 小林よしのり×佐藤優」という記事を目にした。ここで佐藤は、小林から「言論封殺魔」呼ばわりされていることに関して、記者への質問に答えているのだが、その中に以下の、驚くべき一節がある。

「そもそも私は小学館に対して、書籍の引き揚げであるとか連載停止ということは言ったことがありません。それなのに、小林さんはどうしてそう言い張るのでしょうか。」

本文でも部分的に引用したが、佐藤が本文で挙げた『SPA!』の文章で書いたことを、正確に引用しておこう。

「具体的対応としては、既に刊行した書籍の重版を中止し、他の版元から文庫本を出すというのが、いちばん軽い「やり返し」です。会社全体が事なかれ主義で、ラスプーチンさんがこの会社とは信頼して一緒に仕事をしていくことができないという認識をもつようになれば、現在、刊行中の書籍は一切引き揚げ、この会社で行っている雑誌連載や出版計画などもすべて白紙撤回すればいいと思います。そして、今回の内幕について、どこかの雑誌に手記を寄稿するか、新書本を書き下ろすといいでしょう。「編集権とは何か」という問題について、業界に一石を投じればいいと思います。」

「引き揚げ」、「雑誌連載や出版計画などもすべて白紙撤回」とはっきり書いているではないか。

佐藤は、『SPA!』の文章では、「本職業相談は、『SAPIO』8月20日/9月3日合併号(小学館刊)の「ゴーマニズム宣言」第27章を題材にしたフィクションです。実在の人物・団体との間に何か類似性があったとしても、それは偶然の一致にすぎません」と書いており、また、本文で挙げた『日刊サイゾー』のインタビューでも、「「週刊SPA!」(9月23日号)で私が書いた記事は、あくまでもフィクションですから」と述べている。

もし、小林からこの『FLASH』での発言を叩かれれば、まさかとは思うが、それしか論理的可能性が見当たらないので言うのだが・・・佐藤は、『SPA!』で書いたことは、「フィクション」なのであって、自分は『SPA!』の記事では『SAPIO』編集長や小学館に対して何かを主張しているわけではない、と言い張るのかもしれない。仮に佐藤がこう言い張ったら、佐藤ファンは、こんな主張まで擁護するのだろうか?
  • 2008.11.19 00:00 
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> 論文・エッセイ

中野敏男「日本の「ろうそくデモ」報道から見えること――危機に瀕する日本のリベラルジャーナリズム」(『プレシアン』2008年9月8日掲載) 

(『プレシアン』(2008年9月8日)
「「暴徒、新聞社を襲撃」――朝鮮日報にあらず  危機に瀕する日本のリベラルジャーナリズム」
http://www.pressian.com/Scripts/section/article.asp?article_num=60080828170744


「暴徒、新聞社を襲撃」 日本の朝日新聞は、本年6月29日付けの朝刊に、韓国の「ろうそくデモ」についてこのような見出しの記事を掲載している。日本で三大新聞のひとつと数えられ、その中でも最もリベラルな論調で知られているはずの朝日新聞が、今回の「ろうそくデモ」に関する記事の見出しにこのように「暴徒」という表現を用いたことは、日本のマスメディアの現状を示すはなはだ徴候的な事態と言わなければならない。そこで、日本での「ろうそくデモ」報道をめぐるそんな状況を報告し、その意味を少し考えてみることにしたい。

「ろうそくデモ」報道の惨状

朝日新聞に限らず、日本のマスメディアにとって、ろうそくデモの大高揚に至った韓国の今回の事態が、まずはどうにも不可解な出来事と映じたことはおそらく間違いない。アメリカ産牛肉の輸入問題をめぐって、発足したばかりの李明博政権が批判に曝されていることだけなら、なんとか分かる。しかし、それが中高生に子連れの女性たちまで加わってここまで大規模な示威行動に発展するということは、政治報道に携わってきたこれまでのマスメディアの常識ではとても考えられない事態だったのである。そのためもあっただろうが、連日にわたるろうそくデモの激発にもかかわらず、日本での報道は概して小規模なものに止められている。

この「ろうそくデモ」報道の意外な小ささは、ちょうど同時期にあったチベットやモンゴルでの政治的争乱に関する報道と比較してみると、かなり明瞭に際だつものである。後者については、地方都市で起こって伝聞としてしか確認できないような事態まで報道しているのに対して、韓国の「ろうそくデモ」については、隣国の首都の中心で連日起こっている数十万を越える人々の示威行動であるのに、その扱いは思いのほか回数も少ないし、記述も警察発表などを基礎にした比較的短いものにとどまったのである。それをデモが盛り上がった6月一ヶ月間の報道で見ると、目立って多かった朝日新聞でさえ報道回数は合計10回。そのうちから問題含みの解説記事を除けば、事実報道は最大規模の示威行動となった6月10日についてでさえ翌日の朝刊国際面で23行だけの短い記述に過ぎなかった。

そんな報道の状況の中に、前述の「暴徒、新聞社を襲撃」なる記事が出されている。それは6月29日朝刊に掲載されたものだが、提携紙である東亜日報の本社が「襲撃」されたというその記事に添えられた写真(東亜日報提供)の日付は26日。つまりそれは、事実の速報というよりは、「過激な行動」の「エスカレート」という物語を作り出すために朝日新聞と東亜日報とが合作で構成した記事であることが明らかで、それゆえそこでは、何故そのように東亜日報・朝鮮日報・中央日報の三紙が抗議の対象になっているかの分析などひとつもないまま、「暴力行為」への非難のみが声高に強調されている。朝日新聞では、インターネットを活用して「朝・中・東」を批判しはじめた市民たちの動向を、それ以前の6月19日から、まずは朝鮮日報の記事をそのまま引用するかたちで「ネット市民らが、冷静な対応を呼びかける同紙(朝鮮日報)をはじめ大手紙に広告を出すのをやめるよう企業に圧力をかけている」と報じていて、そこでは始めから「朝・中・東」の方が被害者とされている。そしてこの論調は、7月1日になると、ついに「深刻、サイバー暴力」という見出しのかなり大きな解説記事にまでエスカレートした。ここで朝日新聞は、「モラルなきネット市民のサイバー暴力vs 冷静な対応を求めて攻撃に曝される3大紙(朝・中・東)」という対立構図を作り上げ、それをもってろうそくデモの背景説明としているのである。

日本のメディア状況が孕む問題

これが日本の三大新聞の中で最右派の読売新聞であるなら、たとえろうそくデモの「過激化」を非難し、「過激行動に走るのは国家保安法撤廃、在韓米軍撤退など北朝鮮当局と同じ主張を掲げる親北団体のメンバーらとみられる」(6月30日読売朝刊)などと断ずる報道をしても、それへの賛否はともあれ、いかにも反共保守主義らしい認識としてそれを「理解」することはできよう。しかし、リベラル左派と見なされてきた朝日新聞がろうそくデモをこのように認識し報じているという事実は、その立場と記事内容にずいぶん落差があると見えるから、日本のマスメディアの現状を顧みる上でも、日韓の言論の相互理解や相互関係を見直す上でも、しっかり留意しておかねばならない事態であるに違いない。

もっともこう言うと、それを韓国の側から聞けば、大手新聞社の論調がそのようであることについて、何を今更驚きあわてているのかと不思議に感じられるかもしれない。確かに日本の三大新聞は、朝日新聞は東亜日報と、毎日新聞は朝鮮日報と、読売新聞は韓国日報と、それぞれ提携関係を結んでいる。このような日本の従来型の巨大新聞社が、インターネット新聞やインターネット放送局など新しいメディア状況への危機感を共有し、この観点から韓国の朝・中・東を擁護する立場に立つのはむしろ自然な成り行きとも考えられるからである。マスメディアがマスメディアを擁護し、危機の時代にはそれらが連携して体制の擁護にも動くというのは、これまでの歴史に繰り返されたことではあった。

しかし、日本の位置から見ると、朝日新聞を軸にする「リベラル」な新聞報道がその内実では批判的機能を失って体制擁護的に作動しているという事態は、韓国における朝・中・東のことよりもっと深刻な危機の徴候であるかもしれないと感じられる。

というのも、まず日本の場合は、テレビ報道が、チャンネルごとに新聞社と系列化して独立性が低く、しかも実際には新聞よりもずっと心情迎合的で批判性が弱くなっているから、韓国においてテレビ報道が果たしているような役割を期待できないという事実がある。今回のろうそくデモでも、例えばMBCの番組「PD手帳」が果たした批判的役割の大きさを伝え聞くが、そのようなことを日本のテレビ局には期待しにくいのである。

また、日本と韓国とが異なるもうひとつの要素は、インターネットの批判的機能の違いである。インターネットの普及や利用度において韓国は日本より進んでいて、このネット上に生まれた言論が実際にろうそくデモへの人々の参加にも強い影響力をもったとされるが、日本ではこの力がまだ弱いのである。それどころか、日本には「ネット右翼」という言葉があって、現状でインターネットの力を言説の普及に多く利用しているのは、実は「右翼」の方だということがある。しかもその利用の仕方は、人権を無視した個人攻撃や根拠のない中傷を振りまいて他人の行動を抑え込むという類のものだから、まさに朝日新聞が言うような「サイバー暴力」への警戒心が一般には根強く、ネット上のコミュニケーションが社会批判の機能を持つようにはなかなかならないのである。

というわけで、現状において、朝日新聞に代表される日本の「リベラル」な新聞報道が体制擁護的に変質し、批判的機能を失ってしまうことは、日本の言説状況に深刻な打撃を与えかねない重大事であるといえる。そして事実、この間の「ろうそくデモ」報道ではその徴候が明確に現れ、それがかなり危険な水域にまで近づいていると見なければならないのである。韓国で「ろうそくデモ」の高揚を実際に体験し、そこに新しい形の社会批判の表現を見いだしている人々には是非とも認識していただかねばならないが、そのことが隣国=日本の多くの人々に知らされていないばかりか、むしろそれに悪い印象を持ちかねない状況が新聞報道を通じて作られているということである。

歴史問題と危機に瀕する日本のリベラルジャーナリズム

もっとも、問題はそこにとどまらない。というのも事柄はさらに根深く、日本のリベラリズムそのものの亀裂、そしてそれに伴う日韓の思想連繋の質変にまで及んでいると見えるのである。そもそもリベラル左派であるはずの朝日新聞は、いったいなぜ、民衆運動の新しい形を予感させる今回のろうそくデモを擁護せず、逆にそれに「暴徒」などと悪罵を投げつけるのか? そこには、単に提携紙である東亜日報などへの配慮があるばかりでなく、むしろもっと大きな理由として、このろうそくデモが揺るがしている李明博保守政権への彼らの屈折した期待が絡んでいると見なければならない。

朝日新聞は、6月3日朝刊に掲載したやや大きな解説記事で、ろうそくデモが新しい李明博政権を揺るがしていることに懸念を表明し、その末尾をつぎのように結んでいる。「(李明博大統領が)4月の訪日で未来志向を強調した日本との関係も、低支持率が続けば、変化してくる可能性がある」と。ここには、彼らがなぜろうそくデモを恐れるのか、その理由がとても明瞭に示されている。

ここで「未来志向」というのは、いったい何か。それは「過去事」についてあまり拘らないということである。そしてこの点について特に言及するのは、前政権である盧武鉉政権との違いに関わっている。かつて多くの期待を担って出発した盧武鉉前政権の実績全般については、さまざまな評価が有り得るだろう。しかし、この政権が少なくともそれ以前と異なっていた点に、「過去事」の整理に対するかなり原則的な姿勢がある。この政権下で進められた「過去事」に関わる立法措置や各種委員会の活動は、幾多の困難や妥協を含んでいたとはいえ、真実の糾明などの点で確かに重要な進展をいくつかもたらしている。そして、このような盧武鉉政権下の韓国の状況は、これとは対照的に同時期の日本の小泉・安部両政権下で進んだ靖国神社参拝や歴史修正主義の動きと厳しく対立し、それが日韓関係に鋭い緊張を生んでいたことは間違いない。韓国に新しく成立した保守政権は「未来志向」と言うことでこの点での態度変更を表明し、日本のリベラルである朝日新聞はそれに期待してろうそくデモがそれをまた元に戻してしまうと恐れたのである。

日帝の植民地支配に端を発する歴史とその責任の問題が、今日の日韓関係にもなお暗い影を落とし続けていることは間違いない。朝日新聞にもその影はかかり、とりわけ韓国や中国など東アジアに関わる記事を掲載する際には、このことを特に意識して紙面編集をしていると見受けられる。ろうそくデモに関する記事についても、その事情はまったく変わらないのだ。と思ってみると、実際に作られている記事は、親日派の徹底した清算や軍事独裁政権下の暴力のさらなる糾明を押しとどめようとする韓国の保守政権の「未来志向」に期待を寄せて、それの足を引っ張りかねないろうそくデモの激発にむしろ恐れを抱いていると分かる内容になっている。この事実は、独裁に抗して民主化運動を担い、その観点から日本のリベラル勢力に期待を寄せてきた韓国の人々を、おそらく落胆させることだろう。しかしそれが、日本で最もリベラルで公正な報道を誇ってきたはずの大新聞=朝日の現状、少なくともその一面の現実なのだと報告しなければならない。

朝日新聞に代表される日本のリベラルジャーナリズムのこのような危機は、2001年1月に起こった日本軍「慰安婦」問題を扱うNHK特集番組への与党政治家の介入とそれに呼応したNHKの自己検閲的な内容改ざん事件、そして、その時にその政治介入を追及した自社記者すら守れず後退した朝日新聞の自己防衛的な態度に、すでにその一端が露呈していたものであった。そしてこれは、もう少し広い文脈から言えば、日本の「戦後リベラリズム」そのもののさらに根の深い危機につながるものである。すなわち、日本のリベラル勢力は、第二次世界大戦後の時代にあって、侵略戦争の過去を清算し、その反省から生まれた「戦後憲法」の「平和主義」と「民主主義」を強く堅持してやってきたと自負していた。しかし、90年代以降に冷戦体制の崩壊が進むと共に、日本の「戦後民主主義」に含まれていたさまざまな欺瞞が見直されるようになってきて、その自負の根拠そのものが揺らいでしまったのである。日本の「戦後」は、「平和主義」と言いながら朝鮮戦争・ベトナム戦争とうち続く戦争に加担してきたのだし、その「経済復興」も韓国や沖縄などの軍事占領を前提とし、その「民主主義」さえ女性や在日朝鮮人・中国人などマイノリティの差別や排除を構造的に組み込んだものではなかったのか。このような現実にむしろ強く依存して成立していた日本の「戦後民主主義」とは、そしてそれを支えてきた「リベラル」とは、いったい何だったのか。「戦後日本」で「リベラル」であろうとしてきた人々は、いまあらためてこのような問いに直面せざるを得なくなっている。

「ろうそくデモ」報道で揺れる朝日新聞が、この問いを自らに真摯に差し向け、ジャーナリズムの批判性を堅持して真に脱皮を図ることができるかどうかは、なお予断を許さない。しかし、問われているのは朝日新聞だけではないのだ。この意味で、いま日本はひとつの思想的岐路に差しかかっていると見える。
  • 2008.09.04 00:00 
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> 論文・エッセイ

鄭栄桓「「不幸」と「不正義」――「日朝平壌宣言」批判」 

 今後の日本と朝鮮民主主義人民共和国(以下、共和国)の国交「正常化」交渉における最重要文書である「日朝平壌宣言」について、私がいま、どうあっても書かねばならないと考えていることの一部を記しておきたい。

 過去清算の問題をめぐる「日朝平壌宣言」の評価は一様ではない。例えばある人は、この宣言は矛盾を含んだ宣言だという。日本政府は前文で植民地支配に「お詫び」をしておきながら、第二項でそれを「経済協力方式」で解決するとしており、矛盾しているというのだ。だが、私はそうは思わない。むしろこの宣言は一貫している。だからこそ問題なのだ。

 この宣言の前文では、日本の朝鮮植民地支配期を「不幸な過去」(宣言英語版では”unfortunate past”)と呼んでいる。この言葉が示すのは、「不幸」にも、仕方なく日本と朝鮮は植民地支配・被支配の関係になった、それは決して日本の「不正義(injustice)」な行為を原因にするものではないという認識である。問題を「不幸」あるいは「不運」のレベルでとらえるならば、当然植民地支配の原因に関する言及は回避される。つまり、「併合」の不法性とその責任は問題にならないのである。

 そしてその帰結として、宣言第二項で日本側は「過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えた」ことに対し「痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明」し、それに続いて日本外務省のいう「一括解決・経済協力方式」が示されることになる。外務省の説明によれば「一括解決・経済協力方式」とは、国家及び国民の全ての財産及び請求権の相互放棄により「いわゆる慰安婦、強制連行等の問題を含め、植民地支配に起因する金銭支払いを含めあらゆる請求は法的に完全かつ最終的に解決されたものとするとともに、これと並行して、我が国から北朝鮮に対して経済協力を行うこと」である(ただ、共和国側はその後、日本軍性奴隷などの「人的損害」はここでいう「請求権」に含まれないと主張している)。

 植民地支配に伴い朝鮮人に「多大の損害と苦痛を与えた」ことは「不幸」なことだから、一定の「経済協力」はする。だが、日本の「不正義」を根拠とする国家や個人の損害賠償請求や責任者処罰の追及は認めない。これが宣言に示された認識である。私は前文と第二項の間に矛盾はないように思う。

 また、日朝間で問題となるべき「過去」には、植民地支配に加えて「冷たい戦争」の過去がある(荒井信一『歴史和解は可能か』岩波書店、二〇〇六年)が、後者は第三項の「日朝が不正常な関係にある中」という言葉で表現されている。だが、ここでは共和国側が戦後発生した「日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題」について「今後再び生じることがないよう適切な措置をとる」ことが確認されているだけだ。荒井信一のいうように、理屈上は日本政府だけが、45年8月15日以降に発生した「日本国民」の被害について共和国に補償を要求できることになる。「被害」の時間軸を「戦後」に延ばしつつ、日本政府と在日朝鮮人のあいだの「生命と安全にかかわる懸案問題」は全く議論される余地がないのだ。よく拉致問題に対し強制連行を対置するな云々の議論に出会うが、本来ならば戦後日本の在日朝鮮人弾圧こそが、拉致問題とあわせて冷戦期の国家暴力として「清算」の対象となるべきなのではないか。

 外国人登録制度に基く日常的監視や、民族教育に対する弾圧は、決して社会的差別に留まらない、意図的で、制度的な抑圧だったことは言うまでもない。だが、前文で植民地支配が「不正義」との認識が示されない以上、それを原因として日本に暮らすことになった朝鮮人に対する日本政府の国家暴力もまた、「過去の清算」からは切り離されることになる。前文と第三項にも矛盾は無い。
 「過去の清算」において決定的に重要なことは、植民地支配をした側の人間自らがそれを「不正義」と認めることである。支配された人間に則して言えば、支配した側にそれを認めさせることである。植民地支配という行為そのものの過ちを日本自らが認めること、日本に認めさせること、それこそが「過去の清算」の必要条件なのだ。
(2008年2月8日記)


<付記>

 明日6月7日より日朝の実務担当者協議が始まる予定とのこと。場合によっては急ピッチで、この「過去不清算方式」での日朝国交「正常」化に向けた既成事実が積み重ねられてしまうかもしれない。恐らくその可能性は高いであろう。

 本来なら主体的に植民地支配とそれへの補償を遅らせた責任、そして朝鮮分断を深刻化させた責任を自覚し、それを克服するための様々な批判的代案を提起すべき責任を第一に負っている日本人知識人は、現在その任を放棄している。九〇年代に始まる日朝交渉が、まさに大詰めを迎えようとしているいま、日本で起きているのは恐るべき翼賛的「空気」の中での、国民基金的「現実主義」の提案だけだ。これらの現状に対する総体的批判については、今後改めて展開していきたい(2008年6月6日記)。
  • 2008.06.10 00:00 
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> 論文・エッセイ

読者より:イタリアの2008年4月上下院選挙結果について 

お元気でしょうか。

先日イタリアの左派についての話をしましたが、その後動きがありました。プローディ内閣の退陣に伴う、4月中旬に行われた上下院同時選挙は、端的に言って凶悪な結果となりました。すなわち、ベルルスコーニ派は「中道左派」民主党(※)の経済失政を上手く衝き大勝しました。

※イタリア民主党は、1991年に旧イタリア共産党が解体された際、いわゆる「マルクス・レーニン 主義」を完全に放棄し社民主義に路線転換することを標榜した党内多数派(左翼民主党、後に左翼民主派)が、中道政党を取り込み2007年に誕生。ただし現党首ヴェルトローニ(1955-)が、選挙スローガンの一つに「Yes, We Can!」というアメリカ民主党のオバマのそれを流用して話題となるなど、「社民」色より「リベラル」色を強調する傾向が見られます。一方で、旧共産党内少数派の潮流は現在も二つの共産主義政党を形成しています。

ここまでは日本のメディアも拾っていますが、さらに重要なのは、今回民主党が選挙協力をしなかったため「虹の左翼」連合を形成した議会内最左翼グループ(共産主義再建党・イタリア共産主義者党・社会党・緑の党・民主的左派)が、合わせて15パーセント弱あった議席をすべて失った事です。「すべて」というのは比喩ではありません。ベルルスコーニ時代に「二大政党制を目指して」改定された選挙法(上院では州ごとに8%、下院では全国で4%の得票率がない政党には、自動的に議席が配分されないというシステム)に、見事ひっかけられたという訳です。連合の中心となっていた共産主義再建党のジョルダーノ書記長は辞任、当分左翼間の混乱は収拾がつきそうにないです。

日本のネット版の『しんぶん赤旗』では特別な記事は出ていません。勝っていたら絶対取り上げたろうに……。この文章を書いている最中にようやく、『かけはし』のネット版に、再建党から分裂したトロツキー派の候補による記事が出ました(。ところで、この号の1面は別に興味深い。「中共でもダライ・ラマでもなく」のスローガンはよい。しかし平気で「右も左もなく」とかいうあの腐ったフレーズを左翼が口にするのはどういう事なのか?)。

もちろん、現存秩序に対抗的な人々の実力は議会とは必ずしも比例しないですし(レーニンやガンディーが、各々の革命に国会議員を必要としたでしょうか)、日本と比べると各種の自律的なファクター(労働組合、議会外新左翼、市民運動、反体制的サブカルチャー)もまだまだ強力なのは明らかです。しかしこの選挙結果はそれらにも影響を与えるでしょう。正直、対岸の火事とは思えません。

象徴的な意味でもこれは大事です。イタリアの歴史では、アンドレア・コスタという初期社会主義者が1882年に下院に当選して以来、ファシズム期をはさんだ100年以上、社会主義者・共産主義者を名乗る者が議会から消えた事は絶無でした。また、少なくとも第二次世界大戦以降の西欧諸国のうち、「社民」「社会」「労働」「共産」のうちどれかのキーワードを名乗っている政党が議会にない所は、独裁時代のスペインやポルトガルなどを除き存在しなかったと思います。ましてや、労働運動や左翼勢力が強力であるとして知られてきたイタリアで起こったことですから。これが近隣諸国に派生しなければよいですが……。

ただ、彼らの失敗の原因が選挙法の改悪にのみあるとも言い難い。「虹の左翼」諸党は、議会においてはプローディ内閣と連合していたわけですが、その中で「ニュー・レイバー」に通じる民主党の政策に相当程度賛成してきました。特に再建党は、かつてプローディ内閣を離脱して政権を瓦解させた「前科」があり、民主党からも下院議長などのポストを割り振られていたため、同調に気を使っていました。

それだけ彼らは「反ベルルスコーニの団結」を優先した訳ですが、「中道左派内閣」の一員としてベルルスコーニと似たような事をやるとすれば、意味はどこまであるのか(こういうジレンマを少数派に押しつけるような部分に、自分は「“ブルジョワ議会制度”のマジック」を感じもするのですが)。彼らは少なくとも議会をうまく使えなかったとは言える。民主党が独自で選挙戦を戦うと決定した時、かつて議会内最左翼に票を投じた人の多くは、選挙制度の変更による死票を恐れたのに加え、そもそも民主党に票を投じても同じ結果となるという考えに、容易に動く準備があったと思います。

さらに、北部を中心とした左翼の従来の地盤が、排他主義を唱える右翼政党「北部同盟」に動いたという高級紙の分析もあります。これについては、向こうの記事を翻訳している方がおられます。

「赤いエミリア・ロマーニャ州へ北部同盟、進出」

「エミリア・ロマーニャ州の投票分析」

この記事はその原因として、左翼が同性愛者や移民の擁護・エコロジー・フェミニズムといった「新しい社会運動」を結集軸としようとしたのに対し、人々が関心を持たなかったゆえと説明しています。そうかもしれません。しかしこの記事から読み取れるより重要な問題(翻訳者は気づいていないであろう)はおそらく、91年の旧イタリア共産党の解体後も左翼政党を支持し続けた人々の「支持の中身」が、相当に国民主義的な論理に支配されたものであったということです。

最近私は、一時期日本でも合同出版を中心に訳出されていた「ユーロコミュニズム」の本を何冊か読み、例えばエンリコ・ベルリングェル(70年代、旧共産党が最も議席を増やした時分の書記長)の演説には現代に通ずるような内容が何もない(例えば、いわゆる「ポスト・フォーディズム」の兆候などを全然掴んでいない)のにガッカリしたのですが、加えて彼の「共産主義」がものすごく国民主義的なニュアンスで語られていたのに愕然としました。グラムシを取り上げる事でソ連体制を批判するイタリア共産党のスタイルは日本でもずいぶん真似された(ている)ものですが、果たしてグラムシは自身の構想する革命のために「国民政党」を必要としていたのでしょうか。もちろんグラムシはそれを構成する一員として「階級政党」への改善要求はいくらも出していますが、彼の死後の党は彼を勝手に「国民政党」の看板にした訳です(日本で言えば、スケールこそ小さいが野呂栄太郎の扱いが似ているかも)。

私の素朴な疑問は、本質的に世界大に広がるものである(これは今に始まったことではない)資本主義経済の勢いに対して、原理的に一国単位のモデルが対抗しうるのかということです。たとえばコミンテルンは実践的には多くの面でろくでもない事が多かったですが、この事は必ずしも「一国社民主義」の正当性の担保とはならない。

金さんの論文で、「凡庸な政治学者」として山口二郎氏の名前が出ていましたが、本当に彼がおめでたいのは、ソヴィエト圏のような外的圧力がないのに「社民主義」(※)が成立しうる(しかも民主党によって!)と思っている部分です。さらに私の見るところ、彼の言うスタンダードである「社民主義と(新)自由主義の二大政党制」を旧来から採っていた国の多くにおいて、二大政党間の違いがどんどん薄くなり、かつ経済流動化の進展に疲弊した人々が、このシステムに明らかに倦みつつあります(イタリアの近年の政局に関しては、90年代前半までの比例制重視の選挙制度による、小党乱立と集合離散に倦んだ人々が「二大政党制」に対する期待を抱いた、と説明されます。しかし、「二大政党制」の成立を「真の民主制の成立」として賛美する人たちというのは、ほとんど機械的発展段階論者のように思えますね)。

※私は、少なくとも現在の西欧式社民主義、特に「ニュー・レイバー」化したそれは、もはや労働者階級(中・下層の)や「プレカリアート」にはほとんど利益にならないものとなっていると思っています。ただし、その外で実践されている「北欧式」社民主義には一定の関心を持っています(結局彼らも、移民問題などの大問題は未解決でしょうが)。私などもつい混同しがちですが、山口氏は「社民」という言葉で、「(70年代までの)西欧式社民主義」「北欧式社民主義」「ニュー・レイバー」の差をあいまいにしているように読めます。

ところで、日本の社民党は少なくとも「ニュー・レイバー」は支持していません。これは西欧の社民系諸政党の多くと比べれば、日本の労働者階級および「プレカリアート」にとって評価すべき態度です。ですが山口氏は、彼の「社民主義」なるものを社民党にではなく民主党に求めています。とすると、彼の「社民主義」なるものは「ニュー・レイバー」そのものかと疑うのが妥当ですが、彼は決してそう言いません。それとも山口氏は、西欧式であれ北欧式であれ旧来的な意味での社民主義を本気で民主党にやらせようとしているのかもしれません。しかし、毎度おなじみの松下政経塾出身の連中が、教育・福祉・医療に傾斜配分した公共支出の再編成の必要性や労働組合が経営者と常に合議する企業形態の素晴らしさを理解するようになるより、目下議席一ケタの社民党が今後政権を獲得する確率の方が高いでしょう。


二大政党制不信が、フランスのル=ペンやオーストリアのハイダーといった、ネオナチの台頭を生んでいるという指摘も一部でありますが、それからさらに考えることもできます。ヨーロッパ諸国においては、「人権」が政治・外交の話題の中心にあり、露骨な人種主義的イデオロギーを振り回す事は、それぞれの国の「正しい国民」――これには、穏健な保守派ばかりか、社民主義から共産主義までを支持する広義の「左派」層もしばしば含まれる――のふるまいではない、という一応の広範な合意がある(※)。なのに何故か?

※「正しい国民」は「人種差別には反対」と唱えなければならない、という規範は日本と比べ物にならないほど強い。西欧が「人権スタンダード」を振りかざして国際政治を占有している事には問題があるが、逆に「人権」への攻撃を通じた「タブー破り」が「正しい国民」となるイニシエーションと化している日本は、むしろ人倫のレベルで異常である。遠からぬうちにこの事実は、例えばG8の中で経済的利害が決定的に激突する事態が起きた際、他国が日本を集中攻撃する口実となるだろう。ちょうど現在の中国がそうされているように。

私の考えでは、現実において「正しい国民」が移民を差別するのは、自分たちを見舞う経済的脅威のシンボルとして彼らを見る(ような、右からのシンボル操作に容易に乗る事を許す窮状がある)からです。我々は「正しい国民」として、基本的には君たちと仲良くつき合ってあげてもいいけど、自分たちを襲っている経済的脅威に抵抗しなければ飢え死にしてしまう。だから君たちに反対するのは「イデオロギー」じゃないんだよ、と。これに対して、自由主義も社民主義も(さらにそれより左側の政党もしばしば)、「寛容」「多元性」といった倫理を強調した説得を切り札にしているが、これは世界経済の問題と直接対決するものではなく、「君たちも自分の国で活動した方が幸せじゃないか」という言説を否定するものでもない。すると、一国主義の枠内での経済問題の論理的解決として、それぞれの国で世界経済の暴力に最も明確に抵抗しているのは極右ということになる!

「赤いエミリア・ロマーニャ州へ北部同盟、進出」の記事の、以下の箇所は、そのことをよく示していると思います。

「さらに別の町サッスオーロにはロリス・マゼッリという投票行動を急進左派から北部同盟に移した工場労働者がいる。彼は、イタリア共産主義者党のディリベルトが町を訪れた時に、「私の妻がスーパーマーケットにいくと、買ったものを運ぶとき、いつも背後を気にしていないといけない。北アフリカ人がたくさんいて盗られるからですよ」それに対するディリベルトの返答は、イズモ〔筆者注:英語の-ism〕がたくさんあるもので、おおむね次のような趣旨だった「グローバリズムを過小評価するべきではないが、第三世界支援という選択を捨て去るわけにもいかない」。その返答について考え、マゼッリは支持を変えた。」

自分のイタリアに対する期待と憧れ(?)が、楽観的に過ぎたと反省しています。91年以降もしぶとく続いていたイタリアの議会内最左翼への支持は、東欧圏の解体にもかかわらず新しく生まれた「反資本主義」や「国際主義」的な精神への支持によるものと見積もっていたのですが、その実質の相当は「国民主義」という旧共産党の貯金/負債に支えられていたものだったとは……なかなか希望は遠い!

実はこの選挙に一番喜んでいるのは、結果として負けた民主党執行部かもしれません。同時期に行われたローマ市長選でも、15年ぶりに民主党系候補は落選したのですけど。ヴェルトローニは、二大政党制を志向していたという点ではベルルスコーニと同じでしたから。うるさい左翼は全て議会外に消え去ったため、安心して二大政党の一翼として、「反ベルルスコーニ連合」の軸をますます右側に置くこともできるわけです。

最後に、漫画をひとつ紹介しましょう。現在イタリアの広義の左派系メディアで最も人気のある漫画家の一人、マウロ・ビアーニが総選挙直後に発表した作品です。タイトルは「イタリア、右へ進む」。

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王冠をかぶり緑・白・赤の三色を服にした「イタリア」は、しょんぼりした様子で「右」に向かっている。しかしよく見ると、彼女の進む道は円になっている。つまり、遠からぬうちに彼女は「左」へ帰って来る――こうビアーニは、民主党から共産主義再建党までの「左派」を、なかなかの機知で励ましています。しかし、これらの政党の議席が今後回復したとしても、それは「左」に国家や社会が進んだという事を必ずしも意味しないのかも知れない。どのような「左」が労働者階級および「プレカリアート」には必要なのか、また明示的であれ潜在的であれ、「左」に期待する人々すら有している国民主義の思想はどう批判されるべきか、これは日本にも共通する課題そのものではないでしょうか。

それではまた。
  • 2008.05.26 00:00 
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> 論文・エッセイ

高和政「湾岸戦争後の「文学者」 ─〈新たな反戦〉の行方─」(『現代思想』2003年6月号掲載) 

(管理人注※『現代思想』掲載時の傍点は傍線に、注のローマ数字はアラビア数字に、それぞれ改めている。)


はじめに

 いまの視点から、一二年前の湾岸戦争の際に出された「『「文学者」の討論集会』アッピール」を見ると、すこし不思議な感覚にとらわれる。なぜ、このようなことがありえたのだろうか、と。この思いはすぐさま次の疑問ヘとつながっていく。ではなぜ、現在、このようなことはありえなくなってしまっているのか。
 米英のイラク攻撃に対する世界中の反戦運動の盛り上がりの中で、日本でもたとえば二〇〇三年三月八日・二一日に東京で行われた「ピースウォーク」にはそれぞれ三万人・五万人もの人々が集まった。いわゆる「知識人」の動きの鈍さが指摘される一方で、多種多様な一般市民が参加したという点ではかつてないほど反戦の動きが高まったことはまぎれもない事実である。しかし、四月一三日の東京都知事選では、「戦争」を広言してきた石原慎太郎が、得票率七割・三〇〇万票という過去最高の圧倒的な得票で再選を果した。一見矛盾しているようにみえるこの事態は、一体何を表しているのだろうか。反戦をめぐって、いま何が起っていて、何が必要とされているのか。
 本稿では、このような疑問を出発点とし、あらためて湾岸戦争時の「『「文学者」の討論集会』アッピール」と、「アッピール」を出した「文学者」たちの〈その後〉の言説を検討していきたい。〈新たな反戦〉であったはずの当時の経験を振り返ることは、現在の、そしてこれからの反戦を考えるために大きな意味を有していると思われるからだ。



Ⅰ.湾岸戦争・憲法九条・『敗戦後論』

 湾岸戦争当時、日本政府がアメリカを中心とする「多国籍軍」に九〇億ドルを「援助」することが決まり、その「多国籍軍」がイラクを攻撃する中で、「『文学者』の討論集会」が行われ、「アッピール」が出された。この集会は、柄谷行人・中上健次・川村湊・田中康夫・高橋源一郎・いとうせいこうといった、それまでの反戦運動・反核運動に関わってこなかった、あるいは批判的な人々が中心となったことに特徴があった。その「『「文学者」の討論集会』アッピール」(一九九一年二月九日)は次の二つの声明から成っていた。

  声明1
   私は日本国家が戦争に加担することに反対します。

  声明2
   戦後日本の憲法には、『戦争の放棄』という項目がある。それは、他国からの強制ではなく、日本人の自発的な選択として保持されてきた。それは、第二次世界大戦を『最終戦争』として闘った日本人の反省、とりわけアジア諸国に対する加害への反省に基づいている。のみならず、この項目には、二つの世界大戦を経た西洋人自身の祈念が書き込まれているとわれわれは信じる。世界史の大きな転換期を迎えた今、われわれは現行憲法の理念こそが最も普遍的、かつラディカルであると信じる。われわれは、直接的であれ間接的であれ、日本が戦争に加担することを望まない。われわれは、『戦争の放棄』の上で日本があらゆる国際的貢献をなすべきであると考える。
 われわれは、日本が湾岸戦争および今後ありうべき一切の戦争に加担することに反対する。


 先にあげた、この集会を担った「文学者」たちは、この「アッピール」に沿った形で、様々な発表媒体に反戦の言葉を記していった(*1)。当時の時代状況を振り返ると、このような動きが持ち得た意義も見えてくるだろう。一九八九年に昭和天皇が死亡し、一年後の九〇年には、天皇の戦争責任に言及した本島等長崎市長が右翼団体員に狙撃される(*2) 。九一年の後半に金学順さんが元日本軍「慰安婦」として初めて名乗り出て、その後、日本政府は「慰安婦」制度への国の関わりを認めざるを得なくなり、九三年細川首相により、「侵略戦争」発言がでることになった。つまり、九〇年代前半に、すでに遠い過去の出来事であると多くの人々が思っていた戦争とは、実はまったく解決されていないということが明らかになり、日本の「戦争責任」・「戦後責任」が改めて問われたのだった。
 このような状況の中で、新たな戦争に直面し、反戦のために憲法九条という〈理念〉を改めて見直そうというこの動きが起こったのである。これはやはり、一つのチャンスだったのではないか。「アッピール」を出した「文学者」たちには様々な批判が寄せられることになるが(*3) 、それへの応答の中から、戦争の記憶をとらえ直し、反戦を様々な形で実践していくことも可能だったのではないだろうか。しかし、九四年以降、先ほどのべた日本の「戦争責任」が問い直されるという流れに対して強烈なバックラッシュが起こり、日本社会の右傾化が一気に進行していくわけだが、その中で、「『文学者』の討論集会」に見られたような動きは、見事に消えていく。
 このことが最もよく表れているのが、加藤典洋『敗戦後論』とその評価のされ方だろう。当初から「アッピール」に対して批判ともつかない揶揄的な文章を書いていた加藤典洋は、「敗戦後論」(『群像』一九九五年一月)の冒頭で、まとまった批判を展開することになる。

 三年前、湾岸戦争が起った時、この国にはさまざまな「反戦」の声があがったが、わたしが最も強く違和感をもったのは、そのいずれの場合にも、多かれ少なかれ、その言説が「反戦」の理由を平和憲法の存在に求める形になっていたことだった。
 わたしはこう思ったものである。
 そうかそうか。では平和憲法がなかったら反対しないわけか。


 「その言説」の代表的な例として、加藤は「『文学者』討論集会アッピール」をとりあげ、「戦後、五十年をへて、わたし達の自己欺瞞は、ここまで深い。ここにあるには個々人の内部における歴史感覚の不在だが、その事態が五十年をへて、ここでは、本来はない歴史主体の、外にむけての捏造が生みだされているのである」と述べていく。
 この「反戦」批判の論拠は、改憲派の常套句ともいえる「押しつけ」憲法論だった。戦後日本の「ねじれ」の源に、「押しつけ」られた「平和憲法」という「矛盾」を見、この「矛盾」に目をつぶる「自己欺瞞」の例として、「アッピール」を批判していくのである。加藤は、「平和憲法」をめぐる「ねじれ」によって戦後の日本社会は「人格的に二つに分裂している」ため、たとえば細川首相の「侵略戦争」発言と永野法相の「南京大虐殺はでっちあげだ」という発言は「セット」になっており、いつまでもアジアの戦争被害者に真の謝罪ができない、とする。そして、この「人格分裂」を克服し「謝罪主体」を構築するためには、まずさきに「自国の三百万の無意味な死者を無意味ゆえに深く哀悼」することが必要であり、その「自国の死者への深い哀悼」を通じてしか「二千万のアジアの死者」への真の謝罪はできるようにはならない、というすでによく知られた主張を展開していくのである。
 このような加藤典洋の主張には、周知の通り高橋哲哉をはじめとして強い批判がよせられ(*4) 、「戦後責任論争」・「歴史主体論争」につながっていくことになる。しかし、加藤の批判の対象となった当の「文学者」たちの反応は違ったのである。



Ⅱ 『敗戦後論』に対する「文学者」たち

(1)川村湊の場合

 「文学者」の一人である川村湊は、「湾岸戦後の批評空間」(『群像』一九九六年六月)で「アッピール」に至る経緯を語り、その上で、加藤典洋への論駁を試みている。しかし、「アッピール」に対する加藤の批判について「私が声明の署名者の一人でなければ『なるほど』と肯いてしまいそうな明晰な論理である」として、それが「根源的でかつ苛烈なもの」であるとし、さらに、「ヌケヌケといってしまえば、私は『声明2』について、『平和憲法』の『戦争の放棄』という条項を“信じているフリをしてみよう”と思って賛同し、署名したのである。」と、自らの行為を「自己欺瞞」であったと「ヌケヌケと」明らかにし、痛いところをつかれた、と認めてしまっている。つまり、川村は「ねじれ」の源である「平和憲法」という加藤の議論(*5) を承認した上で、反論しようとしているのである。そのため、「加藤典洋の批判への疑問」としては、加藤の「過剰な潔癖さ(あるいは異様な情念)」を指摘するにとどまり、次のような主張ヘとつながっていく。

敗戦から戦後の「ゆがみ」を文字通り体験した美濃部達吉や大岡昇平などの戦前派や戦中派の人たちとまったく同じ状況であったかのように、「ゆがみ」や「原点の汚れ」を自分の身にまとってみせるということは、別の意味での自己欺瞞に陥ることではないだろうか。(中略)そこには著しく、わたしが「戦後」において良きものだと考えている、ある意味では無責任なノン・モラルの柔軟さが欠如しているように思われるのである。(傍点引用者)

 加藤の論に、川村は「無責任なノン・モラルの柔軟さ」の「欠如」を見ている。それは単純にいってしまえば、〈無さが足りない〉ということだ。その意図とは逆に、川村は「誤りうること」の重要性を主張する加藤を見事に補完してしまっているのである。「敗戦後論」に続く「戦後後論」(『敗戦後論』所収)は、先に引用した川村の文章から説き起されており、「『ノン・モラル』の声」・「その権利」こそが「文学」の基底だとする、「文学」論が展開されることになるのだ。
 川村の「無責任」の主張の問題点は、加藤の「自国の死者への深い哀悼が、たとえばわたし達を二千万のアジアの死者の前に立たせる」という議論に対した時に、一層明らかになるだろう。川村は「『自国の死者』と『アジアの死者』という分け方は意味がない」と述べ、その根拠として次の例を挙げている。

戦後サハリンに残留させられた朝鮮人たちが、自分たちの住んでいる村で死んだ日本人たちの無銘の墓を山の上に建てたという内容のテレビのドキュメンタリー番組を見たことがある。(中略)
 あるいはミクロネシアのパラオ島へ行った時、そこの日本人墓地には日本人、沖縄人、朝鮮人の墓が同様に苔むしたままで建っているのを見かけた。日本人と非日本人、アジア人と〝脱アジア人〟とを分けることは本質的に不可能なのであり、また私たちはいかにしてそうした二分法から発想することを止めることができるかが、私たちの思想的な課題となっているはずなのだ。


 確かに、大日本帝国は〈多民族国家〉であったのだから、「自国の死者」と「アジアの死者」とを明確に区別することはできない。しかし、ここで問題となるのは、周縁部〈日本国民〉であった「沖縄人」・「朝鮮人」というマイノリティーを言挙げすることにより、「日本人と非日本人」を「分けることは本質的に不可能」だとして、「日本人」という概念そのものをも無効としかねない、ということだ。エスニック・ジャパニーズではない「日本人」がいるからといって、支配エスニシティーである中心部「日本人」までが消え去るわけではない。多様なエスニシティの〈日本国民〉が存在するのだが、誰が〈日本国民〉であるか、その枠組みを決定するのは、紛れもなく支配エスニシティである中心部〈日本国民〉であるのだ。川村の論は、徐京植の指摘する「周縁部日本国民の存在を取り上げて、中心部日本国民の責任を解除するという構造の論理」(*6) に近接してしまっているといえるだろう。この川村の認識は、酒井直樹・守中高明との鼎談「〈共同性〉批判としての『戦後詩』」(『現代詩手帖』一九九七年九月)での以下の発言につながっている。

「従軍慰安婦」の人たちの団体が韓国においてお金を受け取るのを拒否したり「女性のためのアジア平和基金」の活動自体を否定したりするのですが、そういった拒否の態度は「慰安婦」の人たちとそれを支援する人、韓国政府がほぼ一致して表明しているんですね。ちょっと邪推した見方をするなら、じゃあ、どうすればいちばんいいのかと問うたとしたら、ひょっとしたら「天皇」の名前で謝れ、ということが出てくるんではないかと思うんです。つまり天皇の名前でお金を出すということが彼らにとっては正しいかたちなんじゃないか。彼らもやはり誰がどのようなかたちで謝罪するのかといった場合に、戦前の天皇を頂点とする「大日本帝国」というイメージから離れていないと思うんです。結局、日本が国民として謝罪するとか、お金を払うとかいうことになると、まさしくわれわれは「大日本帝国」をそのまま継承している、ということになってしまうんじゃないか。それはぜったい避けなくちゃいけないことだと私は思うのですが(*7)

 川村の「邪推」はどうあれ、日本軍性奴隷制度の被害者である元「従軍慰安婦」の女性たちの要求には、日本政府による公式謝罪・責任者処罰・個人賠償が含まれている。その被害者の女性たちの声にもとづき、「国家が正義を行う責任を果たすことを怠ってきた結果として設置された」「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」(二〇〇〇年一二月)は、天皇裕仁に人道に対する罪について有罪の判決をくだし、日本政府に対し「完全で誠実な謝罪を行うこと」・「法的措置をとり、生存者へ補償すること」・「人的な資源と機構をもって調査を行うこと」など7項目にわたる勧告を出したのである(*8) 。被害女性たちの立場からすれば、自分たちに戦時性暴力を行使した日本軍の最高責任者である天皇に対して刑事責任を追及するのは当然だろう。そしてその要求は、約半世紀にわたって戦争責任を直視することを避け続けてきた戦後日本社会の、戦時との連続性を問うものでもあるはずだ。まさにここでは、戦後日本が「大日本帝国」を「継承している」ことこそが問題となっているのではないか。
 しかし、川村は、この連続性を否認する(*9) 。「彼ら」が「大日本帝国」のイメージをもって現在の日本を捉えているため、その要求に応えれば、「われわれ」も「大日本帝国」の連続性に括り込まれてしまうことになるのであり、「それはぜったい避けなくちゃいけない」といっている。ここでの川村の力点は、被害者の呼びかけにどう応えていくのか、ということではなく、「大日本帝国」と明確に切り離された〈自己〉をあくまでも保とうとすることに置かれている。「われわれ」が戦前・戦時日本国家とは切断されていることを自明視し、その上で「彼ら」は『「大日本帝国」というイメージから離れていない」と高みにたって規定し、「彼ら」の声への応答を拒絶してしまうのだ。
 加藤典洋にさらなる「無責任やノンモラルの柔軟さ」を求める川村の論は、このような形で、国民国家批判のかたちをとりつつ、他者の呼びかけをも否認してしまう。そして川村の議論において最後まで残るのは、やはり、「責任」の「無」い〈自己〉なのである(*10)

(2)高橋源一郎の場合

 「アッピール」に署名した「文学者」の一人である高橋源一郎は、「戦争が終り、文学が……」(『小説トリッパー』一九九八年夏期号、『文学なんかこわくない』朝日文庫、二〇〇一年では「文学の向こう側」と改題)で、『敗戦後論』に言及している。この文章は「『「文学者」の討論集会アッピール」への署名についても触れられており、それは「その時、タカハシさんが考え得るもっとも愚かな行為であった」とされ、その行為に寄せられた様々な批判や指摘のすべてが「正しい」ものであったとして、次のように述べられている。

 タカハシさんが言葉というものと恐れとともに付き合うようになって知ったたった一つのことは、言葉を使おうとする者は誰でもそれを「正しい」と思って使うようになるということだった。いや、言葉はそれを使う者に、その言葉を使うことを「正しい」と思わせるのである。
(中略)
 それぞれの言葉は、それぞれの言葉を作り出した人間の世界の中で丁寧に吟味され、矛盾のないよう選ばれる。だから、それぞれの言葉を使う者はどちらも自分の正しさを疑わない。そして、いつかそれが「言葉がつくりだした空間の中での正しさ」ではなく、単なる「正しさ」であるように思い込む。
 それは言葉の持つ本質的な政治性である。


 高橋源一郎は、加藤典洋の論を、ここで述べられているような「正しさ」を主張しない「奇妙」なものだとしている。そしてその「奇妙」さにおいて、「彼だけが『戦争』を言葉で批判しようとした」、「『敗戦後論』で加藤典洋がやろうとしたのは、わたしたちの生存の条件を解きあかすことであった」と賞賛しているのである。
 この「戦争が終り、文学が……」は、「三十年ほど前」に高校生であった「タカハシさん」と、「タカハシさんをオルグしようとする」「ある党派の幹部」との会話の回想から始まっており、そこでの若き「タカハシさん」の「ぼくたちが言葉を持つ限り、言葉を用いる限り、『誤る』ことが必然なら、問題はどのように『誤る』だけではないでしょうか」という言葉が印象深く引かれている。「タカハシさん」が会話をしていた「ある党派の幹部」とは、連合赤軍の幹部であったことがほのめかされ、必ず「誤り得る」というところから出発することの必要性が言われており、加藤典洋の議論との共通性が見られる。
 ここでの高橋源一郎の論に限らず、「正しさ」という〈恐ろしさ〉というようなことがいわれる時に、学生運動当時の体験談が持ち出されることがよくあるが、率直にいって、その論理は実際に経験をしていない私のような者にとって、納得できるものではない。確かに、「正しさ」がある集団によって占有され、あるイデオロギーが〈絶対的正義〉とされることによって、深刻な暴力や犠牲が生まれてきたことは紛れもない事実だし、それは現在も続いている。しかし、だからといって、「正しさ」を求める行為の「すべて」を、危険視し遠ざけてしまうことに意味があるとは思えないのだ。そもそも、署名という行為に対する批判を、「そのすべてが正しい」と一括りにし、その「正しさ」と距離をおこうとするのは、単純にいって判断停止なのではないだろうか。しかし、高橋源一郎は、「正しさ」を目指さない「文学論」であるという点で、『敗戦後論』を高く評価していくのである。

(3)守られる「主体」

 中野敏男は、「『戦後日本』において『戦争への反省』は確かにあったはずなのに、それが結局は『アジアの民衆の声、被害者たちの声』に直面しなくなってしまう思想的理由」について考察し、「自由なる主体的意識」戦後啓蒙の代表的存在である丸山眞男と、その丸山に「大衆嫌悪」を見出して批判する吉本隆明との間に、「日本の大衆の主体形成あるいは自立」という「共通の問題関心の存在」を見出し、加藤典洋の『敗戦後論』を、「『責任』への問いかけに対して『主体形成』への決意をもって応える」という「『戦後日本』の言説に通例の問題構成がまた現れてきたと理解されうる事件」としてとらえている(*11) 。これまで見てきた『敗戦後論』に関わる川村湊と高橋源一郎の二人の議論も、この問題系に置き直して考えてみるのも意味あることかも知れない。川村は「国民主体」を批判するのだが、そのことにおいて他者の声までも否認する「無責任」かつ特権的な(「柔軟」な?)判断「主体」となっていた。高橋源一郎は、「誤り得る」「わたしたち」の「生存の条件を解き明かす」ものとして、『敗戦後論』を評価していた。二人の議論は、『敗戦後論』に表れている「『戦後日本』の正統的な問題構成」を強化するものではあれ、それを批判的に組みかえうるものではないだろう。
 二人に共通するのは、署名をし声明を出すという自己の行為についての、「愚か」な「自己欺瞞」であることは十分にわかっていた、別に「正しい」と思ってやったわけではないんだ、とする身振りである。この身振りとは、「愚か」な「欺瞞」的行為だと知っていたがそれでもあえて選択をしたのだという、〈決断〉をした自分たちの〈内面〉を保とうとするものであることに注意したい。「アッピール」に対する加藤典洋の批判に対抗するのではなく、「愚か」な行為であったことは認めつつも、そのことに自覚的に署名を選び取ったとすることで、その行為に至るまでの自分の心情だけは守られるのである。「アッピール」を出した本人たちが、自分の言動をこのように捉えなおした結果、憲法九条を論拠としていた「アッピール」という行為や内容そのものは、結局「自己欺瞞」にすぎず「愚か」であったものとして規定されてしまうのだ。
 先に述べたように、九〇年代前半という時代状況の中、「日本国家が戦争に加担することに反対」する「アッピール」が出されたことは、日本における戦争責任・戦後責任をとらえ直す契機としてありえたはずだ。しかし、これまで見てきたように、「アッピール」を出した当の「文学者」は、加藤典洋『敗戦後論』への反応において、「『被害者たちの声』に直面」することのない議論に終始した、といわざるえない。契機は、つかみそこねられてしまったのである。



Ⅲ.「9・11」以降

 「9・11」の後、日本は法整備も含めて戦争に参加できる体制を急速に整えていくが、湾岸戦争時には反戦の声をあげた「文学者」たちの多くは、沈黙していく。その中で柄谷行人は「これは予言ではない」(『批評空間』Web CRITIQUE、http://www.criticalspace.org)という文章を、二〇〇一年九月一六日という早い段階でインターネット上に発表している。

 今後、日本では、憲法改正をはじめ、戦争への参加が急速に推し進められるだろう。それに抵抗することはできないだろう。それは湾岸戦争の時にはじまったのであり、そのときに抵抗しなかった奴らが今できるはずがないのだ。しかし、1999年の時点で、私はもうそんなこと(今『戦前』に在るということ─引用者注)について一喜一憂する気はなくなった。戦争に向かうに決まっていたからだ。だから、そのころから、私は『戦後の思考』について考え始めた。それは第二次大戦後のことではない。これから起こる戦争の『後』のことだ。とはいえ、それは第二次大戦の『戦後』と無関係ではない。われわれはあの愚劣な『戦後』をこそ反復してはならないのである。
(中略)
 どうか、皆さん、国家と資本が煽動する愚かな興奮の中に呑み込まれたり、右顧左眄・右往左往することはやめてもらいたい。そうすれば、三、四年後に確実に後悔するだろうから。その逆に、『戦後』にむけて着々と準備することを勧めたい。


 湾岸戦争時に、「文学者」による新たな反戦を提唱した人物が、その湾岸戦争時と現在との関係を言いながら、「抵抗すること」は無駄だし、出来るはずもない、戦争はやってくるのだからその「後」に備えよう、と見事なまでに「現実」に屈服する文章を書いてしまっている。言ってみれば、負けて「後悔」しないために、あらかじめ諦めることをすすめているのだ。また、「その時に抵抗しなかった奴らが今できるはずがない」という言い方で、今後あり得る様々な可能性を切ってしまってもいる。
 「アッピール」の中心的人物であった柄谷行人がこのような文章を書き、他の「文学者」たちが沈黙を守っているという状態は、当然批判の対象となった(*12) 。「『文学者』の討論集会」に参加しなかった山田詠美も、〈それ見たことか〉と次のように言っていく(山田詠美・河野多恵子「本当の戦争の話をしよう」、『文学界』二〇〇二年一月)。

「湾岸戦争をきっかけに、そういう全て(反戦運動―引用者注)がバカバカしくなりました。なんだかんだ言って戦争を経験していない団塊の世代の人たちが、反戦歌を歌ったりしていたということが今ではすごく腹立たしい。」
「私は今も昔も、日常的な、すごく個人的なものしか考えられない。今のこのちゃんと安心して小説が書ける場所を奪われたら困るとか、そういうことが先に立ちますから。湾岸戦争時みたいに、大上段に構えて戦争について語る人たちに対しては『バカみたい』と思ってしまう。」


 もちろん、ここに見られるような、「戦争」を経験しなければ「反戦」も意味が無いという〈素朴経験主義〉や、「個人的なもの」と大状況とを区分する昔ながらの〈文学〉的二項対立は論理として成立していないといえるが、「文学者」たちの〈その後〉は、このような論理ともよべない反戦批判にも、格好の根拠を与えてしまったようだ。
 柄谷は、「9・11」の直後の「これは予言ではない」だけでなく、『批評空間』第Ⅲ期第2号(二〇〇二年一月)の「編集後記」でも、「私は、今秋世界で騒がれていることなどは、将来的には、些事にしか見えないだろう、と思う」と述べている。私がここで問題だと思うのは、現在起っている、あるいはこれから起ろうとしている「戦争」は「些事」であり、あえて「抵抗」するのでなければ、それに関わることなく「戦後」をむかえられるとする、柄谷の認識である。いうまでもないことかもしれないが、「世界で騒がれていること」によって直接の暴力にさらされている人々は紛れもなく存在しており、そのような人々にとっては「将来」においても「些事」であるはずがないし、そもそも「将来」がありうるのかどうかもわからない。『倫理21』(平凡社、二〇〇〇年)において「死せる他者」との関係や「生まれざる他者への倫理的義務」を説き、自身が中心となって進めていた運動体NAMの「原理」においても、「他者は、生きている他者だけでなく、死者、そしてまだ生まれていない未来の他者をも含まなければならない」(*13) としていた柄谷にとっては、明らかな矛盾ではないか。
 「これは予言ではない」にしろ、「編集後記」にしろ、以前の柄谷の仕事に多くを教えられてきた者にとって、驚きをなくしては読むことができない文章であるが、なぜこうなってしまったのか。もうすでにNAMは解散してしまっているが、その「原理」をあらためて読み返してみると、ここで検討している柄谷の〈変化〉(?)につながる、見逃しがたい問題点が存在していると思われる。
 ここでは柄谷行人の著作として「NAMの原理」を検討してみたい。この「原理」は、単なる国民国家批判ではなく、「資本制経済の内側と外側」から、「資本制=ネーション=ステート」の三位一体構造への対抗運動として、「トランスナショナルな『消費者としての労働者』の運動」を組織するというあり方や、「個人の倫理性」に基づいて「生産―消費協同組合のグローバルなネットワーク」や「地域通貨経済の形成」を目指す点など、現在の諸問題を解決していく上で有効だと思われる考えが含まれており、賛同できる点も多い(*14) 。しかし、疑問を抱かざるをえないのは、たとえば次のような部分である。

われわれは、マイノリティ・女性・環境問題、その他の市民運動の課題を重視するが、それらの運動に資本制経済がもたらす生産関係、また、先進諸国と第三世界諸国との生産関係への認識が欠けていることを指摘しなければならない。これらの問題は、基本的にブルジョア革命の理念(人権)に含まれて居るから、近代国家も資本もそれに反対することはできない。しかし、たとえそれらが実現されても、資本制経済の生産関係は手つかずに残る。実際には、こうした運動は一定の成功を収めるとともに、インパクトを失い、今や社会民主主義に帰着している。今重要なのは、資本と国家の揚棄に関して、いかに明瞭な見通しをもつか、そして、そうした多様で分散的な運動をいかに統合するかということである。

 ここで、「今や社会民主主義に帰着している」様々な市民運動の欠点を挙げているが、その指摘は単なる思い込みが作用しているものと考えざるをえず、妥当性を欠いている。「これらの問題は、基本的にブルジョア革命の理念(人権)に含まれて居るから、近代国家も資本もそれに反対することはできない」としているが、本当にそうか。逆に、たとえば「マイノリティ」の側からすれば(この「マイノリティ」という大ざっぱな括り方にも違和感を覚えるが)、「近代国家」と「資本」から「反対」され続け、一向に問題が解決に向かっていないというのが実感なのではないだろうか。また、「こうした運動は一定の成功を収めるとともに、インパクトを失」っているとしていることにも疑問が残る。「一定の成功」とは何を指しているのかもよくわからないが、それよりもひっかかるのは、「インパクト」という言葉である。一体、誰に対する、どのような、何のための「インパクト」なのだろうか。「マイノリティ」や「女性」の置かれた状況と関わらずに「インパクト」の有無を判定できる立場から、「マイノリティ・女性・環境問題」を克服しようとする運動の持つ可能性を、矮小化してとらえているようにしか見えない。
 さらに、これらの市民運動が「資本と国家の揚棄」という課題の下に「統合」されなければならないとされていることが問題だろう。言ってみれば、「資本と国家の揚棄」という目標の下位区分として「マイノリティ・女性・環境問題」が置かれることになるのだ。『日本精神分析』(文藝春秋、二〇〇一年)に収められた「市民通貨の小さな王国」での柄谷の発言に、そのことがよく表れている。

環境問題で人を啓蒙している人がいますが、なぜ彼らは市民通貨に参加しないのでしょうか。それは国家による規制で解決することを考えているからでしょう。しかし、それでは資本制=ネーション=ステートの三位一体的な構造を超えることなどできません。彼らはいつも啓蒙的に運動していますが、何も実行していない。(中略)
 フェミニストの運動についても同じことがいえます。それは、先ほどいったように、市民通貨を促進することを通してはじめて、現実的なものになると私は思います。他のマイノリティの運動に関しても同じです。(中略)ところが、この種の運動の理論家は、現実的になろうとすると、議会政党に向かいます。そして、議会政党をうごかすつもりでいながら、実際は運動を議会政党の票田にしてしまう。あるいは、はじめから、議会政党がその目的で運動をやっている場合が多い。しかし、このようなことで一喜一憂するのは、もういい加減にやめるべきでしょう。


 「市民通貨」Qの問題をきっかけにNAMが解散に至ったことを考えると(*15) 、焦りしか感じられない文章ではあるが、「市民通貨」に参加しないかぎり運動は「現実的なもの」にはなりえないとする、この特権的な振る舞いは批判されなければならない。たとえば、外国人参政権の問題を考えるだけでいい。権利を有する者が、権利の無い者に向かって、〈その権利にこだわるのは、意味がない〉と言っているのである。
 「他者は、生きている他者だけでなく、死者、そしてまだ生まれていない未来の他者をも含まなければならない」という「倫理」を説いた柄谷であったが、実際は自分の主要な関心事のに「他者」を置いてしまっていた。このように見てくれば、実は「これは予言ではない」やあの「編集後記」も、驚くべき文章ではなかったのである。



Ⅳ 抵抗・非暴力・知識人

 柄谷行人は、他にも「入れ札と籤引き」(『日本精神分析』、所収)で、〈無駄な抵抗〉をしないことをすすめている。

 戸坂潤が小林秀雄を攻撃したのは、革命的なふりをしたがる左翼の虚勢にすぎません。しかも、最も理解してくれている者に八つ当たりしているだけです。戸坂は優秀な哲学者でしたが、このような愚かさのために、戦争が終る直前に、獄死する目にあったというべきでしょう。小林は「腹も立たぬ」と言いますが、こうしたことが続くたびに熱意を失ったことは疑いがありません。彼は、日中事変の勃発に対して、「国民は黙つて事変に処した」と書きました。つまり、その時点から、「人民戦線」的な抵抗を放棄してしまうのです。なぜ突然、そうなったのかわかりません。しかし、こうした小林秀雄の態度の背後に、菊池寛がいたということに注意すべきでしょう。菊池寛さえ諦めてしまったということが、小林秀雄に、それ以上の抵抗を断念させたように思われるのです。

 ここで柄谷は、「抵抗」を諦めることを正当化していく。現状を読めない愚かしい「左翼」がいるから、「抵抗」を断念することはしかたがない、というのである。また、戸坂が「獄死」したのは、彼が「虚勢」を張る「愚か」な「左翼」だったからだとすることにより、戸坂潤を「獄死」させた者の責任は決して問われず、「日本文学報国会」の創立総会議長を務めた菊池寛のあり方も、しょうがなかったこととされてしまうのである。
 冒頭で述べたように、この間日本においてもイラク攻撃反対の動きは確かに高まりを見せたのだが、しかし同時に、この文章に表れているような、「抵抗」することを避ける風潮も強固に存在しているように思われる。今回の統一地方選の結果を見ればわかるように、イラク攻撃反対の声は、「北朝鮮の脅威」を理由に戦争ができる体制を整えつつある日本の現状に対して、「抵抗」することにはうまくつながっていないのではないか。「戦争」・「暴力」に反対はしているのだが、それが「抵抗」に決して結びつかない一つの例として、上野千鶴子の次の文章をあげておきたい。
 「暴力」が吹き荒れる現状への批判として、上野は次に引く「非力の思想-戦争の犯罪化のために」(『朝日新聞』二〇〇二年九月一〇日夕刊)という文章を書いている。

 理不尽な暴力に遭う。ゆるせない、と拳をにぎりしめる。そこまではおなじだ。そこで、くちびるをかみながら拳をおろす。そんな経験をわたしたちはしてこなかっただろうか。ヒロシマ、ナガサキの惨劇のあと、日本には拳をふりあげる力さえなかった。(中略)自分の無力さが骨身に沁みているからだ。反撃すれば、もっと手痛いしっぺがえしが待っていることを、知っているからだ。この経験は、無力な者には親しい。
 もしあなたが非力なら、あなたは反撃しようとはしないだろう。なぜなら反撃する力があなたにはないからだ。あなたが反撃を選ぶのは、あなたにその力があるときにかぎられる。そしてその力とは軍事力、つまり相手を有無を言わさずにたたきのめし、したがわせるあからさまな暴力のことだ。
 反撃の力がないとき。わたしたちはどうしたらいいのだろう? 問いは、ほんとうはここから始まるはずだ。
(中略)
 相手から力ずくでおしつけられるやりかたにノーを言おうとしている者たちが、同じように力ずくで相手に自分の言い分をとおそうとすることは矛盾ではないだろうか。フェミニズムにかぎらない。弱者の解放は、『抑圧者』に似ることではない。


 ここで言われているのは、よく目にする〈非暴力〉の主張であるので、思わずうなずきそうになるが、その主張がどのような働きをしているのか考えると、立ち止まらざるをえない。ここで上野は、暴力を受けた「力」がない「非力」な者は、「反撃しても」「もっと手痛いしっぺがえしが待っている」だけなので、反撃をしないのだ、と被害者の規定を行っている。もっと言ってしまえば、被害者の反応を、あらかじめ決めつけているのである。つまり、理不尽な暴力を受ける「非力」な者の、それでも「反撃」する、という選択肢を奪ってしまっているのだ。徐京植が強調する、「あらゆる方法を奪われた者から」、「最後の想像力」すらも奪い取る「非暴力主義」の働きを、まさにここに見ることができるだろう(*16)
 また、あらゆる暴力を、相手をたたきのめす「軍事力」だとして、ひとしなみに見ることで、どのような人が・どのような人に対して・どのような状況の中で・どのような暴力をふるったのかという、暴力の差異、違いが完全に見落とされている。すべての暴力をひとくくりにし、それぞれの暴力を直視することを避けているといっていい。その結果、弱者が「反撃」するのは「矛盾」なのだ、とされている一方、理不尽な暴力をふるい「手痛いしっぺがえし」をする側には、決して批判が及ばないのだ。ここに、日本社会において特徴的な、〈他者への想像力〉を欠いた〈非暴力無抵抗〉主義が表れているだろう(*17)

 最後に、E・W・サイードが「知識人」の「責務」について述べた、『知識人とは何か』の一節を引いておきたい。

 したがって知識人がなすべきことは、危機を普遍的なものととらえ、特定の人種なり民族がこうむった苦難を、人類全体にかかわるものとみなし、その苦難を、他の苦難の経験とむすびつけることである。(中略)
知識人にとってみれば、自分自身の民族的・国民的共同体の名のもとになされる悪には眼をつぶり、あとはただ自国民を擁護し正当化しておくほうが、気が楽であるし、そのほうが人から憎まれずにすむ。(中略)だが、たとえそうであるとしても、知識人は、集団的愚行が大手をふってまかりとおるときには、断固これに反対の声をあげるべきであって、それにともなう犠牲を恐れてはいけないのである。(*18)


 これまで見てきたように、湾岸戦争では「アッピール」を出した「文学者」たちであったが、「危機を普遍的なものととらえ」ることはできず、いまでは「反対の声をあげる」ことができなくなってしまった。この「文学者」たちの〈現状〉にあまり関わることなく、イラク戦争反対の動きは高まりをみせたようにも思われるのだが、どのようにしたらその動きを、「有事法制」の成立が目前のものとなってしまっている現在の日本の状況に対する〈抵抗〉につなげていけるのか。その時に必要不可欠なのが、「危機を普遍的なものととらえ、特定の人種なり民族がこうむった苦難を、人類全体にかかわるものとみなし、その苦難を、他の苦難の経験とむすびつけること」なのではないだろうか。
 ここで言われているような大「知識人」などいまや存在しえない、という声も聞こえてきそうだ。しかし、どこか遠くにいるえらい「知識人」だけが、このことを行えるというのではないだろう。そうではなく、ここでサイードが述べていることを行っていこうとする者こそが、「知識人」なのではないか。〈他者への想像力〉をもってそれぞれの「危機」・「苦難」の実態を見つめ、同時代性においてそれぞれをむすびつけるとともに、その歴史性を明らかにして、「集団的愚行」がまかりとおる圧倒的に不均衡な現状に対して「反対の声をあげる」こと。ひとりひとりがこの意味での「知識人」になることが、いままさに求められている。


 


(*1)もちろん、この「アッピール」の文言そのものは批判されなければならないと思う。坪井秀人が指摘する、「声明1」と「声明2」の間の、「私」・「われわれ」という安易な主語の置き換え(『声の祝祭』名古屋大学出版会、一九九七年、三七四頁)や、「声明2」の「アジア諸国に対する加害への反省に基づいている」・「西洋人自身の祈念が書き込まれている」といった、加藤典洋も批判する記述には、やはり問題があるだろう。

(*2) この発言の後二ヶ月あまりの間に、本島市長のもとには、七三〇〇通もの書信が寄せられた。そのうち、発言を支持するものは六九四二通にものぼった。マス・メディアにおいても、「言論の自由」の問題に重点がおかれてしまったとはいえ、「天皇の戦争責任」が議論の対象となったのは、今からすると驚くべきことである(『増補版 長崎市長への七三〇〇通の手紙』径書房、一九八九年。ノーマ・フィールド『天皇の逝く国で』みすず書房、一九九四年)。

(*3) 代表的なものとしては、笠井潔「湾岸戦争と無根拠な『平和』」(『現代思想』一九九一年五月)、若森栄樹「湾岸戦争、天皇制、署名」(『文藝』一九九一年五月)。

(*4) たとえば、高橋哲哉『戦後責任論』(講談社、一九九九年)、小森陽一・高橋哲哉編『ナショナル・ヒストリーを超えて』(東大出版会、一九九八年)、「責任と主体をめぐって」(『批評空間』第Ⅱ期13号、一九九七年四月)。

(*5) 加藤典洋の憲法論の問題点については、多くの言葉を費やす必要はないだろう。古関彰一『新憲法の誕生』(中央文庫、一九九五年)は、GHQ案と日本の「民間草案」との憲法理念における共通性が見られること、「押しつけ」られたGHQ案を日本政府法制局官僚が巧みに「日本化」していき、外国人の人権を保障する規定がすべて消された過程などを明らかにしている。古関によれば、憲法制定過程とは「押しつけはあったのか、なかったのか」という「国家対国家の対立という図式によって解明されるものではな」い。また、高橋哲哉による加藤の憲法論批判については、「日本のネオナショナリズム2」(『戦後責任論』、所収)参照。平和憲法が歴史的に果してきた役割を加藤が無視あるいは軽視していることや、憲法の内容よりも「わたし達の手で選ばれていること」を優先させる、加藤の「純粋ナショナリズム」的思考の問題点を指摘している。

(*6) 徐京植・高橋哲哉『断絶の世紀 証言の時代』(岩波書店、二〇〇〇年)、一一三頁。

(*7) 酒井直樹・川村湊・守中高明「〈共同性〉批判としての『戦後詩』」(『現代詩手帖』一九九七年九月)、一五~一六頁。

(*8) VAWW-NETジャパン編『裁かれた戦時性暴力』(白澤社、二〇〇一年)、二九四~三〇五頁。

(*9) この「連続性」は、「女性のためのアジア平和基金」(国民基金)の呼びかけ人も認めている。「日本の戦後国家は戦前国家と連続性を有しており、したがって過去の戦争犯罪をただの一つも自分では裁けなかったのです」。しかし、この認識が「このような日本国家にいま戦争犯罪を認め、法的責任をとるように求めても難しいと思います」と、「連続性」を切ることは不可能だという主張の根拠となっていることに驚かされる(大鷹淑子・下村満子・野中邦子・和田春樹「なぜ『国民基金』を呼びかけるか」、『世界』一九九五年一一月、一二六頁~一二七頁)。

(*10) 国民国家批判論が、「日本国民」であることの法的・政治的レベルでの責任までを解除してしまう、責任回避の論理につながっていくことの問題については、前掲『断絶の世紀 証言の時代』一三〇~一三七頁、参照。

(*11) 中野敏男「〈戦後〉を問うということ」、『現代思想臨時増刊号 戦後東アジアとアメリカの存在』二〇〇一年七月、所収、二九七~二九八頁。

(*12) たとえば、大塚英志『サブカルチャー反戦論』(角川書店、二〇〇一年)や東浩紀・笠井潔『動物化する世界の中で』(集英社新書、二〇〇三年)。大塚は「今回の『戦争』をめぐる『動き』のそもそもの始まりが柄谷が言うように『湾岸』にあったというのなら、ならばこそ、あの時の『声明』やふるまいは今に至るまで継続されていてしかるべきだし、今回もまたそれは繰り返されてしかるべきではないか」と至極真っ当な批判をしている。

(*13) 柄谷行人・西部忠・高瀬幸途・朽木水編著『NAM原理』(太田出版、二〇〇〇年)、二七頁。

(*14) 「NAMの原理」、同書、所収。

(*15) 柄谷行人「FA宣言」(NAMホームページ、http://www.nam21.org)。ただし、NAMの解散にともない、このホームページも閉鎖された。

(*16) 徐京植「『希望』について」(『ユリイカ』二〇〇一年八月)、一四六~一四七頁。

(*17) 〈非暴力〉といえばガンジーが想起されることが多いが、その思想は決して〈無抵抗〉主義などではなかった。ガンジーの〈非暴力〉は〈不服従〉と切り離すことのできないものであり、「道徳」性において積極的に闘おうとする、ラディカルな〈抵抗〉の一形態なのである。『わたしの非暴力』1・2(みすず書房、一九九七年)、『真の独立への道』(岩波文庫、二〇〇一年)、参照。

(*18) エドワード・W・サイード『知識人とは何か』(平凡社ライブラリー、一九九八年)、八三~八四頁。
  • 2008.03.18 18:30 
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> 論文・エッセイ

金光翔「<佐藤優現象>批判」(『インパクション』第160号(2007年11月刊)掲載)【上】 

(※『インパクション』掲載時の傍線は下線に、傍点は太字に、それぞれ改めている。
※※ 誤字・出版社による表記ミスを、適宜改めた。(2008年7月7日))

1.はじめに

 このところ、佐藤優という人物が「論壇」を席巻しており、リベラル・左派系の雑誌から右派メディアにまで登場している。

 だが、「論壇の寵児」たる佐藤は、右派メディアで排外主義そのものの主張を撒き散らしている。奇妙なのは、リベラル・左派メディアが、こうした佐藤の振舞いを不問に付し、佐藤を重用し続けていることにある。

 佐藤による、右派メディアでの排外主義の主張の展開が、リベラル・左派によって黙認されることによって成り立つ佐藤の「論壇」の席巻ぶりを、以下、便宜上、〈佐藤優現象〉と呼ぶ。この現象の意味を考える手がかりとして、まずは、佐藤による「論壇」の席巻を手放しに礼賛する立場の記述の検討からはじめよう。例えば、『世界』の編集者として佐藤を「論壇」に引き入れ、佐藤の著書『獄中記』(岩波書店、二〇〇六年一二月)を企画・編集した馬場公彦(岩波書店)は、次のように述べる。

 「今や論壇を席巻する勢いの佐藤さんは、アシスタントをおかず月産五百枚という。左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない。」「彼の言動に共鳴する特定の編集者と密接な関係を構築し、硬直した左右の二項対立図式を打破し、各誌ごとに異なったアプローチで共通の解につなげていく。」「現状が佐藤さんの見立て通りに進み、他社の編集者と意見交換するなかで、佐藤さんへの信頼感が育まれる。こうして出版社のカラーや論壇の左右を超えて小さなリスクの共同体が生まれ、編集業を通しての現状打破への心意気が育まれる。その種火はジャーナリズムにひろがり、新聞の社会面を中心に、従来型の検察や官邸主導ではない記者独自の調査報道が始まる。」「この四者(注・権力―民衆―メディア―学術)を巻き込んだ佐藤劇場が論壇に新風を吹き込み、化学反応を起こしつつ対抗的世論の公共圏を形成していく。」(1)

 馬場の見解の中で興味深いのは、〈佐藤優現象〉の下で、「硬直した左右の二項対立図式」が打破され、「論壇」が「化学反応」を起こすとしている点である。ある意味で、私もこの認識を共有する。だが、「化学反応」の結果への評価は、馬場と全く異なる。私は、これを、「対抗的世論の公共圏」とやらが形成されるプロセスではなく、改憲後の国家体制に適合的な形に(すなわち、改憲後も生き長らえるように)、リベラル・左派が再編成されていくプロセスであると考える。比喩的に言えば、「戦後民主主義」体制下の護憲派が、イスラエルのリベラルのようなものに変質していくプロセスと言い替えてもよい。

 以下の叙述でも指摘するが、佐藤は対朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)武力行使、在日朝鮮人団体への弾圧の必要性を精力的に主張している。安倍政権下の拉致外交キャンペーンや、一連の朝鮮総連弾圧に対して、リベラル・左派から批判や抗議の声はほとんど聞かれなかったのは、「化学反応」の典型的なものである。「戦後民主主義」が、侵略と植民地支配の過去とまともに向き合わず、在日朝鮮人に対してもせいぜい「恩恵」を施す対象としか見てこなかったことの問題性が、極めて露骨に出てきていると言える。〈嫌韓流〉に対して、リベラル・左派からの反撃が非常に弱いことも、こうした流れの中で考えるべきであろう。

 私は、佐藤優個人は取るにたらない「思想家」だと思うが、佐藤が右派メディアで主張する排外主義を、リベラル・左派が容認・黙認することで成り立つ〈佐藤優現象〉は、現在のジャーナリズム内の護憲派の問題点を端的に示す、極めて重要な、徴候的な現象だと考える。

 馬場は、佐藤が「左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない」などと言うが、後に見るように、佐藤は、「右」の雑誌では本音を明け透けに語り、「左」の雑誌では強調点をずらすなどして掲載されるよう小細工しているに過ぎない。いかにも官僚らしい芸当である。佐藤自身は自ら国家主義者であることを誇っており、小谷野敦の言葉を借りれば、「あれ(注・佐藤)で右翼でないなら、日本に右翼なんか一人もいない」(2)。

 佐藤が読者層に応じて使い分けをしているだけであること(3)は誰にでも分かることであるし、事実、ウェブ上でもブログ等でよく指摘されている。そして、小谷野の、この現象が「日本の知識人層の底の浅さが浮き彫りになった」もの(4)という嘲笑も正しい。だが、改憲派の小谷野と違い、改憲を阻止したいと考える者としては、この現象について、佐藤優に熱を上げている護憲派を単に馬鹿にするだけではなく、〈佐藤優現象〉をめぐって、誰にでも浮かぶであろう疑問にまともに答える必要がある。なぜ、『世界』『金曜日』等の護憲派ジャーナリズムや、斎藤貴男や魚住昭のような一般的には「左」とされるジャーナリストが、佐藤に入れ込んでいるのか? なぜ、排外主義を煽る当の佐藤が、『世界』『金曜日』や岩波書店や朝日新聞の出版物では、排外主義的ナショナリズムの台頭を防がなければならない、などと主張することが許されているのか?

 この〈佐藤優現象〉はなぜ起こっているのか? この現象はどのようなことを意味しているのか? どういう帰結をもたらすのか? 問われるべき問題は何か? こうした問いに答えることが、改憲を阻止したいと考える立場の者にとって、緊急の課題であると思われる。



2.佐藤優の右派メディアでの主張

 まず、佐藤の排外主義的主張のうち、私の目に触れた主なものを挙げ、佐藤の排外主義者としての活躍振りを確認しておこう。

①歴史認識について

 佐藤は言う。「「北朝鮮が条件を飲まないならば、歴史をよく思いだすことだ。帝国主義化した日本とロシアによる朝鮮半島への影響力を巡る対立が日清戦争、日露戦争を引き起こした。もし、日本とロシアが本気になって、悪い目つきで北朝鮮をにらむようになったら、どういう結果になるかわかっているんだろうな」という内容のメッセージを金正日に送るのだ」(5)。朝鮮の植民地化に対する一片の反省もない帝国主義者そのものの発言である(6)。また、アメリカ議会における慰安婦決議の件に関しても、「事実誤認に基づく反日キャンペーンについて、日本政府がき然たる姿勢で反論することは当然のことだ。」と述べている(7)。

 特に、大川周明のテクストと佐藤の解説から成る『日米開戦の真実―大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』(小学館、二〇〇六年四月)では、極めて露骨に、日本の近現代史に関する自己の歴史認識を開陳する。以下、引用する。佐藤が自説として展開している部分である。

 「日本人は(注・太平洋戦争)開戦時、少なくとも主観的には、中国をアメリカ、イギリスによる植民地化支配から解放したいと考えていた。しかし、後発資本主義国である日本には、帝国主義時代の条件下で、欧米列強の植民地になるか、植民地を獲得し、帝国主義国となって生き残るかの選択肢しかなかった。」(三頁)、「「大東亜共栄圏」は一種の棲み分けの理論である。日本人はアジアの諸民族との共存共栄を真摯に追求した。強いて言えば、現在のEUを先取りするような構想だった。」(四頁)、「あの戦争を避けるためにアメリカと日本が妥協を繰り返せば、結局、日本はアメリカの保護国、準植民地となる運命を免れなかったというのが実態ではないかと筆者は考える。」(六頁)、「日本の武力によって、列強による中国の分裂が阻止されたというのは、日本人の眼からすれば確かに真実である。(中略)中国人の反植民地活動家の眼には、日本も列強とともに中国を分割する帝国主義国の一つと映ったのである。このボタンの掛け違いにイギリス、アメリカはつけ込んだ。日本こそが中国の植民地化と奴隷的支配を目論む悪の帝国であるとの宣伝工作を行い、それが一部の中国の政治家と知的エリートの心を捉えたのである。」(二八一頁)。また、蒋介石政権については、「米英の手先となった傀儡政権」(二五七頁)としている。他方、佐藤は、汪兆銘の南京国民政府は「決して対日協力の傀儡政権ではなかった」(二四九頁)とする。

 右翼たる佐藤の面目躍如たる文章である。ちなみに、こんな大東亜戦争肯定論の焼き直しの本を斎藤貴男は絶賛し、「大川こそあの時代の知の巨人・であったとする形容にも、大川の主張そのものにも、違和感を抱くことができなかった」としている(8)。

②対北朝鮮外交について

 佐藤は、「拉致問題の解決」を日朝交渉の大前提とし、イスラエルによるレバノン侵略戦争も「拉致問題の解決」として支持している。「イスラエル領内で勤務しているイスラエル人が拉致されたことは、人権侵害であるとともにイスラエルの国権侵害でもある。人権と国権が侵害された事案については、軍事行使も辞せずに対処するというイスラエル政府の方針を筆者は基本的に正しいと考える」(9)。さらに、現在の北朝鮮をミュンヘン会談時のナチス・ドイツに準えた上で、「新帝国主義時代においても日本国家と日本人が生き残っていける状況を作ることだ。帝国主義の選択肢には戦争で問題を解決することも含まれる」としている。当然佐藤にとっては、北朝鮮の「拉致問題の解決」においても、戦争が視野に入っているということだ。『金曜日』での連載においても、オブラートに包んだ形ではあるが、「北朝鮮に対するカードとして、最後には戦争もありうべしということは明らかにしておいた方がいい」と述べている(10)。

 さらに、アメリカが主張してきた北朝鮮の米ドル札偽造問題が、アメリカの自作自演だった可能性が高いという欧米メディアの報道に対して、佐藤は「アメリカ政府として、『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』の記事に正面から反論することはできない。なぜなら、証拠を突きつける形で反論するとアメリカの情報源と情報収集能力が明らかになり、北朝鮮を利してしまうからだ」(11)と、いかなる反証の根拠も示さずに(反証の必要性を封じた上で)、「北朝鮮の情報操作」と主張しているが、この主張は、保守派の原田武夫にすら否定されている(12)。佐藤は現在、右派メディアの中でも最も「右」に位置する論客の一人であると言えよう。

③朝鮮総連への政治弾圧について

 佐藤は、「在日団体への法適用で拉致問題動く」として、「日本政府が朝鮮総連の経済活動に対し「現行法の厳格な適用」で圧力を加えたことに北朝鮮が逆ギレして悲鳴をあげたのだ。「敵の嫌がることを進んでやる」のはインテリジェンス工作の定石だ。/政府が「現行法の厳格な適用」により北朝鮮ビジネスで利益を得ている勢力を牽制することが拉致問題解決のための環境を整える」と述べている(13)。同趣旨の主張は、別のところでも述べている(14)。「国益」の論理の下、在日朝鮮人の「人権」は考慮すらされてない。

 漆間巌警察庁長官(当時)は、今年の一月一八日の会見で、「北朝鮮が困る事件の摘発が拉致問題を解決に近づける。そのような捜査に全力を挙げる」「北朝鮮に日本と交渉する気にさせるのが警察庁の仕事。そのためには北朝鮮の資金源について事件化し、実態を明らかにするのが有効だ」と発言しているが、佐藤の発言はこの論理と全く同じであり、昨年末から激化を強めている総連系の機関・民族学校などへの強制捜索に理論的根拠を提供したように思われる。佐藤自身も、「法の適正執行なんていうのはね、この概念ができるうえで私が貢献したという説があるんです。『別冊正論』や『SAPIO』あたりで、国策捜査はそういうことのために使うんだと書きましたからね。」と、その可能性を認めている(15)。



3.佐藤優による主張の使い分け

 排外主義者としての佐藤の主張は、挙げ出せばきりがない。前節で挙げたのも一例に過ぎない。では、佐藤は、こうした主張を『世界』『金曜日』でも行っているのだろうか。

 佐藤が仮に、「左」派の雑誌では「右」ととられる主張を、「右」派の雑誌では「左」ととられる主張をすることで、「硬直した左右の二項対立図式を打破」しているならば、私も佐藤をひとかどの人物と認めよう。だが、実際に行われていることは、「左」派メディアでは読者層の価値観に直接抵触しそうな部分をぼかした形で語り、「右」派メディアでは本音を語るという下らない処世術にすぎない。「左右の二項対立図式」の「打破」は、「左」の自壊によって成り立っているのだ。佐藤が『金曜日』と右派メディアで同一のテーマを扱った文章を読み比べれば、簡単にそのことはわかる。

 一例として、米国下院での「慰安婦」決議に関する佐藤の主張を読み比べてみよう。産経新聞グループのサイト上での連載である〈地球を斬る〉では、「慰安婦」問題をめぐるアメリカの報道を「滅茶苦茶」と非難し、「慰安婦」問題に関する二〇〇七年三月一日の安倍発言についても「狭義の強制性はなかった」という認識なのだから正当だとして、あたかも「慰安婦」決議案自体が不正確な事実に基づいたものであるかのような印象を与えようとしている(16)。ところが、『金曜日』では、こうした自分の主張は述べず、国権論者としての原則的な立場から日本政府の謝罪には反対だとしている(17)。なお、『金曜日』の同文章では「歴史認識を巡る外交問題は内政不干渉を基本とする「薄っぺらい論理」で展開することが、結果としてもっともよいのだという信念を筆者はもっている」と述べているが、同じ意味合いの文章が、〈地球を斬る〉では、「慰安婦決議に関して、アメリカ下院ごときに何を言われようとも、謝罪をする筋合いはない。中国や韓国から何を言われようとも、公約として掲げた靖国神社参拝を小泉純一郎前総理が取りやめなかったのと同じ論理構成をとればよい」(18)、「国家主権を盾に取り「歴史認識は外交問題になじまない」という「薄っぺらい論理」をあえて強調して、入り口で議論を却下することだ」(19)としている。「信念」だったはずのものが、戦術の一つになっているのだ。佐藤による、「左派」雑誌での主張のぼかしの典型例といえる。

 また、『金曜日』の同文章では、「国家ではなく日本社会が「慰安婦」問題に正面から取り組むことなくして、日本が過去の過ちを克服することはできない」と締め括るが、「過去の過ち」という認識、その「克服」という視点は、〈地球を斬る〉の同記事にはどこにも見出せない。この一文に〈地球を斬る〉の該当文章で対応するのは、恐らく、「アジア女性基金への言及」であろうが、ここでは、「過去の過ちの克服」という観点からではなく、海外への広報手段として言及されており、アメリカ議会関係者にロビー活動をしなかったとして外務官僚を非難している(実際は、決議阻止のために外務省は執拗にロビー活動をしていた(20))。ここには、佐藤の、左派メディアでは主張をオブラートに包み、右派メディアでは本音を明け透けに語るという特徴が、端的に表れている。

 なお、佐藤が発起人の一人であり、その「勉強会」においてほぼ毎回佐藤がゲストとの対談を行なっている団体「フォーラム神保町」で世話人を務めるなど、佐藤と親しくしている森達也は、大塚英志との対談(21)において、六カ国協議での日本の姿勢が、東アジアの安全保障を拉致問題の下に置くものであり、だからこそ完全に蚊帳の外に置かれたと述べた後、「先日、いわゆる起訴休職外務事務官の佐藤優さんと電話で話した際に、六カ国協議どう思う?って聞いたら、みんなはあそこにチェス盤を持ってきているのに、日本だけが将棋盤を持ってきている……(中略)のが今回の六カ国協議だという言い方をしていて、実に言い得て妙だと思った」と、自分の指摘を補強する意見として佐藤との電話での会話を紹介している。だが、「2②」でも指摘したが、森が批判する「拉致問題の解決抜きにして日朝交渉はありえない」という原則こそ、佐藤が右派メディアのさまざまな媒体で繰り返し主張しているものである。ここでは、佐藤がジャーナリストらとの付き合いでも、「使い分け」をしているらしいことが窺われる。



4.佐藤優へ傾倒する護憲派ジャーナリズム

 ここで、護憲派ジャーナリズムの佐藤への傾倒ぶりを確認し、簡単に批判しておこう。

 特に、『金曜日』の佐藤への入れ込み方はすさまじい。佐藤は同誌に「佐藤優の飛耳長目」なる連載を月一回で持っているが、それだけではなく、『金曜日』編集部は、『AERA』二〇〇七年四月二三日号の記事「佐藤優という罠」についての佐藤からの「大鹿靖明『AERA』記者への公開質問状」を「論争」欄に掲載し(22)、また、「紙幅の関係で掲載できなかった部分」を同誌のホームページに掲載している。いつもは読者からの投書が掲載される「論争」欄に佐藤の文章が載ることからして、編集部の佐藤への入れ込み方が推し量れるが、「論争」欄では字数が足りないからとして、長い全文をホームページに掲載させてやるという便宜をはかったのは『金曜日』では前代未聞のことだろう。佐藤は、公開質問状の中で、上記の『AERA』記事内の小谷野の発言に反論した上で「稚拙なコメント」と決め付けたが、小谷野によれば(23)、『金曜日』編集部は、小谷野による佐藤への返答のウェブページへの掲載を拒否したとのことである。また、前述の「フォーラム神保町」の世話人には、『金曜日』の編集委員や編集部員が名を連ねている(24)。

 片山貴夫は自分のブログで、今年二月二八日、『金曜日』編集部に対し、前記の佐藤の記事「六者協議と山崎氏訪朝をどう評価するか」掲載に関する謝罪と記事取消しの要求を行なった際のやり取りを掲載している。興味深い内容なので、以下、引用する。

 「電話に出てきたのは伊田という人でした。「自分は佐藤優さんの記事は七割方読んでいるし直接あって話し合ったこともある」とのこと。佐藤にかなり同調している人物のようでした。/私の批判に対し、伊田氏は、「『問題を平和的に解決する算段を最後の最後まで考えることが日本の国益に貢献する』(注・前掲記事)と書いてあります。佐藤さんは平和的な解決を求めている人です」と、答えたのです。/これほど恐るべき欺瞞はありません。「それは佐藤優のエクスキューズにすぎません。戦争を仕掛ける側は必ず、「自国側は戦争をしたくて開戦したのではない。『問題を平和的に解決する算段を最後の最後まで考え』(注・前掲記事)たが、相手国側が不誠実な対応に終始したからやむなく開戦に至ったのだ」というのです。「最後には戦争もありうべし」という佐藤優の前提だと必ずそうなるのです」と、私が言うと、伊田氏は「それはあなたの深読みですね」と答えました。/「その深読みが大事なのです!」と、私は、何のために憲法九条があるのかもわかっていないこの編集部員に対し激怒しました(25)。」

 片山の「深読み」は正しい。佐藤自身が、「新帝国主義時代においても日本国家と日本人が生き残っていける状況を作ることだ。帝国主義の選択肢には戦争で問題を解決することも含まれる。これは良いとか悪いとかいう問題でなく、国際政治の構造が転換したことによるものだ」と述べている(26)。この男が「帝国主義者」であることに議論の余地はない。

 そもそも、佐藤は白井聡との対談(27)で、潮匡人の、「憲法を改正せずに、しかも一円の予算支出もせずに今すぐできる日本の防衛力増強のための三点セット」の提言、すなわち、内閣法制局の集団的自衛権解釈変更(現行憲法下でも集団的自衛権を保持しており、行使可能であるとする)、周辺事態法の「周辺地域」に台湾海峡が含まれることの明言、「非核三原則」を緩和して朝鮮半島有事の際には「持ち込み可」とすることを紹介した上で、全面的に肯定し、「国家が自衛権をもつのは当然のことで、政府の判断で、潮さんが言うようにこれだけ抑止力を向上させることができるのですから、潜在力を十分に使っていない状況で憲法九条改正に踏み込む必要はないと私は考えています」と述べている。護憲派ジャーナリズムでは、佐藤は「「国体維持」という保守の立場からの護憲派」と紹介されるが、これで「護憲派」ならば日本の保守派にどれほど「護憲派」は多いことだろう。佐藤の(潮の)主張が、極端な解釈改憲論であることは言うまでもない。護憲派ジャーナリズムのやっていることは、完全な詐術ではないのか(28)。ちなみに、斎藤貴男は前述の『週刊読書人』での記事において、この対談のこの一節について、「日本の伝統・文化である国家は、だからこそ法制化すべきでなかったのだとか、国家には生き残り本能が備わっている以上、憲法九条の改正など必要ないといった発想に惹かれた」と書いている。まるで伝統的保守の立場から、改憲に反対しているとでもいうような紹介の仕方であるが、これも詐術としか言いようのない紹介ではないか。



(1)岩波書店労働組合「壁新聞」二八一九号(二〇〇七年四月)。

(2)ブログ「猫を償うに猫をもってせよ」二〇〇七年五月一六日付。

(3)ただし、編集者は佐藤が右翼であることを百も承知の上で使っていることを付言しておく。〈騙されている〉わけではない。

(4)「佐藤優という罠」(『AERA』二〇〇七年四月二三日号)中のコメントより。

(5)インターネットサイト「フジサンケイ ビジネスアイ」でほぼ週一回連載中の〈ラスプーチンと呼ばれた男 佐藤優の地球を斬る〉(以下、〈地球を斬る〉)二〇〇七年三月一五日「6カ国協議の真実とは」。

(6)馬場公彦は、「一九三〇年代以降の中国侵略を皮切りに東アジアへの領土・利権の拡張をもたらした植民地主義を清算し、三〇年代に再帰しないために新たな東アジア地域主義を模索していく必要がある」と述べている(馬場公彦「ポスト冷戦期における東アジア歴史問題の諸相」『アジア太平洋討究』第四号、二〇〇二年三月)。馬場にとって、朝鮮の植民地化のプロセスや植民地支配は、「植民地主義」ではないらしい。佐藤の認識との共通性が露呈している。
  なお、『獄中記』では、「北朝鮮人」(一四頁)、「僕は韓国語でなく、朝鮮語を勉強した」(三七八頁)という表現がある。佐藤は、「韓国語とは語彙や敬語の体系が違う「朝鮮語」」(「即興政治論」『東京新聞』二〇〇七年九月一八日)とインタビューで答えているので(恐らく、朝鮮語のカギカッコは記者だろう)、佐藤は本気で「韓国語」と「朝鮮語」を別物としたいのだろう。この規定は、以下のような「国益」上の判断から来ていると思われる。「僕(注・佐藤)は、朝鮮半島が統一されて大韓国ができるシナリオより、北が生き残るほうが日本には良いと思う。統一されて強大になった韓国が日本に友好的になることはあり得ないからね」(〈緊急編集部対談VOl.1 佐藤優×河合洋一郎〉雑誌『KING』(講談社)ホームページより)。植民地支配・冷戦体制固定化による民族分断への責任を無視する、帝国主義者らしい発言である。なお、『獄中記』には、「本文の脚注には編集を担当した馬場公彦氏(学術一般書編集部編集長)につけていただいた部分と筆者(注・佐藤)が書き下ろした部分がある」(四六一頁)とあるが、こうした表記・用法に関する注やカギカッコはないから、岩波書店は会社として、こうした表現を認めていることになる。〈平和〉〈人権〉を放棄するのはさておき、〈学術〉まで放棄してしまうのはいかがなものか。

(7)〈地球を斬る〉二〇〇七年三月二九日「安倍政権の歴史認識」。

(8)斎藤貴男「佐藤優という迷宮・」『週刊読書人』二〇〇七年六月一日号。

(9)〈地球を斬る〉二〇〇六年七月六日「彼我の拉致問題」。

(10)佐藤優「六者協議と山崎氏訪朝をどう評価するか」『金曜日』二〇〇七年一月一九日号。なお、『金曜日』二〇〇七年九月二八日号は、「福田康夫はなぜ嫌われるか」なる「特別取材班」による記事を掲載しており、ここでは、「一時帰国・した五人の(注・拉致)被害者を北朝鮮に帰す方向で動いていた」福田について、「福田氏に「私の手で拉致問題を解決する」と(注・拉致被害者家族が)言われても、容易に信じられるはずがない」としている。また、二〇〇一年一二月の「不審船」事件についても、公海上での撃沈・殺人という日本側の問題に触れないどころか、当時官房長官だった福田の軟弱(?)な対応振りを非難している。かつては北朝鮮バッシングに抗していた『金曜日』が、〈佐藤優現象〉の過程で、対北朝鮮外交に関して路線転換した(しつつある)ことが読み取れる。近いうちに来るであろう日本と北朝鮮の手打ちにより、戦後補償が切り捨てられることは徹底的に批判されなければならないが、ここにはそうした問題を提起する足場すらない。

(11)〈地球を斬る〉二〇〇七年三月二二日「北朝鮮の情報操作」。

(12)「原田武夫国際戦略情報研究所公式ブログ」二〇〇七年五月一三日付。

(13)〈地球を斬る〉二〇〇六年四月一三日「北朝鮮からのシグナル」。

(14)佐藤優「対北朝鮮外交のプランを立てよと命じられたら」『別冊正論Extra 02決定版 反日に打ち勝つ!日韓・日朝歴史の真実』二〇〇六年七月。

(15)佐藤優・和田春樹「対談 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)問題をどう見るか」『情況』二〇〇七年一・二月号。そもそも特定組織への政治弾圧には原則的に反対すべきであると考えるが、「すでに在日は朝鮮総連の必要性を認めていないだけでなく、朝鮮民族が日本で生活していく上で有害な組織と認識し始めている」(金賛汀『朝鮮総連』新潮新書、二〇〇四年五月、二〇〇頁)などという言説が大手を振ってまかり通っている以上、朝鮮総連を潰そうという動きにはより明確に反対せざるを得ない。総連が数多くの誤りを犯してきたことは確かだが、在日朝鮮人団体(韓国国籍・朝鮮籍・日本国籍は問わない)のうち、大衆レベルでいまだに機能しているほとんど唯一の団体であることは明らかではないか。大衆団体も民族教育もない状況での(金賛汀の言う)「日本社会との共生」が、若い世代においては、ごく一部の知識層の韓国国籍・朝鮮籍保持と大多数の帰化に帰結することは自明だろう。総連バッシングを容認・黙認しているリベラル・左派の多くは、少し前までは「共生」「多文化主義」を擁護していたような気がするのだが。

(16)〈地球を斬る〉二〇〇七年八月八日「米下院の慰安婦決議(上)」。

(17)佐藤優「米「慰安婦」決議と過去の過ちを克服する道」『金曜日』二〇〇七年八月一〇日号。なお、佐藤の記事は、米下院「慰安婦」決議に関する梶村太一郎「これが「慰安婦」についての動かぬ史実 議員立法で補償の実現を」の次に掲載されている。決議に関する明白な両論併記であり、「人権」を掲げる同誌にとって記念すべき号と言える。なお、片山貴夫は、注(7)で引用した佐藤の「慰安婦」決議に関する文章を今年三月二九日に北村肇編集長にメールで示し、注意を促していたというから(「片山貴夫のブログ」二〇〇七年五月三一日付)、『金曜日』は確信犯だった、と言える。

(18)〈地球を斬る〉二〇〇七年八月八日「米下院の慰安婦決議(上)」。

(19)〈地球を斬る〉二〇〇七年八月一五日「米下院の慰安婦決議(下)」。

(20)「「慰安婦」決議再提出へ 米議会日本政府の責任問う・ 日本の妨害判明」『しんぶん赤旗』二〇〇六年一二月七日、「日本慰安婦決議案・阻止のためにあがくが…」『中央日報(日本語版ホームページ)二〇〇七年七月二〇日、ほか。

(21)森達也・大塚英志「「石橋・中曽根論争」をどう読むか」『新現実』Vol.4 二〇〇七年四月。対談は二〇〇七年二月九日付。

(22)『金曜日』二〇〇七年五月一一日号。

(23)ブログ「猫を償うに猫をもってせよ」二〇〇七年五月二四日付。

(24)佐藤が『金曜日』で連載「佐藤優の飛耳長目」を開始したのは二〇〇六年三月一〇号からであるが、興味深いことに、ほぼ同時期の二月一七日号で、国民投票法案に関する『金曜日』のスタンスが制定阻止から変化している(同号「編集後記」糟谷廣一郎執筆箇所参照)。この号から、手続法制定派の今井一が『金曜日』誌面に頻繁に登場し、二〇〇七年三月の国民投票法案公聴会には、与党の推薦で出席しているが、『金曜日』は今井のそうした活動の問題性を問うこと無く、国民投票法成立直後に発刊された二〇〇七年五月一一日号にも今井は登場して自説を展開している(坂本修との対談。対談自体は成立前の「四月二五日収録」とある)。その号の編集後記で糟谷は、「手続法成立反対の立場からは、(注・手続法制定派が)まるで改憲派に加担しているかのような非難があることは承知している。しかし、これから発議・投票と進むなかでは、解釈改憲と明文改憲による「九条改悪を阻止する」で一致しておきたい。同じ九条護憲の立場同士で近親憎悪のような不毛な対立はしたくない」と述べている。自分たちが国民投票法成立に貢献しておきながら、批判を封じるという醜悪な振る舞いを演じている。佐藤優への極端な入れ込みと全く同様に、「平和」「人権」を守る目的から見れば誤って敷かれたレールが、その後の展開で犯罪性と醜悪さを拡大していることは明白であるにもかかわらず、自分たちの誤りを認める最低限の勇気と社会的責任感を欠いているために、これまでの誤った方針を一層強化することで(当然、犯罪性と醜悪さはより一層拡大する)、自分たちは誤っていなかったと正当化しようとしている。『金曜日』は定期購読者が支えているらしいから、本気で「平和」「人権」を守りたいと考えている人間は、編集部の体制が変わるまで同誌の購読・購買を「ボイコット」すべきではないか。
  また、何か事件があった際に、専門家ではない有名人や文化人にコメントを求める傾向も、この頃から顕著になりはじめるように思われる。便宜上、この傾向を「護憲派のポピュリズム化」と呼んでおこう。例えば、この時期にライブドア事件が起こっているが、そこで「二人の識者」としてコメントが求められているのは、高村薫と香山リカである(「ライブドア事件をどう読み解くか」『金曜日』二〇〇六年二月三日号)。この後、香山リカは、『金曜日』誌面に頻繁に登場するようになる。こうした「護憲派のポピュリズム化」の中に、「護憲」や「平和」について有名人や文化人のメッセージを求める傾向、広告的なキャッチコピーによる「わかりやすい」護憲のメッセージを打ち出していこうという傾向を加えてもいいだろう。こうした傾向が相まって、現在の『金曜日』の、誰に読まれたいのか分からない、ぬるい誌面が構成されていると思われる。
  なお、二〇〇六年二月前後にある程度まとまった、こうした動きは、二〇〇五年九月一一日の衆議院選挙における自民党圧勝への驚愕・絶望から生じていると、ここでは仮説を立てておきたい。

(25)「片山貴夫のブログ」二〇〇七年六月二日付。なお、同ブログは、佐藤優を重用するリベラル・左派を徹底的に批判しており、私も多くを学んている。

(26)〈地球を斬る〉二〇〇七年六月六日「新帝国主義の選択肢」。

(27)『国家と神とマルクス』太陽企画出版、二〇〇七年四月、一九四~一九五頁。

(28)笑うべきことに、『金曜日』は二〇〇七年九月二一日号から「解釈改憲論に勝ち抜くための論理」なるシリーズを開始している。『金曜日』はまず佐藤と勝負すべきではないのか。
  • 2008.01.27 02:47 
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